観音霊験記真鈔1/34
観音霊験記真鈔 松誉(松誉巌的・・『国書人名辞典』より。浄土宗僧侶。生没年未詳。貞享―正徳(1684-1716)頃の人。法諱、巌的。法名、松誉。江戸檀林に掛錫し、のち上州館林善導寺に学ぶ。元禄頃、大阪生玉に移り、諸書を著す。また泉州堺へ移り、庶民教化・宗義顕揚に努めた。)
観音霊験記真鈔序
夫れ昔より世に普く西國三十三所の権輿(濫觴)は忝けなくも花山法皇の回りそめさせ玉ふより始まり、都内にては後花園の御宇永享三年1431の頃より初りける。是則ち観音の三十三身を標して衆生済度の御方便無垢清浄の慧日の普きが致す所也矣。爰に數ならぬ孥(やつがれ)、頼みて観音の大悲に懸けて観世音の悲願を仰ぎ、籠り居る柴の網戸の明け暮れに一心称名怠らず二世安楽の望深し。然りと雖も生弱にして三十三の行脚に堪ず。責めての餘に盛年の比、京兆に於て、和字の霊験記を五巻に述して愚尼の為にす。今復浅智短才を省ず諸經論中より観音の功徳を考出して後学初心の助講に備へしむる者也。故に題して真鈔と號す矣。若し爾者自行化他の利益、大慈大悲の御尊意にもなどか叶はであるべき乎。殊に洛陽三十三所の歌無かれば是をつらぬ。されども予(松誉)私に為さず、在原の跡を継ぎし人の詠歌也。若し誤りありとても和歌の道なれば仏も赦し在しませ。況や其の余の人に於いておや。眉を挙げて哢(あざけ)ること莫れ。爾云。旹(とき)に寶永二歳乙酉1705に次(やとる)初夏の日、摂州坂城蘭若の燕居、沙門松誉巌的謹んで自ら題す。
観音霊験記真鈔総巻目録
巻の一。一番 紀州那智如意輪堂。二番 紀州紀三井寺。三番 紀州粉河寺。四番 泉州槇尾寺。
五番 河州葛井寺。六番 和州壺阪寺。七番 和州岡寺。
巻の二。八番 和州長谷寺。九番 和州南円堂。十番 山州三室戸寺。十一番 山州上醍醐 。十二番 江州岩間寺。十三番 江州石山寺。十四番 江州三井寺。十五番 京今熊野。
十六番 京清水寺。
巻の三。十七番 京六波羅蜜寺。十八番 京六角堂。十九番 京革堂。二十番山州善峯寺。
廿一番 丹州穴太寺。廿二番 摂州総持寺。廿三番 摂州勝尾寺。廿四番 摂州仲山寺。
廿五番 播州清水寺。
巻の四。廿六番 播州一乗寺。廿七番 播州書写寺。廿八番 丹州成相寺。廿九番 丹州松尾寺。三十番 竹生島。丗一番 江州長命寺。丗二番 江州観音正寺。丗三番 江州華厳寺。
西國三十三所の権與(はじまり)
抑々安和二年969の比、大和の國は長谷寺の開山徳道上人百萬部の法華経を書き立て玉ふ。其の御供養の為に一萬人の僧を集め玉ふべしと也。但し能化に請じ申すべき人なしと思召す折節、徳道上人を閻魔王へ招じ申されて言はく、是へ請じ申す事別の子細に非ず。百萬部の法華経供養あるべき由承り候。然れば御導師には播磨の國書写の開山性空上人を請じて御供養あるべしと、閻魔王言(のた)まへば、徳道上人限り無き悦びあって頓て性空上人を大和國に招待あって御供養なされしとなり。結願の後、徳道上人閻魔王へ参扣あって言はく、王公の指図に依りて貴き導師を請じ奉る故に、其の功徳にて罪障深き者共其過を滅し浄土に生んことの悦び、称計(あげてかぞ)ふべからず、と言まへば、其旹(そのとき)閻魔大王の云く、末世の衆生成仏すべき為に御布施を参らすべきなり、夫れ大日本國の中に生身の観世音三十三所に在す也。此の観音に一度順禮を申したらん者は必ず浄土へ迎へんとの御誓願也と。此の由、日本へ帰り遍く衆生に勧め給ひて順禮をさせ玉へと日記を注し、徳道上人に渡し奉り玉へば、上人の云く、有り難く存じ候へども末世の衆生、疑ひあるべきの間、証文一筆給はれとあれば、閻魔王身より血を出し誓詞を書き上人に渡し玉へば、上人喜悦の眉を開き頓(やが)て日本に帰り、摂州國仲山寺に収め玉ふ矣。寛和元年985の比熊野権現は賤しき凡夫と現じ衆生済度の為に、徳道上人仲山寺に収め玉ふ日記を申し出して始めて順禮をし玉ふ。其の歳の末に花山の法皇御歳十九にして出家なされ、神异(神異)ある僧を尋ね玉へば河内國石河郡聖徳太子の墓所に勅使を立てられしに、何れの國とも知らず聖一人忽然と来り佪(たたず)めり。勅使彼の聖の姿を見給へば、眼より金色の光さし玉ふ人なり。此の人を召し具して上洛あり。帝御覧あれば眼より金色の光さし玉ふ人なれば則ち御名を佛眼上人
と宣旨をなされ下され玉ひて、戒師の御房になされしとなり。帝十九歳の時、玉髪を落とし御出家なされ、則ち御法名をば入覚叡信とぞ號し奉る。其の時佛眼上人の勧めに依りて仲山寺に勅使を立てられ件の日記を拝見ありて、永延二年戌子の歳988三月十五日花山の法皇大裡を出御なされ、佛眼上人を先達として三十三所の観音の順禮を修行し玉ふ。其の時佛眼上人言く、三十三所の観音の御前にて御歌一首宛遊し候へとあり。先ず法皇の御製に
「 補陀洛や岸うつ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬」
と詠じ玉へば、又佛眼上人の歌に美濃國谷汲の観音の前にて
「今までは 親と頼みし おいずるを 脱(と)きておさむる 美濃の谷汲」
と讀ませらるるとなり。委しくは三十三所の御詠歌を両吟にて遊ばされしと傳聞く也。之を略す矣。如是の順禮結縁ありて三月十五日より六月朔日まで七十五日也。是を規矩として順禮あるべきなり。偖(さて)佛眼上人大裡に歸玉ひて一日逗留ありて還らんとし玉へば、法皇暫くと留め給へども熊野山證誠殿に用ありとて、佛眼上人は化し去り給ふ。其の後法皇の宣言には、此の間の佛眼上人は熊野権現の変化にて在すなり。斯かる貴き事は世に有るべからず。今一度熊野参詣すべしとて御用意有りて終に熊野山證誠殿に著玉ひ、法皇謹んで御祈念ある様は、仰ぎ願はくは今一度佛眼上人に対面せさせて給びたまへ、若し対せざれば再び都に帰らず、と一七日参籠ある所に満ずる夜半に熊野権現玉の簾を挙げて新に現れ出させ玉ひ、法皇に拝させ玉ふ。御託宣ありて、抑々順禮の輩は今生にては安楽の身を受け未来には佛果に至るべし。一度三十三所の順禮せし人は眉の間と足の裏とに金色の梵字すはるなり。一番にアビラウンケン(梵字)、二番に南無阿弥陀仏、三番には南無大慈大悲観世音と。何なる罪深き衆生も順禮の功力に依て成佛する事疑無者也。此の間の引導の僧は則ち我が示現なりとて寶殿の帳閉じ玉へば、法皇餘の有り難さに其の後那智山如意輪堂に千日御籠りありて下向の旹(とき)重ねて又三十三所の順禮をなされしとなり。熊野権現も賤しき凡人となり、又佛眼上人と現じて二度順禮し玉ふ。法皇も二度遊ばされしと也矣。其の外天照太神も熊野権現も三十三所の観音前に毎日御影向あるべきとの御誓なり。又富士権現の御託宣にも順禮の功徳廣大なる故に十徳を挙げ玉ふ
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此の外深妙なる功力ありと雖も筆紙に盡しがたし。略して仲山の縁起を記す事左の如し矣。冀はくは大慈大悲の観世音菩薩今此霊験記の鈔の功に依りて述者沙門松誉が愚身を助給ひて二世の悉地を成就し玉へと云々。
十七夜千手観音「きりく(梵字)」智拳印「おんばざらたらまきりく(梵字)」
十八夜聖観音「さ(梵字)」内縛印「おんあろりきゃそわか(梵字)」
十九夜馬頭観音「きゃ」八葉印「おんあみりとどばんばうんぱった(梵字)」
廿夜十一面観音「きゃ」外五古印「おんろけいじんばらそわか(梵字)」
廿一夜如意輪観音「ばん」無所不至印「おんはんどまじんばらうん(梵字)」
廿二夜准胝観音「だく(梵字)ママ」内五古印(本来は「ぶ」「しゅ」)「おんきゃまれいびまれいそんでいそわか」