佛法夢物語 知道上人(密教大辞典には「知道。1278の頃。もと中院中将と称す。後に入道して東山白毫寺(聖徳太子開基・真言律宗)に住す。弘安年間の人にして東密家の明匠なり。伝記詳らかならず。弘安年中「好夢十因」二巻を撰して兜率往生を勧奨。著作に「病中用心抄」一巻。「不生鈔」一巻。「光明真言式」一巻。「佛法夢物語」一巻等あり」と。)
草庵の長閑なる夜、客来りて宿せり。昔今の事申し通ずる程に客云く「去りても値ひ難き佛法にへり。生死を恐るる心偏に無きにあらざれども、世塵に交る身の習ひ、朝夕紛るる方のみ侍る故に何と思ひ分けたる事も無くて限りある命、残り少なく成れり。遥かなる山水を分て是まで尋ね入る志、只此の事にあり。如何なる用心を以てか今度生死を離べきや」。
答、「名を阿練若(寂静処)に借りて数年を送れども、生死の一大事何と思ひ分けたる事も侍らず。只夜夜夢を見侍るを以て知識として世間の執着など強ちに深からぬ計也。人の臥して夢を見る時、此の夢は実に有る物には非ざれども眠の縁きたりぬれば多くの事を見る。国土あり衆生あり、我あり人あり。我あるゆえに背くことあれば瞋り、随ふこと有れば悦ぶ。幻に少しも違はず。列子は六十年の夢を見、荘子は百年の間蝶にあると見る。(「列子・周穆王篇」「人生百年、昼夜各おの分かる。吾、昼は僕慮と為り、苦しきことは則ち苦しきも、夜は人君と為り、其の楽しみは比ぶるもの無し。何の怨む所なからんや」。「荘子・斉物論・夢に胡蝶と為る」「昔者、荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適へる。周なるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きよきよぜん)として周なり。知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶と、則ず必ず分有り。此を之物化と謂ふ。」)只一夜の程なれども多くの年月を送り迎ふ。その間に作す所の事、善悪の念何計りぞや。夢の中には實ある心地して更に虚しと思ふことなし。覚め畢りて後思へば只床の頭に独り臥して見る所の境界一も実に有る事無し。衆生の生死流転の間も総て此の夢に異ならず。故に佛處處に「無明の縁に依りて六道四生の夢を見る」と説き玉へり。無明と云ふは我心即佛なりと知らざる心也。此の迷ひの一念より法性の本宮を出て妄想の貧里に廻る。流転の間は実に有りと思へども今仏教に値ひて生死は夢と聞きて信ずれば妄想の夢忽ちに覚めて本覚の床に到る也。今日まで夢の覚めざりつる事は只実に有りと思ふ心に引かれし故也。佛の世に出たまふ事は、長夜の我等に夢ぞと知らしめんが為也。浅機を誘はむとて先ず我空の理を説く。是を小乗と云ふ。我身有りと思ふ故にこそ萬の過ちは発る習ひなれ。我空也と知りぬれば此の智力を以て三界を出て界外の土に生るる也。然れども是は法有の失有るが故に深機の為には我法の二空を説く。是を大乗と云ふ。法空は夢に見る所の一切の法は皆空き心より発る故に實なしと説く也。去れば一切皆夢ぞと知るを大乗の法とは申す也。此の故に賤しき草庵の中に年を経る間、夜夜に夢中に多くの事を見る。或る時は愁へ、或る時は神仙殊妙の境に入って佛菩薩を友とし、或は悪鬼毒蛇に悩まされ自ら苦悩す。見る程は實と思へども覚めて顧みれば更に跡形もなし。生死本無なる事此の時こそ思ひ知るべけれ。方寸の胸の中に如何なる因縁に依りてか万里の山河を見、片時の眠の間に多くの年月を送りけん。一念の心、法界に遍ずる事も、此の道理にて思ひ知りぬべし。此の所見の法は夢には来る所も無く、覚る時、去る所も無く、正しく見る時も住する所も無し。三界不可得の心も是にて意得ぬべし。されば衆生に悟りを開かしむるを以てこそ佛とも祖師とも申すなれば我が身には夢程の善智識無しと思て枕を傾けて打ち臥す時は、本覚の床の上に生死に妄縁を起こすと観じ、睡覚むる暁は、始めて始覚朗然の智慧を起こして生死の本無を悟ると思続けて明かし暮らす程に幻の境も夢中に替らねば悦びも歎きも皆忘れて無量の仏法に値へる心地こそ侍る也、と云々。我が身を夢中の身と知らぬ程は善を修すれども人天の果報を受けて生死の身を離れず。我が身は夢中の身也、見聞覚知皆夢也と知れば一句の経を誦し、仏名を唱ふるも皆成仏の因行と成るべし。抑々我一念の心と云ふ物を能々尋ね見るべき也。根塵相対して一念起こる時も何より来ると云ふ事無し。又滅する時も何へ去るとも云ふ事無し。其の心の所住を尋ぬれば身の中にも無く、身の外にも又無し。内外中間に求むるに不可得也。去れども又無き物には非ず、此の心を以て見出す夢幻なる故に、共に本無の法にて有る也。佛と衆生と云ふは何なる事ぞと能々尋ぬべし。経に云う。「妄念に由るが故に生死に沈み、實知に由るが故に菩提を証す」(般若心經祕鍵開門訣)と。此の意、佛と衆生とは本性清浄にして少しも異無けれども妄念を起こせば生死に沈む衆生となり、實の如く知れば菩提を証する佛と成ると也。妄念といふは何物ぞ。只迷ひの心也。譬ば東を指して西ぞと思ふが如し。泉涌寺の理性房と云ふ人、白地に京に出でて寺に帰るに五条橋を渡り西へ行くとのみ思て渡りけるが我と心に思ひけるは去も京より我が寺へ帰へれば東へこそ行きたるに何とて西へ行くとは思ふぞと怪しみけれども、橋を渡り終るまで其念替らざりけるぞと語りける。只生死の妄念と申すは是程の事也。衆生一念の迷情の故に無我を我と執して生死の夢を結ぶ也。後此の僧、東にこそ向ひたるを何とて西に向ふとは思ふぞやと我が心を怪しまるは、仏教に値ひて心源を覚て無我の理を知るが如し。東西を弁ふと云へども橋を渡る程は其の心改まらずは、仏教を信ずれども多生の薫習に依りて妄念猶ほ残るが如し。橋を渡り終て本心に成りたるは仏法を侵修するに依って妄念止息するが如し。彼の僧、東を西と思ふ事は僻見也と思て橋に留まらず終に我方に帰る。若し東を西と思ふ妄見に引かれて中路に留らば我方には帰るべからず。妄心帆本空なる事を知りては彼の妄心に留らざるべからず。故に菩提心論に云「妄心若し起らば知りて随ふこと勿れ云々」と(金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論「當知一切法空。已悟法本無生。心體自如。不見身心。住於寂滅平等究竟眞實之智。令無退失。妄心若起。知而勿隨。妄若息時。心源空寂。萬徳斯具。妙用無窮」。)。元暁と申す人、法を尋ねて新羅國より唐土に渡り給ひけるが雨に値ひて或る窟の内に宿せり。渇して窟の内に水の有りけるを飲みけるに水の甘きこと甘露の如し。能々飲みて夜明けて見れば此の水の中に死人あり。其の時飲みし水を思ひ出して吐き返しけり。時に諸法には浄不浄無し。唯一心の態也と覚りて、今は訪ふべき法無しとて其れより新羅国へ帰られけりと云々(「華厳縁起」にあり)。此の如く心身共に空なることを知らずして、この身の為に無量の業を作り妄りに苦を受くるなり。譬へば一人の狂人ありて一の死骸を求めて路傍に置きて様々に此の死骸を荘りて是が為に家を作り衣食を東西に求め行く人有りて此の骸を讃れば悦び、謗すれば瞋る。只此の骸一つの為に身心を苦労す。是を見ん人は狂人とこそ云はんずらめ、我等生死流転の消息は少しも是に違はず。我等が白骨は父に受け、赤肉は母に得たり。何れも我が分に非ず。然るに此の身の為に朝夕の所作併しながら此の骸の故に非ずや。星を戴き、霜を払ふて名を求め利を貪り、或は玉の床を琢きて之が為に永劫の苦楽を感ずべし。先の狂人に勝る狂人に非ずや。去れば無我を我と執し虚妄を信ずるを由實知故と説く也。
問て云ふ「善悪実には無也。然らば悪を作すとも罪なく、善を作すとも福無かるべきや」。
答、「此の如く意得るは因果揆無の者とて怖ろしき邪見也。自性無き故にこそ悪を作さば悪趣に入り、善を修すれば善果を感ずる善悪の因果を乱さざる物に定性無き道理を意得べき者也。譬ば夢中に人殺しせば又国主検断すと見るが如し。夢中なればとて因果の道理乱るる事有るべからず。覚めて思へば殺す者も殺さるる者も罪を行ふ国主も実に有るに非ず。去れば善悪共に夢也と実に信ぜば因果を越へて無上覚を証すべし。其の時は罪福主無きが故に五逆を作りて仏果を証する事も有るべし。若し未だ至らざる程は因果少しも破るべからず。凡夫地の程は争でか罪無からん。然れども罪を犯す心の下にも本無の所を信ずれば其の罪消ゆること疑ひなし。去れば未だ造らざる罪もば夢なれば如何がせんと観じて能能心身を制すべし。已に犯したらん罪をば夢中の事業なれば自性無し。罪を造りし一念を十方三世に求むるに終に不可得也。其の心実に非ず。業果何に依ってか引くべきなんど能々念ずべし。是をば無生の懺悔と云ふ也。阿闍世王、父を殺して仏所に詣して罪を悔し時、佛言く「一切法は悉く定相無し。何者か是れ父、何者か是れ子。二共に仮に衆生の五蘊に依りて妄りに父子の念を成せり」と云々(「大般涅槃經」の大意)。此の智力に依りて程無く本無の處に帰す。是を滅罪と云ふ也。罪を造らん為に夢なれば何ぞ苦しかるべき、なんど云ふは大なる僻事也。此間を能々弁ずべき者也。只一念起こる處に向て常に是を見るべき也。譬ば人の悪しと思ふ心の俄に起こりたらんを軈て其の念を相続して恨めしき節を様々に思ひ続けて終に中を違へ生死の流れに随ふを凡夫とは申す也。若し一念始まる時、此の念何より起こる、誰か我、誰か人、と尋ね見れば先に悪しきと思ひつる念、軈て跡形も無くなる也。譬ば夜、杭を鬼と思て怖れ走るが、是には何の鬼か有るべきと立ち返りて能々見れば本より杭なれば鬼に非ずと見定めて怖るる心即ち息むが如し。一念の妄心起こる時能々立ち返りて此の念何物ぞと見れば本より定なる心なければ終に本無の處に達す。是を生死を離るるとは云ふ也。一念の心は発る處も無きをげに物有りと思ふ故に念々相続して終に生死の大海とは成る也。此の念を立ち返て抑々何物ぞと見れば本よりげには無物なる故に暫く顧みて不生也と知りぬれば其の宿念に生死は絶ゆる也。抑々仏、此の大乗無生の法門を一の阿字(梵字)に帰入し玉ふ故に、開けば多くの法門と成れども縮むれば一の阿字也。大日経に云「阿字即本不生不可得空也。普く一切の仏法を摂す也」と(大毘盧遮那成佛經疏・百字眞言法品第二十三「空者謂阿字也。阿字即本不生不可得空也。猶此畢竟不可得不可得空具足衆徳。普攝一切佛法也。」)。阿字には色形有り、聲有り、義有り。或る時は文字の色形に心を安じ、或る時は聲にても誦じ、閑ならん時は義をも思ひ続けば無上の理に住せん事、程有るまじき事也。南無阿弥陀仏と唱へんは猶文字多くして紛るる方も有りぬべし、只口を開けば自ずから出る息は阿の聲なる故に何なる紛れの中にも此の行程易き事は侍らんや。百千の経論に説く所の法門も皆この一字に摂する故に、一聲なれども一切の経を読む功徳と同じかるべし。又先に申しつる法門どもは此の一字の字義あるべし。故に何も知らんで誦する功徳だにも但なる事無し。増して一念也とも無生の理を信じて持ちたらん功徳は無量劫を経ても説き盡し難し、とこそ見え侍れ。去れば最後臨終の時にも只口を開けて阿の息の上に念を置きて終取るべし。其の時は事も究りぬる故に何とも思を廻すにも及ぶべからず。中々義を思はんには障りにも成りぬべし。只様も無く一阿(梵字)にて終わらんには無念の自証に叶ひぬべし」。
客曰く「無我不生の理は仏法の大地なる事実にさこそ侍らめ、去れども我が心を見るに我を執する心を以て片時も忘るる事無く、憂も喜も身に来る時は疎かに覚ゆる事も侍らず。去れば加様の法門は智慧賢かりし人の為也。末代悪世の凡夫は総て思ひ寄るべき事に非ずと申す人の侍るも我が心に思ひ合すれば実に理なる方に侍るにや」。
答て云「機根区々に別るる故に一味の法なれども様々に佛、説き替え給へば必ず一時を以て余の道を塞ぐべきに非ず。無我不生の法門は深なる故に宿縁無き人は一念をも信ずること無し。多縁を結びたりし人は何と云ふ故は無けれども此の理を聞けば貴く覚ゆる也。一念も信心ををこしたらば此の信力に依りて無始の重罪を滅して必ず仏果の種子を頼耶の底に植うべしとこそ見え侍れ。去れば大乗の機根には破戒造悪の者をも捨てず、只一念の信解を以て其の機と定むる也。其の故は我法を現に有る物と思ふ前にこそ、我心の善悪の沙汰にも及ぶ事も侍れ、既に生死涅槃を昨日の夢と信ずれば此の信力、善悪を起こすが故に凡情の前に僅かに善悪と定むる事には非ざる也。其れに無始の妄薫深きが故に我をのみ信じて佛語を信ぜざる故に悪き者にて侍れば何と昢しき仏法の機にては有るぞなんぞと思ふ也。悪からん我が身を尋ねて見よ、善悪共に本空なる夢中の人也。本空ならば佛と少しも替るべからず。何に依ってか卑しき機と定むべき。先に申しつる法門も必ず悪き念を捨てよとは申し侍らず。只善悪の念起こらば此の念の本無の所を信ぜよと勧る計り也。戒定慧共に備はりて内外清浄ならんこそ殊に乞ひ願はしき事にて侍れども代下り人弱く成りて何にも兼ねたる事は叶ひ侍らねば只今度一念なりとも大乗の法門を信じて正しく仏法の種子を殖へよと思ふ也。雑亂の念有る物を凡夫とは云ふ故に、凡夫ならん程は妄念起こらぬ事なんどは有るまじき事也。去ればとて凡夫大乗の機たるまじき事は総て無き也。薄地の凡夫、如来の秘蔵を知ると説かれてこそ侍れ(大日經疏演奧鈔「又有薄地凡夫不歴三院而直入者。凡於密教中論機類淺深。諸經衆軌異説。不遑毛擧。二謂漸超者。是從顯入密之人也。頓入則獨眞言門行者也」)。世間の人を見るに仏法とて替て思ひたる事は念仏読経なんどの功に依りて後生に浄土に生まれんと欲ふ計り也。一念に法を信ぜんと思ふ人は在り難き事也。是に知りぬ、値ひ難く信じ難き法にて侍り。信じ難きにて知りぬ、信じれば不思議の益有りと云ふ事を、一句の偈を唱へて無量劫の罪を滅すと云ふ事は佛語なればよも虚言にては侍らじ。無量劫に積し置く所の罪、現に有る物ならば時の間に争でか消ゆる事は有るべき。本より空しき故に此の理を悟り玉ねる佛の名を唱ふれば何とも知らねども滅する也。増して一念も此の理を信ぜん事、何計りの功徳ぞや。仰ぎて信心を起こすべき也。加様に申しつるも只夢の中の詞にて侍りけりと云ば、客もかき消す様に失せ、主人も其の時、失せぬ。怪しき柴の庵、松風計り也矣。(以上)。