奝然は東大寺三論宗の僧。法済大師。長和五年丙辰1016三月十六日示寂。79歳
東大寺観理に三論を、石山の元杲に真言を学び、983年(永観元年)入宋。天台山、五台山を巡礼。太宗から法済大師号や新印大蔵経などを賜って日本へ帰途、途中でインドの優填王(うでんおう)が造立の釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、986年(寛和2年)に帰国。翌987年(寛和3年)、請来した釈迦像は京都蓮台寺に安置された。989年(永祚元年)から3年間東大寺別当。奝然が請来した釈迦如来立像は、奝然入宋前に建立を誓った愛宕山麓の地に清凉寺が建立され、奝然の没後に弟子により完成してそこに安置された。
「清凉寺縁起」より「・・太宗雍煕三季丙戌臺州の鄭仁徳があきなひ船に便船して奝然とともに本朝に光降あり。六十五代花山院永観二年丙戌984七月九日帰朝の旨奏聞す。大蔵経五千四十八巻及十六羅漢の絵像同時にわたるところなり。明年に及びて六十六代一条院永延元年丁亥987二月十一日に入洛有あり。乃ち大極殿にあむちし奉り毎日一斗の白飯を供養す。三年を経て大内北野蓮台寺に安ず。いく程なくして嵯峨野棲霞寺に移し奉る。しかれば奝然奏聞を経て愛宕護山をもて五台山に准じて更に清凉寺を建ててこの瑞像を遷座し奉らんとて先に一宇の小堂をつくりて安置し奉る。いまの釈迦堂これなり。清凉寺の建立宿願いまだとげざるに奝然寂滅す。時に六十七代三条院の御宇長和五年丙辰1016三月十六日なり。入滅已後弟子盛算かさねて奏聞を経て天竺の霊鷲山、震旦の五台山等のもろもろの聖迹の土一坏を入れて壇をつき瑞像の厨子を安置し奉る。故に日本有験の霊場、天下無双の瑞像なり。・・」