今日7月28日は慈雲尊者御生誕の日です。
慈雲尊者は享保3年7月28日(1718年8月24日)高松藩士上月安範の子として大阪中之島高松藩蔵屋敷に 生まれられ、文化元年12月22日(1805年1月22日)87歳で京都阿弥陀寺に入滅されています。尊者は江戸時代後期の真言宗の僧侶。田辺の法楽寺の忍綱貞紀和上に弟子入りし、儒学・禅・華厳・唯識・密教を研鑽。四部律とそれに基ずく十善戒を提唱されるとともに「梵学津梁」千巻を著され日本の悉曇学を集大成されています。晩年は雲伝神道を提唱され、その活躍を山岡鉄舟が「日本の小釈迦」と呼んでいます。私も恐れ多い事ながら、何十年も前に、慈雲研究の第一人者木南卓一先生に「十善法語」を学び。中天相承悉曇を慈雲尊者以降5代目の正嫡松本俊彰阿闍梨に伝授いただき慈雲尊者直伝の正法袈裟を拝領するというという大法楽に恵まれています。この甚深のご縁に全く報恩出来ていないのが悔やまれていますが何としても何らかの御恩返しをしなくてはと思っております。
正法律興復大和上光尊者伝(慈雲尊者の直弟子・明堂諦濡律師編)には「尊者諱は飲光。慈雲は其の字なり。自ら百不知童子と号す。姓は源、族は上月氏。浪華の人なり。父安範。播州田野村の人。其の系赤松自す。弱冠浪華に移居す。人と為り卓犖不羇。侠者の風有り。財を軽じ義を重し、人の急に趨ること、己が私より甚し。人称して長者とす。母は桑原氏。阿州徳島の産なり。其の族川北又助なる者。鞠て女とす。又助高松侯に仕て、浪華米倉の校官となる。安範が人為を慕って、養女を以て妻す。尊者外祖父の家に生る。享保三年戊戌七月二十八日なり。幼にして而も状貌凡児に異なり、性凝荘。妄に挙動せず。稍長じて益俊邁。而して其の矩を踏み彠を循うこと、成人の若きこと有り。父族人に謂て曰く。他年吾宗を興さん者は、必斯の児ならんと。父七男一女有り。尊者は乃第七男なり。母氏素と三宝信ず。法楽寺貞紀和上は、其の深く帰敬する所なり。和上字は忍綱。行学兼備し、時の碩徳なり。
時に其の家に屈請して飯す。和上尊者の気貌異常なる見て、其の母に謂いて曰く。此れ般若種なり。豈其をして終に塵中に没せしむ宜けんや。盍ぞ以て我に乞えざる。・・・」とあります。