福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

往生兜率密記(無量壽院尊海)・・1

2021-03-01 | 諸経

 

(作者略傳

無量壽院尊海傳

釈尊海、字は秀伝。備之後州福山の人、水野日向慶胤の族なり。稟性温裕、牆宇嵬獄。穉(わかく)して遐暢(かよう・遠くまで有名)の量あり。母氏・羇絆すべからず。信州寶憧寺海義に投ず。義、風骨宏度に服して祝髪して緇衣を付し、三密瑜伽を以てす。年進具(具足戒)に至って抗志未種を遂覧して神解を策發せんと欲し、即ち途を取りて祖窟に詣り。偏に雲霞に耽り名を学籍に掛く。講筵に漫遊して鑽仰寝食を舎つ。理悟優粋の聲あり。寛文乙巳、随心院に入って議断の科に列なる。時に南院の良意、道業精覈(せいかく)衆流錯綜す。尊、就いて中院の蘊奥を受け其の深底を究む。天和元年1681卯、加州白山宮、復營遷神あり。官命を以て叡山野峯に奉ぜしむ。台徒は則ち喜見院を擢きて、吾山(高野山)には則ち尊その撰也。五月十六日北陸に発軫し、六月十八日遷莫能事畢りぬ。當代天下の優望なり。貞享元甲子年1684碩学に擢んでられ徽聲藉甚なり。二年乙丑、宥算闍梨に従って庭儀伝法灌頂を得。元禄五年1692遍照光院を領す。明年九月台命を蒙って無量寿院の主席に補せられ、武城に徭し奉る。偶爾として四体労倦し疾滕理(どうり)にあるを覚へ、骸を丐(こう・乞)て山に帰る。金石草木之薬餌闃爾(げきじ・静かなること)として験なし。自ら起つべからざるを知る。救療を謀らず。終焉を謀る。臨亡の前日徒に告げて曰く「吾、縁謝すれば都支宮に遊ぶべし。汝等怠らざれば則ち龍葩の嘉會(龍華三會のこと)を期せむ。頼に悲傷すること勿れ。吾滅に擬するは明日也。當に早く滅場を刷ふべし」と。是に於いて門徒泣く泣く禅床を粧ふ。乃ち法印を結びて三摩地に入り寂然として化す。実に元禄八年1695六月二日也。行年七十一。遺尸を院の西の翠微に葬る。尊は壮年南都に遊学して偶々都史曼荼羅を見て慕仰深切なり。随心院を領するに洎(およん)で画師を雇って之を模写し、常に観供して栖神の府と為す焉。遍照光院に住する時、来客日々席を冷にせず。尊、摂待厭ふ事なく饗応愍悃なり。一日厨屋に出でて饗膳の簡麁を警む。厨者いわく「日日の供事、之を如何することなき也」と。尊曰く、「汝の長舌、吾心に忤さからふ。菩提心を動ぜしめんと欲するか」と。是より復言はず。傍人其の言の道機あるを感ず。尊、又篆楷(篆書楷書)に巧みに詩賦を善くす。競ひ求むる者雑踏し紙絹を投じてややもすれば閫(しきい)に満つ。製するところの都率記、勧發記、發微鈔等。賛して曰く、古に曰く、戯言懐より出つと。尊也、饗膳の小事を以て而も其の言、冒地の大道に逮ふ。一言以て平素の所志を見るに足れり。(紀伊風土記高野山之部巻三十六)。)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ダライ・ラマ法王 法話と発菩... | トップ | 往生兜率密記(無量壽院尊海... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事