37番岩本寺から38番金剛福寺までは90キロです。全て歩けば2泊3日の道のりです。いままでも全行程を歩けてはいません。最初の時は電車を利用し、以布利港の遍路宿『旅路』にとまりました。名前が洒落ていると思ったからです。案の定、宿の夫婦は一生懸命もてなしてくれましたが如何せん生臭い魚の料理攻めには閉口しました。
遍路宿には色々な本が置いてあります。ここにも印象に残る2冊の本がありました。
一冊目は「お遍路に咲く花 通る風」で、若い女性が筆者です。
この中には「歩き始めて三十九日目の78番郷照寺の付近で国道沿いに歩いている時、挨拶をしても返事をしない老夫婦にすれ違い、悲しい寂しいと気持ちを抱いたときに、稲妻に打たれた感じがしてお大師様に会ったと思った」と書いてあります。
「大師と一緒だという一瞬の悟りめいた確信、胸のうちに光を抱えたような安堵感、幸福感・・・小理屈こねの不信人者であったこの私でさえお大師様にお会いできたのだ。」とありました。多くの人が大師にお会いできているのだと私自身も感じ、嬉しくなりました。 わたしも同じように66番雲辺寺で同じ筆舌に尽くし難い有難い経験をしました。後で書きます。
二冊目は「聖地足摺崎物語」で、鎮守の神様が修行者に与える言葉という設定で書かれている不思議な本でした。「足摺岬は弘法大師の昔から日本の補陀落といわれる観音さまの聖地で、人それぞれにいろいろな形で観音様を拝することができる場所なのだ。」
「観音様のお慈悲というものはそうしたわしら(鎮守の神)の仕事よりも一段高いところから降りそそがれておりそうしたより高い道に仕える者には単なる啓示や当てものというよりもう一段深い知恵というものが必要なのだ・・・おまえはもっと高いもっと深い仕事のために働くのだ。
その仕事は啓示や神通力を頼るのでなくおまえ自身がおまえの人生の中で仏様のお助けも得て体得した深い知恵に基ずいておこなっていくのだ。」とありました。 仏様のお仕事は天部や明王部の諸仏、神様たちが仏様の指示を受けて請け負っておられ、具体的な救済活動も行っておられるということはなにか納得させられます。霊界の多重構造とでもいうのでしょうか、我々行者が修法するときも、最初に色々な神仏に般若心経を捧げます。
1、 胎蔵曼荼羅の外金剛部の五類諸天(最外院に位置する色界・無色界天、欲界の夜摩天・兜率 天・他化自在天、四天王、日月星宿、龍、阿修羅、閻魔天等)、
2、 三界九居の天王天衆(欲界色界無色界に住む九種類の生物、つまり色界・無色界の各四天に人 間を足したもの、)
3、 当年星(行者の今年の守星)、本命星(行者の一生を主る星)、元辰星(一生の貧富盛衰を主る 星)、
4、 七曜二八宿、
5、 三十日を毎日守護する三十社(東西南北で百二十社)、
6、 その年の疫病神等。
こうしてみると神仏の世界は相当重層的であることがわかります。
こうした神々も我々の近くにいらっしゃって我々が拝むときはその法味を味わっておられるということです。いい加減に拝むことはできません。逆に真剣に拝めば必ずお蔭がでることはこういう霊界の多重構造に支えられているのです。
2度目の時は38番金剛福寺は、朝早くついて、山門が締まっていて入れませんでした。開く時間までとお思い門の前で座り瞑想をしていると、門前の土産物屋のおじさんが「ここは7時にならないと入れてくれませんよ」とわざわざ教えてくれます。相当の時間、瞑想できました。7時になり門があき、中に入ると12万平方キロという立派な庭が太平洋の大海原を背景に目前に広がりました。
ここは大師が巡錫中に千手観音様を感得され、嵯峨天皇から「補陀落東門」の勅額を賜って伽藍を建立されたところです。澄禅「四国遍路日記」には「金剛福寺、昔は寺領七千石余にして七百坊在して天正年間にことごとく衰微したるなり。今は寺領百石なり、本堂南向き、本尊千手」とあります。相当の名刹として中村から足摺岬一帯の中心であったのでしょう。御詠歌は「ふだらくや ここはみさきの ふねのさほ とるもすつるも のりのさだやま」です。奥の院は白皇神社です。元は白皇山真言修験寺として白皇山山頂に白皇権現を祀っていたとされます。また金剛福寺は熊野三所権現を勧請してあり、補陀落信仰への深い関わりを示しています。歴代渡海行者供養のための「補陀落渡海供養碑」がありました。井上靖「補陀落渡海記」では、熊野補陀落寺の住職金光坊が代々住職の渡海の年61歳の11月となったことによる恐怖と葛藤を記していますが、これは何とかの勘繰り・・というほどの大間違いの解釈です。実際は渡海住職は衆生済度のやむにやみがたい強い願いによって渡海されているのです。そういう意味では、他の四国霊場に多くある、霊場住職の土中入定と全く同じ動機です。
根井浄『補陀落渡海史』(法蔵館)によると補陀落渡海は平安時代から江戸時代頃まで行なわれ、全国で56例あるとされます。そのうち室戸、足摺岬関連もおおいのです。抜書きします。「・長保年間(999-)日円坊足摺岬より渡海(さた山縁起)。長保3年(1001)11.18 賀登上人足摺岬より渡海(観音講式・発心集・地蔵菩薩霊験記・蹉 山縁起・観音冥応集)・12世紀末? 室戸の蓮台上人南海往生(南路志)・讃岐三位夫の入道入水(発心集・観音冥応集)・理一上人足摺岬より渡海(長門本平家物語)・ある上人室戸岬より渡海(観音利益集)・康元2年(1257)実勝上人室戸岬より渡海(四座講縁起・星尾寺縁起)・康元4年(1259)3月22日、 行者常徳室戸岬より渡海(金剛頂寺文書)・正安4年(1302)以前、ある足摺岬より渡海 (とはずがたり)・享徳4年(1455)阿日上人足摺岬より渡海(さ蹉山縁起)・寛正2年(461)ごろ 正実沙弥足摺岬より渡海(さ蹉 山縁起)・永禄7年(1564) 伊予堀江における渡海(フロイス書簡)・明治42年(1909)天俊、足摺岬沖に補陀落入水(金剛福寺伝承)」というものです。土中入定と同じように明治になっても渡海僧がいたとは驚きと、敬服です。お大師様のおっしゃるように末法はないのだ・・と思わざるを得ません。
このさきの足摺岬には自殺志願者も多く訪れるところです。こうした伝承も影響しているのかもしれません。田宮虎彦の「足摺岬」もここへ自殺するために来た青年が遍路宿で思いとどまった話が書かれています。宿でお遍路さんが、青年に、過去を語る場面がありました。お遍路さんは、戊辰戦争のときの列藩同盟の藩士で、妻と子を殺してから、薩長連合に切り込みをかけたが死に切れずに生き残った等の話をしているうちに青年は自殺をあきらめ東京へ帰ります。「足摺岬」は、主人公が再び足摺岬を訪れる場面で終わります。田宮虎彦自身はのちに自殺しますが、氏もお遍路をしていればよかったのにと思いました。
後に述べる44番大宝寺への遍路路で出会った遍路もここ足摺岬へ自殺のために訪れて遍路の鈴の音に救われた人でした。後でのべます。
遍路宿には色々な本が置いてあります。ここにも印象に残る2冊の本がありました。
一冊目は「お遍路に咲く花 通る風」で、若い女性が筆者です。
この中には「歩き始めて三十九日目の78番郷照寺の付近で国道沿いに歩いている時、挨拶をしても返事をしない老夫婦にすれ違い、悲しい寂しいと気持ちを抱いたときに、稲妻に打たれた感じがしてお大師様に会ったと思った」と書いてあります。
「大師と一緒だという一瞬の悟りめいた確信、胸のうちに光を抱えたような安堵感、幸福感・・・小理屈こねの不信人者であったこの私でさえお大師様にお会いできたのだ。」とありました。多くの人が大師にお会いできているのだと私自身も感じ、嬉しくなりました。 わたしも同じように66番雲辺寺で同じ筆舌に尽くし難い有難い経験をしました。後で書きます。
二冊目は「聖地足摺崎物語」で、鎮守の神様が修行者に与える言葉という設定で書かれている不思議な本でした。「足摺岬は弘法大師の昔から日本の補陀落といわれる観音さまの聖地で、人それぞれにいろいろな形で観音様を拝することができる場所なのだ。」
「観音様のお慈悲というものはそうしたわしら(鎮守の神)の仕事よりも一段高いところから降りそそがれておりそうしたより高い道に仕える者には単なる啓示や当てものというよりもう一段深い知恵というものが必要なのだ・・・おまえはもっと高いもっと深い仕事のために働くのだ。
その仕事は啓示や神通力を頼るのでなくおまえ自身がおまえの人生の中で仏様のお助けも得て体得した深い知恵に基ずいておこなっていくのだ。」とありました。 仏様のお仕事は天部や明王部の諸仏、神様たちが仏様の指示を受けて請け負っておられ、具体的な救済活動も行っておられるということはなにか納得させられます。霊界の多重構造とでもいうのでしょうか、我々行者が修法するときも、最初に色々な神仏に般若心経を捧げます。
1、 胎蔵曼荼羅の外金剛部の五類諸天(最外院に位置する色界・無色界天、欲界の夜摩天・兜率 天・他化自在天、四天王、日月星宿、龍、阿修羅、閻魔天等)、
2、 三界九居の天王天衆(欲界色界無色界に住む九種類の生物、つまり色界・無色界の各四天に人 間を足したもの、)
3、 当年星(行者の今年の守星)、本命星(行者の一生を主る星)、元辰星(一生の貧富盛衰を主る 星)、
4、 七曜二八宿、
5、 三十日を毎日守護する三十社(東西南北で百二十社)、
6、 その年の疫病神等。
こうしてみると神仏の世界は相当重層的であることがわかります。
こうした神々も我々の近くにいらっしゃって我々が拝むときはその法味を味わっておられるということです。いい加減に拝むことはできません。逆に真剣に拝めば必ずお蔭がでることはこういう霊界の多重構造に支えられているのです。
2度目の時は38番金剛福寺は、朝早くついて、山門が締まっていて入れませんでした。開く時間までとお思い門の前で座り瞑想をしていると、門前の土産物屋のおじさんが「ここは7時にならないと入れてくれませんよ」とわざわざ教えてくれます。相当の時間、瞑想できました。7時になり門があき、中に入ると12万平方キロという立派な庭が太平洋の大海原を背景に目前に広がりました。
ここは大師が巡錫中に千手観音様を感得され、嵯峨天皇から「補陀落東門」の勅額を賜って伽藍を建立されたところです。澄禅「四国遍路日記」には「金剛福寺、昔は寺領七千石余にして七百坊在して天正年間にことごとく衰微したるなり。今は寺領百石なり、本堂南向き、本尊千手」とあります。相当の名刹として中村から足摺岬一帯の中心であったのでしょう。御詠歌は「ふだらくや ここはみさきの ふねのさほ とるもすつるも のりのさだやま」です。奥の院は白皇神社です。元は白皇山真言修験寺として白皇山山頂に白皇権現を祀っていたとされます。また金剛福寺は熊野三所権現を勧請してあり、補陀落信仰への深い関わりを示しています。歴代渡海行者供養のための「補陀落渡海供養碑」がありました。井上靖「補陀落渡海記」では、熊野補陀落寺の住職金光坊が代々住職の渡海の年61歳の11月となったことによる恐怖と葛藤を記していますが、これは何とかの勘繰り・・というほどの大間違いの解釈です。実際は渡海住職は衆生済度のやむにやみがたい強い願いによって渡海されているのです。そういう意味では、他の四国霊場に多くある、霊場住職の土中入定と全く同じ動機です。
根井浄『補陀落渡海史』(法蔵館)によると補陀落渡海は平安時代から江戸時代頃まで行なわれ、全国で56例あるとされます。そのうち室戸、足摺岬関連もおおいのです。抜書きします。「・長保年間(999-)日円坊足摺岬より渡海(さた山縁起)。長保3年(1001)11.18 賀登上人足摺岬より渡海(観音講式・発心集・地蔵菩薩霊験記・蹉 山縁起・観音冥応集)・12世紀末? 室戸の蓮台上人南海往生(南路志)・讃岐三位夫の入道入水(発心集・観音冥応集)・理一上人足摺岬より渡海(長門本平家物語)・ある上人室戸岬より渡海(観音利益集)・康元2年(1257)実勝上人室戸岬より渡海(四座講縁起・星尾寺縁起)・康元4年(1259)3月22日、 行者常徳室戸岬より渡海(金剛頂寺文書)・正安4年(1302)以前、ある足摺岬より渡海 (とはずがたり)・享徳4年(1455)阿日上人足摺岬より渡海(さ蹉山縁起)・寛正2年(461)ごろ 正実沙弥足摺岬より渡海(さ蹉 山縁起)・永禄7年(1564) 伊予堀江における渡海(フロイス書簡)・明治42年(1909)天俊、足摺岬沖に補陀落入水(金剛福寺伝承)」というものです。土中入定と同じように明治になっても渡海僧がいたとは驚きと、敬服です。お大師様のおっしゃるように末法はないのだ・・と思わざるを得ません。
このさきの足摺岬には自殺志願者も多く訪れるところです。こうした伝承も影響しているのかもしれません。田宮虎彦の「足摺岬」もここへ自殺するために来た青年が遍路宿で思いとどまった話が書かれています。宿でお遍路さんが、青年に、過去を語る場面がありました。お遍路さんは、戊辰戦争のときの列藩同盟の藩士で、妻と子を殺してから、薩長連合に切り込みをかけたが死に切れずに生き残った等の話をしているうちに青年は自殺をあきらめ東京へ帰ります。「足摺岬」は、主人公が再び足摺岬を訪れる場面で終わります。田宮虎彦自身はのちに自殺しますが、氏もお遍路をしていればよかったのにと思いました。
後に述べる44番大宝寺への遍路路で出会った遍路もここ足摺岬へ自殺のために訪れて遍路の鈴の音に救われた人でした。後でのべます。