福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

往生兜率密記(無量壽院尊海)・・2

2021-03-02 | 諸経

往生兜率密記(無量壽院尊海)・・2

巻上兜率所在第一

夫れ兜率とは六欲天の中、下より第四の天也。此には知足と云ふ。倶舎論に依るに、海を去ること三十二万踰繕那なり。空に依りて寶雲を地と為す。婆沙論に依るに、其の地縦広十六万由旬なり。十住論に曰く、若し異生等、上の下品の十善を修せば則ちその中に生ず。俱舎に云く、手を執りて婬を為し彼の天の膝の上に随って童男童女化生すりことあり、初生は八歳の人の如し、速に二里を成長す。長阿含経に依るに衣の重さ一銖半なり。壽量は阿毘曇論に依るに人間の四百歳を以て一昼夜と為して四千歳なり。是人間の五十六億七千万歳に當る。法苑珠林に曰く、今略して諸天報身の相を論ずるに所謂諸天皆骨肉無し、亦大小便利の不浄無し。身に光明を放ち、昼夜を別つ子と為し。報得の五通あって形障碍無し。正法念経にいわく、譬へば一室に五百の灯を燃するに光明相逼迫せざるが如し。諸天の手中に五百の天を置くに亦復是の如く窄からず妨げず。又彼の経にいわく、彼の夜摩天或いは一百有り、或いは一千有り、共に聚で一の蓮華の鬚に在りて、同座するに妨げず、隘ならず、窄からず、善業力を以ての故に。(兜率天は彼の天に勝るべし、内院の衆は亦た之に超絶するを知るべし)。上来は凡夫の諸天業力の成す所なり。是の故に劫末の三災の為に滅せらる所なり。則ち内外の二院有り。内院には一生補生の弥勒菩薩いまして、広く人天を度したまふ。心地観経の第三に云く、第四の兜率天、四十九重の如意殿に所て昼夜恒に不退の行を説き、無数の方便以て人天を度したまふ。八功徳水妙華の池あり、諸の有識の者悉く同じく生ず、と云々。此の内院、上生経の意、願行ある諸天予め之を変作すと雖も、其れ実には佛菩薩の隋福所感の土なり。華厳経の第二十二に、兜率天上の獅子座を説いて曰く、天の諸の妙寶の集成する所、過去の修行、善根の所得、一切如来神力の所現なりと。又七十九にいわく、(弥勒の善財に告げる詞)我菩薩の福智変化の荘厳は一切諸欲界に超過することを示現せんが為の故に、乃至兜率天に生ず。首楞厳経の第八にいわく、下界の諸人天の境に接せず乃至劫壊の三災も及ばず、この如きの一類を兜率天と名くと云々。これ等の文に依るに、内院の浄刹は是れ欲界にありてしかも欲界に接せず。例せば法華に衆生劫尽き、大火焼かるる時も我が此の土は安穏にして天人常に充満し霊鷲山に在りと云う(法華経・寿量品)が如し。次に外院とは、上生経に曰く、その時、兜率陀天上に五百の天子あり、一一の天子、皆その甚深の壇波羅蜜を修して一生補所の菩薩を供養せんが為の故に、天の福力を以て宮殿を造作す。各各身の栴檀摩尼の宝冠を脱して長跪合掌し是の願いを発して言く、我今是の無価の宝珠及び天冠を以て大心の衆生を供養せんと欲するが為の故に、此の人、

来世久しからずして當に阿耨多羅三藐三菩提を成ずべし。我彼の佛荘厳國界において受記を得れば我が宝冠をして化して供具と為らめんたまへ。是の如く諸の天子各々に長跪して弘誓願を発すこと、亦復是の如し。時に諸の天子、是の願いを作し已って是の諸の宝冠を化して五百億の寶宮と作る。一一の寶宮に七重の垣あり。一一の垣は七寶の所成なり。一一の寶より五百億の光明を出す。一一の光明の中に五百億の蓮華あり。一一の蓮華は化して五百億の七寶行樹と為る。一一の樹葉に五百億の寶色あり。一一の寶色に五百億の閻浮壇金光有り。一一の閻浮壇金光の中に五百億の諸天寶女を出だす。一一の寶女樹下に住立して百億の寶無数の瓔珞を執りて妙音楽を出す。楽音の中に不退転地法輪の行を演説す。その樹は果を生ず。玻璃色の如し。一切の衆色は玻璃色中に入る。是是諸の光明は右旋宛転して衆音を流出す。衆音は大慈大悲の法を演説す。一一の垣牆高さ六十二由旬、厚さ十四由旬、五百億の竜王此の垣を囲繞す。一一の竜王五百億の七寶の行樹を雨らして、垣の上を荘厳す。自然に風有って此の樹を吹動す。樹相棖触すれば苦空無常無我の諸波羅蜜を演説す云々。則ち慈恩の疏に釈して曰く、初めの五百憶の天子、外衆の寶宮を造ると。頼瑜の記に云く、外院は五百万憶の寶宮殿あり。天人聖衆充満雲集して而も種々の伎楽管弦ありと云々。是この経文に依るか。又慈恩、此の経文の下において正答浄穢と科す。此の意、内院は浄土、外院は穢土なり。諸経要集に、新婆沙を引て云く、外衆の中に往生することを願はず、五欲に着かれて解脱することを得ざるを恐るが故にと。群疑論(釋淨土群疑論 ・懷感撰)に云く、兜率天宮に内外院あり、内は即ち補処に親近し永く退転なし。外は即ちこの五欲に耽り輪廻を免れず。西域記(大唐西域記卷第五)に云く、師子覚は外衆中に有りて慾楽に耽着す、と(大唐西域記で無著菩薩が(兜率往生していた)世親に同じころ(兜率往生していた)自分の弟子の師子覚はなぜ往生しても自分に報告にこないのか、と尋ねたところ、世親は「師子覚は兜率天で俗人の中に混じって慾楽に耽着しています」と報告したという故事)。又、智度論に曰く、兜率天上に常に一生補生の菩薩有するを以て彼の中の諸天常に般若を聞きたまふ。五欲多しと雖も法力勝るるが故に。同九十三に曰く、兜率陀の諸天は乃至五欲を受くと雖も、重罪を起こさず、又六十五に曰く、人は鈍根にして福徳薄きが故に、福を得ること少なし。諸天の利根には福徳多し。福田すぐるるが故に福を得ること多し、と云々。此の意は縦ひ外院に生ずると雖も善根増長して漸漸に不退を得、終に弥勒を見たてまつるべし。之に依って慈恩の疏に、若し外衆に生ぜば第九品也と雖も任運に後時に還って不退を得。佛を慈尊と號す。善長ずるが故に(「觀彌勒上生兜率天經賛 (窺基撰 )」「 若生外衆。雖第九品任運後時還成不退。佛號慈尊。善自長故」)と。

問て云く、此の外院の荘厳は凡夫の所起歟。将た聖者の所起歟。

答。疏に、外院の荘厳を釈して曰く、或は是、菩薩の化して予め荘厳したまふ。報土の中に准ふるに所有の厳飾勝れたる出世間の善根の所起なるが故にと。

問て曰く、諸天の勝處は之多し。何が故にか補處の弥勒唯し兜率に在すや。

答。疏に曰く、欲楽の足ることを知り厭ひ成ずべきこと易きが故に、菩薩中に処て勧化すること易きが故に。上界は欣棹既に重く、悪趣は感行極めて深し。既に佛現じたまふことなし。餘處は知足に如かず。三際の諸仏皆同じく住するが故に。智度論の往生品の説に依るに、兜率の天衆は利根にして結薄し。一生補處常に其の中に住す。自下の三天は結深く心乱る。自上の二天は結厚く根鈍なり。所以に住せず云々。又、智論の第四に云く、復次に下地中の結使は厚濁なり。上地の中の結使は利なり。兜率天上の結使は厚からず利ならず。智慧安穏なるが故にと。又云く、佛は常に中道に居す故に兜率天は六天及び梵中に於いて上三下三なり。乃至中法を好むが故に中天に生ず。又同じく三十八に委しく其の所由を述ぶ。文繁きがゆえに引かず。上より以降皆顕略の旨趣を述ぶ。若し秘密の義門に依らば兜率の所在とは一切衆生の心中に在り。古徳の相伝に云く、内院とは一心不生の本地なり。三世常住にして三災に侵されず。外院は我等が六根なりと云々。バン上人(梵字)の云く、願を発して生まれんと欲すれば、此の心、彼の天也と。杲寶の云く、或は密厳、或は十方等、皆行者の機根に随って道場中に現ずるところなりとす。大師の白く(「性霊集第三」)「安楽都史本来胸中」と。之に就いて古徳の口決に云く、都史とは欲界第六天の中の都率天也。是六欲の中の第四天也。今此の欲界の六天を衆生の五大に配当する時、四王忉利二天は地大なり。地居天なるがゆえに。二天たりと雖も合して地大と為る。夜摩天は水大なり。都率天は火大なり。火天は是我等が胸中なるがゆえに「都史本来胸中」といふ。其の故云何となれば、我等が胸中は是れ色心の所在なり。八葉蓮華の上に月輪、月輪は心法なり。蓮華は色法の故に、火大を以て色心不二の位と云ふ也。又、大師の「居を高野の樹下に卜して神を都率の雲上に遊ばしむ」と云ふ文に就いて、心法の月輪は即都史多天也。「神」とは心法の故に。身は下地の八葉山に居して、神を都率天に遊ばしむるに非ず。自身胸中の蓮華の色法に心法の月輪有るが故に都率天と云ふ。乃至是已に成尊の御義也と云々。已上皆要を取りて之を挙ぐ。重々之を略す。

 

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