38番金剛福寺から39番延光寺までも60キロ以上あります。昔から38番金剛福寺を打ちおえると大月の月山参りをしてから39番延光寺を打つこともあったとされます。月山神社はもとは「守月山月光院南照寺」と呼ばれ、神仏一体の霊場でしたが、明治以来「月山神社」と改称されています。月山の名は、神社のご神体が三日月形の石であり、また月弓大神を祭祀したことによって名付けられたことが起源とされています。四国八十八ヵ所番外札所でもあります。
39番延光寺は神亀元年行基菩薩が薬師如来を本陣として建立、その後大師が延暦年間に桓武天皇の勅願所として再興されたとされます。ここの門前には「へんくつや」という遍路宿があり、いつもその名前に怖気ついて泊まるのを躊躇して通り過ぎてしまいます。外見もいかにも風変わりな作りでした。
39番延光寺から第40番観自在寺までは約30km、8時間くらいです。ここから愛媛県です。
40番観自在寺は大同二年、平城天皇の勅願所として大師によって開創されたところです。後に平城天皇は弘仁十二年には弘法大師から潅頂を授けられています。大師は一木に本尊薬師如来、脇仏阿弥陀如来、十一面観世音の三体を刻まれ、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた「お手版」があります。現在もこの「お手版」でおかげをうけた人が多く、言語不自由や盲目・心臓病等が治ったという言い伝えが多く残っています。平幡良雄師「四国へんろ」では「唖であった兵庫県の大田愛さんのごときは『南無阿弥陀仏』と唱えられるようになり、それ以来口もきけるようになった。・・霊験を得られた人は百人近い。」とあります。私も3枚求めて縁者に送りました。その後縁者も病気が快癒しています。真言宗で「南無阿弥陀仏」とは今の人は違和感があるかもしれませんが昔の人はセクト的な考えに囚われずじゆうであったのです。26年5月は川崎大師で「赤札」のお授けがありましたが「赤札」も「南無阿弥陀仏」と書いてあります。
澄禅「四国遍路日記」には「観自在寺、堂の内陣に観音の像あり、香花供養の法師の形の者一人在けれども由緒等無案内なり」とあります。いまもお堂の中で拝めます。江戸時代以来こういう内陣も開放して拝ませるという有難い伝統が続いているのでしょうか。昔は七堂伽藍が整い、四十八坊の末寺を有したということですが、その後何度も火災で灰燼に帰しています。昭和三十四年の失火のことは17年の遍路で泊まった門前の遍路宿の主人が昨日のことのように話してくれました。それは焚き火の後の灰の残り火を確認しないで本堂の縁の下に取り込んだためと云うことでした。このため本堂が焼失し、現在の本堂はその後の建立ということです。
平城天皇の御陵には五輪塔があり「春の夜の籠人ゆかし堂のすみ」と記した芭蕉の句碑もあります。これは芭蕉が「笈の小文」のなかで「初瀬」としてのせているものです。源氏物語玉鬘の巻にこの句の背景となったと思しき霊験談があります。筑紫に都落ちしていた、玉鬘(頭中将と夕顔の遺児)が理不尽な求婚から逃れる為上京し、長谷寺の御利益を頼み参籠するが、偶然、元夕顔の侍女で今は源氏に仕える右近に再会。右近の報告により源氏は玉鬘を自分の娘として六条院に迎えた、という物語です。霊験はあるということが源氏物語の中にも書かれているのです。
観自在寺の入り口には「大師値遭、随縁往来」の石碑もあります。これは真言僧がお大師様を拝む修法「弥勒法」の中の一節です。じつはこの出典が分からなかったのですがこの遍路の後、信貴山千手院で「弥勒法」の伝授を受ける機会がありこのなかにあることが分りました。縁が熟すということは有難い不思議なことです。