福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の8/13

2024-07-21 | 先祖供養

地蔵菩薩三国霊験記 4/14巻の8/13

八、少女利生を得る事。

能登國の国分寺(石川県七尾市に在った)の傍に富沢の者侍りき。娘一人有り。寵愛かぎりなし。父日比(ひごろ)より念佛の行人たりしが、一向専修の示を受け彌陀尊名号より外は法の尊(たっとき)はなく、佛と云ふも別になきと一片の得心者なり。一家の者も此の風に化して自ら佛を敬ひたてまつる。しかるに彼の娘の乳母ありし。本と(もと)都の者にてなん侍りしが年久く地蔵菩薩を信じ奉る。或人一千躰の地蔵を畫きて人に施しつるを彼の女房も一幅乞受て持ち侍りけれども彼の家に仕してより後は餘佛を信ずる事を主人嫌ひしかば深く秘して心中に念誦し奉りける。これさへも田舎は心苦しき一つと思ひければ落涙しきりにぞありつ。十八日二十四日には目を忍び私の局に此の地蔵をひそかに開き香華燈明供し心静かに念誦し礼拝して巻収奉りけるを彼の娘君見付まいらせて、手をあげて此の繪をほしくあるよしして泣きたまひければ乳母世をつつしみはばかりて急ぎ取り隠して少人(わかきひと)はもち玉はぬ物なりとて色々の物をとりいだして様々すかしつれども猶思留まらず乞ひければ、是はわらはが夫法師なりと申しけれどもいよいよ父に向ひ母に値(あふ)ては乳母が局にかくす夫の法師我に得させよと申し泣ければ、父聞てそれ姫にとらせよとあららかに云付ぬれば乳の人申しけるは出し申す事何より安き事には候へども、はばかるところありてこそとぞ申しける。さては弥よ怪しき人やらん慥かに見るべき由を云ほどに詮方なく有りの侭にぞ申しけり。さもあれ姫が望の物なればとらせ侍ることならずとも取り出してあずけよと云ほどに、是非なく取り出し見せければ喜んで止みけり。父母も是を見て實(げ)にも少心(をさなこころ)にも尊く思ふもことはりなりとて、姫が小名号に掛け並べてをきたり。乳母中々推(をし)開いて拝し奉りける。姫も學(なら)ふて伏拝けるこそ一世ならぬ事と覚てありがたくぞありける。されば姫も漸く十二歳になり玉ひけるが俄かに病を受け父母の歎き申す

計なしさまざま醫藥をつくせども終にはかなくなりぬ。又父母あまりに悲みて一七日の中、葬らずありしに母あまりの哀しさに枕もとに立よりて顔と顔とを合はせつつ泣沈みけるが母の落涙口に入りて蘇生しけるが、あら苦しや地蔵とぞ申しけり。母喜んで、さて此比(このころ)の心地はいかにと問ければ、さればこそ怖ろしき鬼ども我が手を取りていそげと云て責め立て、琰王の宮に連行し大庭に引すへける。庭上を見るに無数の罪人を引きすへたるありさま、をそろしさ言を絶す。何なる責めをか受くべきと恐怖して居る所に若僧の一人来現し給て閻王の前に進み玉ひ彼の少女は未だ報を盡さず、我に許し給へ、とく娑婆に皈しつつ善根の主と為し、結縁我に年久し、との玉へば大王もゆるし給ひぬ。角して中門の外に放されけるが彼の傍に女房の薄衣打ちかずき子を抱て泣き居たり。我を見て言傳し奉らんと云て文と練ぬきの小袖を巻添て日向の國の師の坊のもとへとて指出し、只追善の力弱く生る所も定まらず、願はくは一月頓寫の法華經と地蔵菩薩を造立して弔給はば永く暗き路もはれぬべし。助け玉へと乞侍る文なり。其れより後の門に出たりければ世の中もくらくなりて跡前(あとさき)も見へわかたず。泣居たる所に小僧来りて此方へとの玉ふ。其のあとに隨ひて行くほどに御身の光を以て暗き事更になく、廣き河原に出たり。往来の罪人數をしらず。僧の云く、心ぼそくあらば声高く南無地蔵と唱へよと教給ひけり。あまり有難くあれば御僧はいつ゛くに御座し御名を誰とか申し奉る、と尋ねければ僧笑ひ玉ひて、若君がいとけなきときより深き志を受けたる僧なり。汝が國にては地蔵と云なり。是より皈れ、との玉へどもわらは行くべき方を知らず、連れて皈らせ給へとて御衣のすそにとりつけば、御肩にかけさせ玉ひ飛ぶが如く行くほどに風烈しく心細くしてくるしさの侭に南無地蔵大菩薩くるしや、とぞ申す。」さてこそたやすく参り着きたりと云へば、父母乳母にいたるまで泪にくれてぞ居ける。尒より以後一家ことごとく信を地蔵薩埵に致し、父母の偏執も自ら中道に叶ふ事を得たり。諸佛の内証悉く法身毘盧の全体なり。且く(しばらく)外用を論じ各々優劣を立つといへども實に何をか取捨する事あらん。されども物に應じ機に逗ず(ここで「逗」は叶うとの意。大乘莊嚴經論卷第六・弘法品第十三「應機者。應物諸字句逗機宜故」)の上は、此の薩埵は無佛界に導師六道能化の主なり。ことに罪人の人堕獄すとも此人あからさまになりとも地蔵を供養し名号を唱へば苦を救ひ樂を與へんとの義經文明なり。信ずべし怪しむべからず。

 

引証。

延命經に云く、延命菩薩而も佛に白して言さく、世尊慮たまふなかれ。我當に六道衆生を抜済すべし。若し重苦あらば我代って苦を受く。しからざれば正覚を取らじ(仏説延命地蔵菩薩経「延命菩薩 而白佛言「 世尊よ、慮ばかりたまはざれ。我當に六道衆生を抜済すべし。若し重苦あらば 我れ代りて苦を受けん。若し爾らずんば者不取正覚。」)。

 

 

 

 

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