先日、満州で家族が自決して孤児となった女性が現地の人に育てられ、大学まで出してもらい教師となって一生を送り今では子や孫に囲まれて幸せに過ごしているという番組がありました。
その人は家族が自決したのち、さ迷っているときにたまたま通りかかったおじさんたちに助けられたというのです。たまたま通りがかったその人たちがいい人であったからその後しっかりした家庭の子供として育てられたのです。こういうところに個人ではどうしようもない「縁」があるといわざるを得ません。
卑近な例では結婚なども不思議な縁のしからしむるところです。また最近では自分の孫をみてもどういう縁の積み重ねでこの可愛い子がここに生まれるに至ったのかと不思議に思う事も度々です。
また、自分の人生を振り返っても節々にこの人がいなかったら今の自分はないと思う恩人が何人かいます。どうしてその時その人がそこにいて自分を助けてくれたのか?その人がそこにいなかったら今頃はどうなっていたか?その縁にめぐまれなかったらどうなっていたか?考えるとぞっとすることもあります。
もっと不思議なのは神仏とのご縁です。お参りしたお寺には必ずあとから不思議なご縁を頂いています。求聞持を行じた太龍寺は10年くらい前にお遍路でお参りしたとき「ああ、こんな素晴らしいお寺で行ができたらなあ、しかし伝手もないし無理だろうなあ」と考えたその2年後に思いもかけず人伝手の「縁」を頂き、求聞持を修行できることになったのです。
護国寺も何十年もまえにたまたま近くに住んだので、お参りや鐘突きをしていたのですが、そのご縁でまた子供が近くに住むことになり、講でも毎月護国寺本堂にお参りできるようになったのです。四国遍路も一度徒歩遍路でご縁を頂くと毎年お参りできるようになりました。秩父や坂東霊場も一度お参りすると何度もお参りできます。秩父などは納経帳が真っ赤になり回数は分らなくなりました。坂東も4回目というご縁を頂いています。そのほか無数の有難い不思議なご縁をいただいています。
夜空を見上げると無数の星が煌めいており、宇宙の果てはどうなっているだろうとだれもが思春期には思ったはずです。また自分はどこから来てどこへ帰るのかということもだれもが不思議に思います。我々は無限の宇宙の中で無限の縁を頂いていのちを形成し、今を生きていると云う事でしょう。
こうして考えると、「縁」というのはまさに重々無尽で人知をはるかに超えていることに気が付きます。
以前ご指導を頂いた奈良の先生のお寺に玉城康四郎博士の「不可思議の えにしの海に浮かびぬる ともに いのちのとも綱をとく」という歌が懸けられていたのを思い出します。誠に「縁(えにし)」とは時空を超えて無限の広さをもっており、不可思議極まりない有難いものだとつくずく年と共に思わされる日々です。
その人は家族が自決したのち、さ迷っているときにたまたま通りかかったおじさんたちに助けられたというのです。たまたま通りがかったその人たちがいい人であったからその後しっかりした家庭の子供として育てられたのです。こういうところに個人ではどうしようもない「縁」があるといわざるを得ません。
卑近な例では結婚なども不思議な縁のしからしむるところです。また最近では自分の孫をみてもどういう縁の積み重ねでこの可愛い子がここに生まれるに至ったのかと不思議に思う事も度々です。
また、自分の人生を振り返っても節々にこの人がいなかったら今の自分はないと思う恩人が何人かいます。どうしてその時その人がそこにいて自分を助けてくれたのか?その人がそこにいなかったら今頃はどうなっていたか?その縁にめぐまれなかったらどうなっていたか?考えるとぞっとすることもあります。
もっと不思議なのは神仏とのご縁です。お参りしたお寺には必ずあとから不思議なご縁を頂いています。求聞持を行じた太龍寺は10年くらい前にお遍路でお参りしたとき「ああ、こんな素晴らしいお寺で行ができたらなあ、しかし伝手もないし無理だろうなあ」と考えたその2年後に思いもかけず人伝手の「縁」を頂き、求聞持を修行できることになったのです。
護国寺も何十年もまえにたまたま近くに住んだので、お参りや鐘突きをしていたのですが、そのご縁でまた子供が近くに住むことになり、講でも毎月護国寺本堂にお参りできるようになったのです。四国遍路も一度徒歩遍路でご縁を頂くと毎年お参りできるようになりました。秩父や坂東霊場も一度お参りすると何度もお参りできます。秩父などは納経帳が真っ赤になり回数は分らなくなりました。坂東も4回目というご縁を頂いています。そのほか無数の有難い不思議なご縁をいただいています。
夜空を見上げると無数の星が煌めいており、宇宙の果てはどうなっているだろうとだれもが思春期には思ったはずです。また自分はどこから来てどこへ帰るのかということもだれもが不思議に思います。我々は無限の宇宙の中で無限の縁を頂いていのちを形成し、今を生きていると云う事でしょう。
こうして考えると、「縁」というのはまさに重々無尽で人知をはるかに超えていることに気が付きます。
以前ご指導を頂いた奈良の先生のお寺に玉城康四郎博士の「不可思議の えにしの海に浮かびぬる ともに いのちのとも綱をとく」という歌が懸けられていたのを思い出します。誠に「縁(えにし)」とは時空を超えて無限の広さをもっており、不可思議極まりない有難いものだとつくずく年と共に思わされる日々です。