福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

十二月四日は清和天皇が金剛輪陀羅尼を唱えて崩御

2024-12-04 | 光明真言の功徳

元慶四年十二月四日は清和天皇が金剛輪陀羅尼を唱えて崩御された日です。

以下日本三代実録に依ります。「(元慶四年十二月四日)同日、申の刻(15時)太上天皇圓覚寺に於いて崩ず。時に春秋三十一。天皇風儀甚美、端儼神の如し輙。性、寛明仁恕、温和慈順、顧聞に因に非ず、発言不輙、挙動の際は必ず禮度を遵す。好く書傳を読み釈教に潜思す。鷹犬漁猟の娯は未だ嘗て意に留めず。・・・僧正真雅法師有り、降誕の初めより聖躯を侍護、奏して佛寺を建つ。額して貞観寺と曰ふ。・・真雅遷化し復た僧正宗叡法師有り。入唐求法し真言を受得し天皇に奉勧し、香火の因を結ぶ。・・朝夕の膳は菜菜御在、妍状豊姿顔色を賜らず。・・・遂に山荘に御し、落飾入道。是の時僧正宗叡侍焉。山荘は是圓覚寺也。天皇頭陀に寄事、意は切に経行に在り。便ち各山佛壟を歴覧せんと欲し、是より山城国貞観寺より大和国東大寺に至る。香山・神野・比蘇・竜門・大滝・摂津国勝尾山、諸の名山有る處、経廻し佛を礼し、或いは處に留住し旬を踰へて乃ち去る。勝尾山より山城の国海印寺に帰り、俄かに丹波の国水尾山に入り、定めて終焉の地と為す。自後、酒酢鹽豉(えんし、味噌・納豆)を御さず。二三日を隔て一に斉飯を進め、六度に苦修す。焦毀削るがごとし。業類を断除す。禅念逾劇、恒に此の身を厭ふ。膳を御さずして之を捨んと欲す。夫れ沙門修練者の難行する所、緇徒精進者の高述と為すに至る。尊は極めて盡之を踏む。疾に寝て太だ漸く近侍僧等に命じて金剛輪陀羅尼(注)を誦せしむ。正しく西方に向き結跏趺坐、手に定印を結びて崩ず。宸儀動かず、儼然として生けるが如し。念珠猶懸かりて御手に在り・・遺詔、中野に火葬、山陵を起こさず・・・」

注、金剛輪陀羅尼とは罪障消滅の陀羅尼。「のうまく、しっちりやぢびきゃなん、たたぎゃたなん、あんびらじびらじ、まかしゃきゃらばじり、さたさた、さらていさらてい、たらいたらい、びだまにさんばんじゃに、たらまち、しったぎりや、たらん、そわか」

神皇正統記には「第五十六代、清和天皇。諱は惟仁これひと、水尾の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子あきらけいこ〈染殿そめどのの后と申〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅の年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐堯たうげうの時、虞舜ぐしゆんを登用て政とをまかせ給き。これを摂政と云いふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及び大甲を輔佐ふさす。是は保衡と云〈阿衡とも云ふ〉。其心こころは摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す〈成王を負おひて南面せられけりともみえたり〉。漢の昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申すめる。本朝には応神うまれ給て襁褓にましまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝へたり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸の皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備そなはりて天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子中なかの大兄おほえの皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。但し此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛の大将房前、其子大納言真楯(またて)、その子右大臣内麿、この三代は上かみ二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣〈閑院の左大臣と云いふ。後に贈太政大臣〉藤氏の衰へぬることをなげきて、弘法大師に申まをしあはせて興福寺に南円堂をたてゝ祈申いのりまをされけり。此時明神役夫にまじはりて、

補陀落の南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪

と詠じ給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源みなもとの姓しやうを給たまはりて高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人たれひとかうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司さうじあり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教をしふる所也。彼大学の南にこの院を立たてられしかば、南曹とぞ申める。氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及および氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男とものよしをと云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき〈太政大臣良房、左大臣信まこと、右大臣良相、信(まこと)の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼やかしむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰せて、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽(おどろきあはて)られけるあまりに、烏帽子直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無止(やんごとなき)ことになん。天皇仏法に帰きし給て、つねに脱屣(だつし)の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授さづけ奉らる。素真と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔隋煬帝の晉王と云し時、天台の智者に受戒して惣持と云名をつかれたりし、よからぬ君の例ためしなれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食して勅使をつかはし、その所を点じ、もろもろのたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬ぎせらる〈鎮坐の次第は上にみえたり〉。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行しましゝが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おましましき。〉

 

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