観音霊験記真鈔2/34
観音霊験記真鈔巻の一
西國一番那智山如意輪堂 此の如意輪の御長さは一そう指半と云へり。一そう指半は金にて一尺二寸也。是周の世の尺なり。佛の長さは金で極る也。
先の如意輪観世音菩薩は謂く如意輪、具には義浄三蔵所譯の如意心陀羅尼呪経の説には、如意宝珠の徳義に依順して名とす、如意宝珠とは寶思惟(「宋高僧傳」に北印度迦濕彌羅國(今の人。剎帝利種。幼にして出家し習禪す。具足戒を受けた後、律品に精通,兼ねて咒術を能くす。武周長壽二年(693)洛陽に来たり天宮寺に住む。此後、中宗神龍二年(706)天宮、福先等寺に於いて,「不空羂索陀羅尼經」等7部9卷を訳す。此後は再び譯經せず,專ら禮誦す。開元九年(721)卒。壽百餘歲。)所譯の如意輪経には振多を如意と翻ず。故に知りぬ、如意珠は寶中の王寶、摩尼は是寶の梵語也。故に寶の名を以て別に如意と目(みつ)くる故に如意珠を呼んで亦は寶珠と名くるなり。探玄記に云く、摩尼は是珠寶の通名なり、通を簡んで別を取る故に如意摩尼と云ふ、と(華嚴經探玄記卷第二「如意者。一如能化意平等救故。二如所化意求皆得故。摩尼是珠寶通名。簡通取別故。云如意摩尼。」)。智光の疏二に云、摩尼とは是如意の意、今體用を挙げて相似の法を顕す。摩尼は體に就き、如意は用に就く(「以上」)。大論に云、如意の珠の状は芥栗の如矣。止観の五に云、如意珠の如きは天上の勝寶の状、大功能有り、浄名の五欲七寶の琳琅は内に畜ふるに非ず、外より入るに非ず、前後を謀らず、多少を擇ばず、麁妙を作さず、稱意豐儉降雨穰穰たり、不添不盡、是色法尚能く此の如し、況や心神霊妙なり、寧ろ一切法を具へざらん耶「(「摩訶止觀五」「云如如意珠天上勝寶状如芥粟有大功能淨妙五欲七寶琳琅。非内畜非外入。不謀前後不擇多少。不作麁妙稱意豐儉。降雨穰穰不添不盡。蓋是色法尚能如此。況心神靈妙。寧不具一切法耶。」)。起信論の注疏下の二に云、譬ば大摩尼寶の體性明淨にして鑛穢の垢有り、若し人寶性を念ると雖も方便を以て種々に磨治せざれば終に浄を得ることなし(大乘起信論「譬如大摩尼寶體性明淨。而有鑛穢之垢。若人雖念寶性。不以方便種種磨治終無得淨。如是衆生眞如之法體性空淨。而有無量煩惱染垢。若人雖念眞如。不以方便種種熏修亦無得淨。以垢無量遍一切法故。修一切善行以爲對治」)。恵遠の疏に云、大摩尼寶體性浄とは是は真如の體に喩ふ。而して浄汚の垢ありとも是は心煩悩の為に染せらるる所なり。方便を其の縁修萬行に喩ふ、今の如意に合すべし(大乘起信論義疏下之下「大摩尼寶體性明淨者。此喩眞如體。而有鑛穢之垢者。是心爲煩惱所染也。方便喩其縁修萬行。合中可解。」)。
西國三十三番の第一、紀州室郡那智山一尺指半、如意輪観音堂は裸形聖人の開基なり。夫れ熊野三社権現は和光の燈、月氏に挑げ同塵の光日域に照らし玉ふ。昔は天竺摩訶陀國の主、慈悲大顕王と言し大王なり。然るに彼の國、一つの神剣を東に投げ神徳感應の所に留るべしと誓ひ、遥かに飛び去りて紀伊國室の郡に留まる。今の神倉是なり。亦本宮権現は本地阿弥陀如来、新宮権現は本地薬師如来、那智山の飛瀧権現は本地観音菩薩なり。三身一體にして物に應じ利益し給ふ。殊に新宮と申し奉るは景行天皇の御宇(4世紀前半頃)に何とも無く小船悪風に放され来る。其の船中より七人熊野地にのぼりけるが六人は本國に歸りける。中に於いて裸形上人のみ一人扶桑に留まり玉ひぬ。然(しこう)して本宮十二所を移し奉る。或時裸形上人次の宮に参籠し玉へば忽ちに御本地六臂如意輪の像、光を放ち肩に移り玉ひて、聖人に告げて言はく、我は是補陀落山の主如意輪観音なり、聖人の信感に依りて此に出現せり。汝一宇を建立して我像を安置せば、四来の徒、我を信仰する徳に依りて如意に利益すべし。殊に五障垢穢の女人を助けんと(妙法蓮華経』 提婆達多品「女人身に五障有り、一には梵天王となることを得ず、二には帝釋。三には魔王。四には転輪聖王。五には佛身」)。縦使末世の衆生我を念ずる・現には彌陀の守護に預かり當には西方浄土に導くべしと、霊験新たに教へ玉ふ。聖人奇異の思ひを成し奉り信心歓喜の眉を開きて今の如意輪堂を造功し閻浮檀金の大悲の像を御本像とし玉ひて日々に利生厚く、靈應今に至て盛んなる故に三十三所の第一に安座し玉ふなり。況や彼の那智山の躰たらく、妙法最勝の岸高くして、樹頭盛朶の勢を遷し、三重百尺の水晶はけいそく白露の波に渾ず。此處は補陀落山の東門総じて光験無双の庭、利生殊勝の砌なり。俱に黄金瑠璃の玉を抛って跡を室の海濤に垂れ、居を南海の濱に卜す。三山十二の玉の間垣(熊野三山十二宮か)一一として八萬四千の霊光堆し。之を以て神験疑はず、谷の響に應ずるが如し。佛力無限、月の水に移るに似(をなじ) 。南無帰命頂礼観世音云々。已上縁起竟んぬ。或が云く、大己貴の尊瀧水より如意輪の像を頂きて出現し玉ふとなり(熊野那智大社には如意輪堂があり、飛瀧神社には社殿がなく、滝そのものが大己貴命とされる)。二事少しく異なると雖も並べ記して疑敷きを傳ふる者なり。又中興は報恩大師(奈良時代の僧。孝謙天皇の勅許を得て備前四十八ヶ寺を整備、多数の寺院を開創した)、願主は嵯峨天皇也といへり。
歌に「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智の御山に響く瀧津瀬」
私に云く、三十三所の和歌は佛眼上人と花山法皇とに御両吟の詠歌と言傳ふるなれば、手尓於葉(てにをは)の少し悪き事ども之有りと雖も、今改るも恐れ多し。故に本の如くに吟詠ずべし。各々権化再来の御製仰で之を信ずべし。已上の歌の意は上の五文字は観音の浄土補陀落山を指すなるべし。言意は此の三熊野も補陀落も古今一般にして彼の浄土の岸うつ波の音も那智の瀧勢の響も一所に渾してさながら観音の浄土なる心地して有り難き歌の感情自ずから三十一字に顕れたるなり已上。後拾遺の歌に
「忘るなよ忘ると聞けば三熊野の瀧の濱ゆふ恨み重ねん」(後拾遺和歌集第十五 雑一、道命法師)
又後拾遺集定家の歌に
「時の間も夜半の衣の濱ゆふや 歎きそふべき 三熊野の浦」(「建保名所百首」に定家の歌としてあり)
已上補陀落の事、西域記に出ず。下に至り辨ずべし。泉式部(ママ)三熊野に参詣する事三十三度なりと彼の山の縁起に見へたり(出典不明)。一日麓まで至りて月の障りとなる故に
帰洛せんと欲する時、式部が歌に
「浅間しや 五障の雲の晴やらで 月のさはりと成るぞかなしき」(雑雑集)
と詠じければ忽ち熊野権現出現し玉ひて、御返歌に
「本よりも 塵にまじはる我なれば 月のさはりも くるしからまじ」(雑雑集)已上三國傳記等の意。
私に案ずるに神と云ひ佛と申すに皆是水波の隔なり。然らば和光の影廣く一體分身現はれて衆生済度の方便たり已上。
西行法師那智に至り花山法皇の御廟所を吊(ともらひ)て歌に
「よしや君 昔の玉の跡とても かからん後は 何にとかせむ」
法皇の御廟所忽ち動じて御返歌に(異本讃岐院の御廟とあり)
「濱千鳥跡は都に帰れども 身は松山に ねをのみぞなく」已上或書の意。(以上二通の歌は雨月物語にある西行が四国霊場第八十一番白峯寺の崇徳院御陵を尋ねた時詠んだとされる歌)。
右の歌最も哀傷深し。天子すら崩御の後は此の如し、況や常人に於いてをや。唯観ずべきは無常なり。此れ等に至って後人強く観化すべきものなり。次に三十一文字の和歌の始めは素戔嗚尊の出雲八重垣の詠より起これり。歌に
「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣造るその八重垣於」已上日本紀神代の巻に出ず。
私に云く。此の歌に付いて傳授あり。筆點に題せず、粗(ほぼ)此の義を云はば、古今の序にては「出雲八重垣妻籠に八重垣造る」と濁りて読むが傳なり。(古今和歌集仮名序「よにつたはれることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらがねのつちにしては、すさのをのみことよりぞおこりける。ちはやぶるかみよには、うたのもじもさだまらず、すなほにして、ことのこゝろわきがたかりけらし。人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。」)。又は神代の巻にては唯いつもやへがきつまこめに八重かき、と澄んで読むが傳なり。所詮此の歌より三十一字の詠は始まれり。されば經詩歌の一同を言はば、天竺の靈文を以て唐土の詩賦とし、唐詩を以て吾朝の歌とす。故に三國を大きに和らぐと書きて大和歌とす。故に真如の一滴より三細六麁と降り、太極の一露より二気五形(陰・陽と木・火・土・金・水)と顕るる神代の始めも尒有るぞかし。故に貫之も、苔の露の滴りより言興りて末には井堰に波を湛へ、堤に水起こることを示す。目に見へぬ鬼神をも哀れと思はせ勇武士(たけきもののふ)の心をも慰むるは歌の道なりといへり(古今集仮名序「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」)。故に詩歌の道にも湛然寂照の徳之有り。古人云く、詩の外に禪なく、禪の外に詩なし、と云々(出典不明)。佛若し和國に出生し玉はば和歌を以て陀羅尼と為し玉ふべし。故に思益經に云、総持もと文字無し、文字総持を顕す矣(大般若波羅蜜多經第六分現化品第十二「總持無文字 文字顯總持 由般若大悲 離言以言説」)。何くの文字か総持を顕す徳なからんや。故に一行禅師云く、隨法の語皆多羅尼と釈し玉へり矣。況や和歌は是神國の風俗なれば天竺の佛も和國に来り玉ひては和歌を詠じて衆生に佛道をしめしたまへり。已に善光寺の如来等の如し(善光寺縁起にある善光寺如来の御歌「五十鈴川清き流れはあらばあれ我はにごれる水にやどらん」)。縦使ひ佛者なりとも日本の風俗を學ばずんばあらじ。此の如くの理を覚知して西國三十三所の歌を講ずべし。予(松與)盛年の比、京兆に在して和字を以て三十三所の霊験記を輯む。然りと雖も學解の為に非ず。今又ある人の懇望に依りて真鈔を篇する事尓也。經詩歌一道の義、愚(松與)作諸文要解第二の巻に曲(くわし)く之を明かす。往て見るべし。予未だ那智山に詣でず。思忡忡(ちゅうちゅう)たり。責めての餘りに坐しながら詩歌を綴りて遠く如意輪大悲像を拝謝したてまつる。詩に云く、聞説(きくならく)紀州那智嵩丈瀧聲濯爾として圓通を激すと。圓通五五普門の境、緑水青山月碧空
歌に「聞く時は瀧の流れも自ずから 音すや法の響成覧」矣。