光明真言四重釈 道範
それ真言教について四種の釈あり。一には浅略釈。二には深秘。三には秘中の深秘。四には秘秘中の深秘なり。此の本文は青龍寺の恵果和尚の作。善無畏三蔵の大日経疏の中に浅浅重重の釈の趣有。また不思議法師の第七巻の疏のこの意を出す。これらの釈義によって真言の意一切法に於いて四重の釈を知るべきなり。
第一に浅略釈とは。いまこの光明真言は大日如来、阿弥陀如来の心中の秘密呪なり。三世三劫の諸仏この真言を誦持して正覚を成し衆生を利益したまう。我らも又この真言を誦持し諸の罪障を滅して極楽に往生せん。また現世には富貴長寿の望を遂げ。鬼神病苦の憂いを除き。乃至有縁無縁の亡者等皆離苦得楽すること疑なし。此のごとく、諸の功徳是多し。不空三蔵の両本の儀軌。及び不空羂索経の第二十八巻に出ず。くわしくは彼の文を見るべし。
そもそもこの光明真言は功徳余法にすぐれ、諸行に過ぐ。且つ一二を出して勝劣をはかるべし。浄不浄をとわず、常に誦持せよと仏親しく進めたまふ。この光明真言は獨り余行にすぐれたり。彼の他力易業の称名も。不浄を論ぜず時所を選ばずと。人師の釈に出と雖も。いまだ仏説に見えぬなり。又この陀羅尼の持者は阿弥陀如来自ら荷負して極楽浄土に生ぜしめ三十二相八十の荘厳を具足して速やかに正覚を成ずと。余法の行人は命終の時に臨んで。観音の蓮台に乗じ。極楽に往生すといえども。九品の差別に随って悟りを得ること遅速同じからず。此のごとくの勝劣是れ多し。功徳の浅深又以って計るべき者なり。
本文に云く。彼の三世の中の諸仏菩薩等の五供養を修行したまう如く。我今この如しと。この文は香華灯明飲食の五供養について出だす。これに準じて知るべきなり。
第二に深秘の釈とは。此の真言一一の字義句義は。衆生一心の中に具足する万徳をのべたまふ。
句義について釈せば。
唵(おん)とは帰命なり。謂く。この心は即ち三身如来及び一体三宝なり。このごとく心を離れて十方の諸仏一切三宝なしと帰命の義という。
阿謨伽(あぼきゃ)とは不空なり。此の心は体性真実にして一切の法において虚偽なく。又自在に人を度してむなしく過ぎざる徳を備える也。
尾盧左曩(べいろしゃのう)とは遍照なり。此の心霊明にして法界に遍満し照らさざるところ無し。世間の日の普く照らすが故に一切の暗を除いて諸の営みを成す徳をこれ遍照の義というなり。
摩訶母捺囉(まかぼだら)とは大印なり。此の心は三世に改むることなく心性の万徳印現決定するは大印の義なり。大印とは本誓なり。
摩尼(まに)とは宝なり。一切諸の如意宝珠の体性明浄にして一切の宝を出すが如し。華厳経に一切の世間法の中に心より出生せざるもの無しと云は此の義なり。
婆頭摩(はんどま)とは蓮華なり。此の心は三界六道を輪廻すれども。煩悩の垢に穢されざる事、蓮華の泥中に生じて濁りに染まざるがごとく、諸の或染の水を出て心花開けたり。法華にいわく。世嫌の法に染まらざる事、蓮華の水にあるが如しと。
入嚩攞(じんばら)とは光明なり。此の心は自性の光明、生死の黒闇に障ぜられざるあって。大智円満して無量神通を現す。光明はこれその一也。余の神通は之に摂す。ある経に光明心殿と説く深心有とるをや。
鉢囉韈哆野(はらばりたや)とは転の義、易の義なり。此の心は本と智恵方便を備ふ。ゆえに諸の惑障を転滅して無量の大願を成満す。是その義なり。
吽(うん)とは菩提心金剛不壊の義なり。此の心は即ちこれ本有菩提心の体なり。自然に一切の魔障を摧破して法性の心宮に安住する事、金剛の堅固不壊なるがごとし。これ即ち吽字義なり。
若し字義に付して釈せば。此の心、念念生滅はオン字(梵字)流注の義なり。此の心本不生はア字(梵字)の義なり。此の心我執本不可得はボ字(梵字)の義なり。此の心、能所和合はキャ字((梵字)の義なり。このごとく二十三字義皆衆生一念の万徳を具す事をのべたまふ。更に別法にあらず。義軌に此の真言は万徳無数の如来の心中の秘密呪なりと云える義なり。以上第二重深秘の心に此の真言を誦持すればすなわち自心所具の煩悩を滅して、心中本有の仏性を顕し心性法爾の菩提を証し。心内所有の衆生を度すなり。しかれば法相には心外に法有れば生死に輪得し、一心と覚智すれば生死永く絶つと。三論には心外に六塵無し、理につけば塵識ともに此の意なしという。凡そ天台華厳等の一代の諸の顕教。乃至達磨所伝の禅宗の以心伝心の法門は。此の第二重の分斎なるべし。大師の釈に云く。一心の利刀を弄ぶは顕教なり。三密の金剛を揮うは密蔵なりと。本文に云く。三界唯一心。心外無別法。自心自供養。色心不二と。
第三秘中の深秘釈とは。今此の真言は五智如来の総真言。四種曼荼羅円満の呪なり。「おんあぼきゃべいろしゃな」とは中央大日如来法界体性智なり。「まかぼだら」とは東方阿閦佛大円鏡智なり。「まに」とは南方寶生佛平等性智なり。「はどま」とは西方阿弥陀佛妙観察智なり。「じんばらはらばりたや」とは北方釈迦牟尼佛成所作智なり。これすなわち一呪のなかに五佛の内証をあらわし、一明の中に万億の功徳を聚む。諸法の相大に約し。四種曼荼羅に付て。これを言ば。大日金剛頂経の意。一切如来に四種の秘密身あり。いわく大三法羯なり。五智の如来、六大所成の色は大曼荼羅なり。真言の句義の中の寶蓮華光明等の形は三昧耶なり。一々の文字は法曼荼羅なり。この三種の身行住坐臥の威儀。及び滅罪生善の功用はこれ羯摩なり。この四種曼荼羅の法門は法佛内証の密教より出でて、釈尊一代の顕教にはとくことなし。また四種法身となずけ四種智印という。これすなわち生佛無二の妙談。迷悟一如の極説なり。そのゆえは青黄赤白等の色は諸仏も衆生もへだてなく、方円三角等の形は凡夫も聖者も遞(かわる)べからず。真言種子名字等は因位も果位も同じく具す。行住坐臥の威儀事業等は迷人も覚者もみな斉。この義を観ずるときわが身即ち仏なり。仏即ち衆生なり。三無差別の理に疑いなし。即事而真の道外に求むべからず。これをもって四曼具足の真言なりと意を得て誦持するときはわが身も弔ところの六道四生の亡者も全く万億無数の如来の四曼荼の身に同じ。本来具足の万徳立ろに顕微るべし。
諸の顕教は只だ一心真如の理性に寄せて。纔(わずか)に生佛一如の理を明かし、今真言教は四曼三密の事相を以って、即身成仏の旨を宣ぶ。しかれば大師の釈に云く。三種世間は皆是仏体。四種曼荼は即ち是れ真佛なりと。又云く。法佛の三密は四種の言語も説くことあたわず。曼荼の四身法身葉九種の身量も縁ずることを得ずと。本文にいわく。我今四法身諸仏同一体と。四法身とは四種曼陀羅法身なり。
第四秘秘中の深秘釈とは。今此の真言は六大法界の底。法性塔婆の玄極なり。此の故に一々の声字は歴劫の談にも尽きず。一々の名実は塵滴の佛も極めたまうこと無し。六大無碍なり、いずれのところかこの真言に非ざる。五智輪円たり。なにものかこの陀羅尼を離れるべき。この真言二十三字ありといえども五大五智五字五佛を出でず。句を分けることさきのごとし。ただし先にはすなわち四曼差別について名相を出し。今は又、六大平等の実体に約してこれをあかす。これを名て本不生際という。または法界体性という。大師の釈に曰く。本不生際とは心虚空の如くして不生不滅なり。この本不生は不可得なり。阿尾羅吽欠(あびらうんけん)なりと。又云く。上法身に達し、下六道に及ぶまで。しかれどもなお六大を出でず。故に佛、六大を説いて法界体性となしたまふ。また善無為三蔵のいはく、金剛頂の肝心、大日経の眼精、最上の福田、殊勝の功徳、唯だ五字金剛の真言にあり。もし一遍を誦すれば一切経百万遍を読むに同じと。この観に住するとき、凡聖迷悟隔てなし。諸仏衆生一体なり。しかれば大師の釈み云く。鏡中の影像灯光の摂入の如し。彼の身すなわち此の身、此の身即ち彼の身。佛身すなわちこれ衆生身。衆生身すなわちこれ佛身なりと。これこの意なり。この六大の中、五大は色法なり。このゆえに一切の法においておのおの別に其の徳をあらわす。識大は心法なり。五大に遍す。覚了を義となし、月輪蓮華を識大心法の形となす。諸尊みな蓮華月輪に座したまう。この義なり。そうじてこの五輪五大は諸法に遍満す。仏にあっては五智五佛。衆生にあっては五道五陰。天にあっては五星。地にあっては五嶽。人には五蔵ないし五常、五戒、五転、五位、五根、五塵、五識、五方、五時、五色、五味、五音等なり。一切の法これを離れず。且つこの陀羅尼について之を言はば。いずれの字かaiueo(いずれも梵字)を離れ、いずれの声か宮商角徴羽(古代中国の音階、五声という。宮 は 君主 、商 は 臣下、角 は 民 、徴 は 事 、羽 は 物を表すとされる) の響きに非ざる。しかれば今、この五智五大の声字、実相なりと知れば、いずれの声字かこの真言にあらざる。十界の言語、六塵の文字みな悉くこの真言なり。大師の釈にいわく、一切の音声は五大を離れず、五大は即ちこれ声の本体なりと。安然和尚の解釈に、真言の人は風声水音を聞くも法身の声と知って、阿字本不生の理に入る。若しこの義を知らざれば頓悟の機にあらざるなり。是の故に心無き砂もこの陀羅尼を以って加持すればすなわち六道四生の亡者ことごとく往生成仏の益を得。音ある鼓はこの陀羅尼を書するに依って四重五逆の罪を滅し、聞く者は速やかに見佛聞法の位に至る。これすなわち法然六大の内証の薫力、遍一切処難思の縁起なり。元暁大師の云く。他作自受の理無しといえども、縁起難思の力有り。信ぜずんばあるべからず。後悔及ぶこと無しと。この意なるべし。この六大は胎金両部の法門なり。いわく五大は色法、胎蔵界、理なり、陰気を主さどる、地なり、定なり。(五大に対して)識大は心法、金剛界、智なり、陽徳を象どる、天なり、恵なり。凡そ一切因縁相成の諸法。有情非情。依正因果。昼夜剛柔。甲乙出入。父母男女。明暗内外。前後左右。凡聖迷悟。自行化他。煩悩菩提。生死涅槃等の二法はみなこれ両部大日の化現、胎金蓮月の変相なり。よって即身義に、六大の真言、a vi ra hūṃ khaṃ(あびらうんけん、梵字)と。はじめの五字(a あvi びraら hūṃうん)は胎蔵。終わりの一字(khaṃけん)は金界なり。五字の中に本は始めのa(あ)字なり。六大広しといえどもa (あ)hūṃ(うん)の二字におさまれり。いまこの光明真言も文字大多しといえども、はじめのa (あ)字、終わりのhūṃ(うん)字を体となす。これすなわち両部一体の真言、胎金不二の明呪なり。大師の釈にいわく。毘盧遮那経にはa (あ)字を大日となし、hūṃ(うん)字を金剛薩埵となす。金剛頂経にはhūṃ(うん)字を大日となし、a (あ)字を金剛薩埵の種子となす。これ互に主伴となる義なり。この二字は法爾出入の密言。本有所持の秘明なり。しかればすなわち何れの世、いずれの時か始めてこの真言を誦し、またいずれの処いずれの人かこの陀羅尼を持せざる。この二字について観門不同なり。或いは出息a (あ)字、入息hūṃ(うん)字、あるいは出入一a (あ)字也。或いは出入同じく一hūṃ(うん)字なり。これみな機根性欲にしたがっていずれの門も相違あるべからず。ただし二字をもって両部出入と為れば、不二の観心に疎く、修行一純ならず。このゆえにしばらくa (あ)字の一字をもって光明真言となす。一切諸仏菩薩無量無辺甚深内証の真言、皆a (あ)字に納る。儀軌にいわく、この真言一遍を誦すれば、万徳無量の大乗経、万徳無量の陀羅尼、万徳無量の法門を誦するになるとす。この意なるべし。大日経に云く、a (あ)字とは一切真言の心なり。これより無量の真言を遍出す。大師の釈に曰く。a (あ)字とはこれ一切の母、一切声の体、一切実相の源なり。およそ最初に口を開くの音、皆阿の声あり。もし阿の声を離れぬればすなわち一切の言説なし。大日経疏にいわく、一切の言語を聞く時、即ちとき、阿の声を聞く。このごとく一切の法の生ずるを見る時、すなわち本不生際を見る。すなわちこれ如実知自心なり。如実知自心は即ちこれ一切智智なり。故に毘盧遮那は唯この一字を真言となしたまふ。智証大師の釈にいわく。密教の要は、阿字に過ぐることなしと。a (あ)字本不生の観門に入る時は、六大法界帝網重々、色心実相、生佛如如なり。大師の釈にいわく、諸仏は法界の身なるがゆえにこの身も諸仏の身中に在り。我も法界の身なるがゆえに諸仏も我が身中にありと。真言行者よくこの観をなすべし。
この第四重について義門多しといえども、始めは一切無量の真言、光明真言二十三字に納めて、次は光明真言の二十三字を五字の明(a vi ra hūṃ khaṃ)に籠め、五字を二字(a あhūṃうん)の要に約して、ついには二字を釈して一阿(a あ)字に極む。是則ち一多円融総持の秘術。広略無碍瑜伽の密蔵なり。大師の釈に云く。一にして無量なり。無量にして一なり。しかれどもつい雑乱せずと。慈覚大師の釈に云く。これを一塵に約むれば一塵なお大なり。これを法界に舒れば法界かえって少なしと。この意なり。しかれば法界阿字本不生の観門に住して、この光明真言を誦持すれば,世間出世間自行化他無量無辺の一切の所願悉く皆円満す。これを真言最上乗の要心と謂つべし。秘秘中の深秘の観門なりと。有相無相浅深重重なり。本文にいわく。実相周遍法界海。法海即是諸妙供。供養自他四法身。三世常恒普供養と。
以上四重の釈。本文により東寺一流の相伝に任せて両部の大経を引用し、先徳の解釈に拠っていささかこれを註す。見ん人誤りを直し謗心をおこすなかれ。