浄土は諸仏菩薩の因位の発願によりて各自に之を建立し、その位置は西方等の他世界にありとせらるるものなりといえども、維摩経巻上佛國品には「そのこころ清きにしたがって則ち國土浄し」といひ、衆生はその心不浄なるがゆえにこの土を穢悪不浄となすも、佛の見るところは清浄にして無量の功徳荘厳せりとなし、娑婆即浄土の説をなせり。
これすなわち、般若等の経において菩薩は皆因位に浄佛国土の誓願を起こし、悉く皆浄土に於いて成仏すと説くにかかわらず、釈尊出現の世界が穢悪の国土なる事実に対し一種の会通を試みたるものと見るをうべし。
されどこの種の思想もまた一面において種々の発達を遂げたるがごとく、
法華経の霊山浄土、華厳経の蓮華蔵世界、観普賢経の常寂光土、大乗密厳経の密厳浄土のごとき、皆心浄土浄の説をその基調となせるものといふべく、
又、旧華厳経第二十九菩薩住処品等に出せる東北清涼山文殊浄土の説のごとき、
新華厳経第六十八入法界品に掲ぐる南方補陀落山観音浄土の説の如き、またみなその余韻を受けたるものと認めざるべからず。
これすなわち、般若等の経において菩薩は皆因位に浄佛国土の誓願を起こし、悉く皆浄土に於いて成仏すと説くにかかわらず、釈尊出現の世界が穢悪の国土なる事実に対し一種の会通を試みたるものと見るをうべし。
されどこの種の思想もまた一面において種々の発達を遂げたるがごとく、
法華経の霊山浄土、華厳経の蓮華蔵世界、観普賢経の常寂光土、大乗密厳経の密厳浄土のごとき、皆心浄土浄の説をその基調となせるものといふべく、
又、旧華厳経第二十九菩薩住処品等に出せる東北清涼山文殊浄土の説のごとき、
新華厳経第六十八入法界品に掲ぐる南方補陀落山観音浄土の説の如き、またみなその余韻を受けたるものと認めざるべからず。