観音霊験記真鈔24/33
西國二十三番勝尾寺千手像御身長八尺(2.4m)。
釈して云く、従来未だ観音の三十三身を明かさず。最も聖観音の示現なりと云へども本一躰の分身なれば千手の像の處にて挙げて失なき者歟。観音普門品に云く、一には佛身、二には辟支佛身、三には聲聞身、四には梵王身、五には帝釈身、六には自在天身。七には大自在天身、八には天大将軍身、九には毘沙門身、十には小王身、十一には長者身、十二には居士身、十三には宰官身、十四には婆羅門身、十五には比丘身、十六には比丘尼身、十七には優婆塞身、十八には優婆夷身。十九には長者婦女身、二十には婆羅門婦女身、二十一には宰官婦女身、二十二には婆羅門婦女身、二十三には童男身、二十四には童女身、二十五には天身、二十六には龍身、二十七には夜叉身、二十八には乾闥婆身、二十九には阿修羅身、三十には迦楼羅身、三十一には緊那羅身、三十二には摩睺羅身、三十三には執金剛身也。
私に按ずるに經の科別答の中に曲(つぶさ)さには三十三身を挙ると云へども經の科段に由て十九説と云へり。三十三身とは初め佛身より執金剛身までなり。經の科段は佛身より執金剛身までを十九説法と取るなり(仏告無尽意菩薩、善男子よ、若し国土に衆生有りて、 応に仏身を以って得度すべき者には、 観世音菩薩即ち仏身を現じて、而も為に法を説きたもう(十九説法の第一説法)。 応に(十二因縁を修行して覚る)辟支仏の身を以って得度すべきものには、 即ち辟支仏の身を現じて、而も為に法を説きたもう(十九説法の第二説法)。 応に(苦渋滅道の四諦を修行して覚る)声聞の身を以って得度すべきものには、 即ち声聞の身を現じて、而も為に法を説きたもう(十九説法の第三説法)。(仏様の御姿には法身・応身・変化身の三種類があるが、ここで観音様の現されるお姿は三身一体の変化身である。那須政隆師「観音経講話」)。」以上を三「聖」身の説法という。(以下六種「天」身の六説法、五種「人」身の五説法、四「衆」身の一説法、四「婦女」身の一説法、「童男童女」身の一説法、「八部衆」の一説法執、「執金剛神」の一説法とあり、全部で十九説法となる)。實には此の中に三十三身を挙るなり。委しくは観音普門品を見合すべし。又楞厳経には三十二説法と云ふ。繁きを恐れて之を略す。(大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經卷第六「世尊由我供養觀音如來。蒙彼如來授我如幻聞薫聞修金剛三昧。與佛如來同慈力故。令我身成三十二應入諸國土・・・」)。復次に三十三身は各々三業を具足せり。其の所以は佛身と云は身業なり。得度と云ふは化益(教化 して善に導き、利益 を与えること)なり。化益し玉ふべき道理を意に分別し玉ふ故に是意業なり。説法と云ふは是口業なり矣。
問、観音は大悲の故に十方界を利済し玉ふこと顕著なり。しかるに三十三身の中に菩薩身
・地獄道を缺くことは何ぞや。
答、観音即ち菩薩身なり、何ぞ重ねて示現をなさん。又地獄界三十三身の中には無しと云へども三十三身総答の中に謂く、種々の形を以て諸国土に遊ぶ矣(妙法蓮華經觀世音菩薩普門品第二十五「是觀世音菩薩。成就如是功徳。以種種形遊諸國土度脱衆生」)。なんぞ無しと云はんや。又請観音經に云く、或いは地獄に遊戯す(請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經「大悲大名稱 吉祥安樂人 恒説吉祥句 救濟極苦者 衆生若聞名 離苦得解脱 亦遊戲地獄 大悲代受苦 或處畜生中 化作畜生形 教以大智慧 令發無上心」)。
釈論に云く、菩薩地獄を化するに多く佛身を現ず(觀音義疏「釋論云菩薩化地獄多作佛身」)。又觀無量壽經に云く、観音光中に五道を現ず矣。(佛説觀無量壽佛經「次亦應觀觀世音菩薩。此菩薩身長八十億那由他恒河沙由旬。身紫金色。頂有肉髻。項有圓光。面各百千由旬。其圓光中有五百化佛。如釋迦牟尼。一一化佛。有五百菩薩無量諸天。以爲侍者。擧身光中五道衆生。一切色相皆於中現」)。此等の文を以て推するに十法界の身具はれり已上。西國西國二十三番摂津國勝尾寺千手観音像は沙門開成の建立(日本往生全伝に開成沙門は柏原天皇の子で弥勒寺(後の勝尾寺)を建立とあり)比は宝亀八年九月日向國沙門興日座主開成に語りて云く、傳へ聞く高堂すでに成りて未だ像あらず。八尺白檀の木あり。願くは君に奉らん。開成悦び則ち弟子豊南を西國に遣はして・・寺に至る。しかれども未だ佛師あらず。十一年七月十五日沙門妙観と云者
来たりて云ふ、我よく佛を刻む。開成ますます頼めり。三日の後僧俗すべて十八人妙観に伴ひ来りて像を刻む。千手観音なり。又四天王の像を加へて凡そ五尊三十日に刻む。八月十八日に妙観掌を合わせて像を拝みて飛去ぬ。随ふ處の者十八人一時に見ず。時の人云へらく、像をきざむ日も十八日、像成る日も十八日、像を刻む人數も十八人、妙観化し去る日も十八日、靈應の數いたつ゛らに儲けざるなり。衆生十八日を以て観音の縁日とするは此謂なり。又延暦元年(782年)異國より商人二人来たりて云ふ。百済國の后美しき姿にてまします。帝是を寵愛し玉ふ。未だに二十になり玉はず。其の髪白し。后これをかなしみて霊薬法験を求るにしるしなし。或夜后夢を見たまふ。日本國勝尾寺の本尊千手観音の利生類なし。汝夫是に祈れと。夢さめて後、后悦び玉ふ事かぎりなし。則ち日本國の山山光を出し庭を照らす。夢よりさめて后の髪黒し。是を以て我等二人和朝に来る。閼伽の器金鼓金鐘等の什物を遥かに彼の像に奉る。知らず勝尾寺何れの所とか為す。大宰府使者を遣してをくりて寺に至らしむとなり。歌に
「重くとも 罪にいのりはかちおでら 佛をたのむ 身こそやすけれ」
私に云ふ、歌の上の句は「重くとも」等は五障三従等の罪科はおもくとも佛けにいのり奉れば諸願成就するとなり。故に「祈りは勝尾寺」と詞の縁を取り、下の句の意自ずから知りやすし。此の下にては壽經の十八の願又は三十五の願を以て(大無量壽經第十八願は「設我得佛・十方衆生・至心信樂・欲生我國・乃至十念・若不生者・不取正覺・唯除五逆・誹謗正法」。大無量壽經第三十五願は「設我得佛・十方無量不可思議諸佛世界・其有女人聞我名字・歡喜信樂發菩提心厭惡女身・壽終之後復爲女像者・不取正覺」)講談すべし。権中納言經平(藤原 経平(ふじわら の つねひら、長和3年(1014年) - 寛治5年7月3日(1091年7月21日)、經平)は平安時代中期から後期にかけての公卿。 藤原北家小野宮流、権中納言・藤原経通の子。 官位は従三位・非参議)の歌に
「窓の月 軒端の花の折々は 心に掛けて身をや頼まん」
又源空上人の歌に
「ひとかたに 頼みをかくる 白糸の 苦しき筋に 乱れずもがな」
已上西国の歌に引き合わすべし。