福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金剛智三藏と將軍米准那・・3(最終)

2013-10-31 | 法話

 かくの如く准那の二字は波斯語系の言葉の「ゼーダ」又は「ザーダ」の音譯であるとして、然らば「米」の字もやはり波斯語系の言葉の音譯であるかと云ふと、左樣容易くは參りませぬ。漢晉以來唐に至るまで、西域東陲から支那に歸化した外人は多くありまして、其の姓氏は或は出身郷土の名をとり、又は職業官爵等の名から採用したものが多くあります。米姓のものも晉唐の時代にはちらほら歴史上に見受けまするが、さほどに多くはありませぬ。是等の姓名の起源に關して、今は故人となりましたが、私どもの畏敬の友人の一人で、諸君も中學の東洋史で御眤みの桑原隲藏博士が、「隋唐時代に支那に來住した西域人に就いて」と云ふ論文を昭和二三年頃に發表し、私も其の論文の別刷を博士から頂戴致して居りますから、諸君の中で密教の研究史上東洋一般のことが知りたいと思はるゝ方は是非一讀を願ひたいが、桑原博士の論文中には、今日講演の問題となりて居る米准那のことは何等の記載もなく、隨つて研究もありませぬ。しかし其の他の點では、私共の蒙を啓くことが多くありまして、流石に生前中は、東洋史專攻の人々から泰山北斗の如く仰がれただけあります。亡友に對する感想の發露はやめに致しまして「米」の字の研究にとりかゝります。

「米」(イ)此の字を國名にした國が、中央亞細亞「サマルカンド」の東にありました。彌秣賀と云ふのはこれであります。唐代ではこれを「米」國と申しましたが、これは彌秣賀の初の字彌の音譯か、また全部の字の義釋であるか判然しませぬが、ともかくも、唐代ではこの國を「米」國と云つた例から見れば、米准那の三字は、「米國生れ」と云ふ義になります。即ち、中央亞細亞の一小國で何等海洋に縁故のない國に生れて、南印度の國王に仕へ、其の舟師を率ゐて支那に向つた將軍の姓名としては、如何にもふさはしくない樣な心地は致しまするが、かゝる事は絶無とも云へませぬから一概に否定出來ませぬ。
(ロ)次には、支那には用例はありませぬが、准那の二字が波斯語系の語の音譯であるに適合せんがため、同語系の語で、「米」字の音に邇く且つ姓字に用ひられた例もあるものは、宿曜經などに「蜜」と音譯してある、中世波斯語「ミール」(Mihr)であります。太陽または日の波斯語であります。これならば、かの世親菩薩が教育したと云はるゝ幼日王バーラーデイテイヤと對して、印度中原の鹿を爭うた「マヒーラ・クラ」又は「ミヒラ・クラ」又は「ミヒル・ゴラ」王の姓名の一部をなすものであるから、准那と連ねて讀むと、「ミールゼーダ」と云ふことになり、太陽の子、日の御子、又は日曜日に生れたる子などの解釋が出來て、如何にも將軍、水師提督、「アドミラル」閣下の姓字として適當のやうでありますが、如何にせん、かゝる姓字または名稱は中世波斯の文學には見當りませぬ。
(ハ)中世波斯の文學にも人名としての用例があり、支那人の加へた將軍の二字にもふさわしく、水師提督の身分經歴門地などを表幟するに足る語として、「米」字の發音に邇き語はなきかと云ふと、本來の波斯語には見當りませぬが、亞剌比亞語の「アミール」又は「ヱミール」から轉訛して、波斯または土耳其の語となつて居る「ミール」と云ふ語があります。これは一番適當な語であります。米准那と續けて發音しますると、「ミール、ゼーダ」「ミール、ザーダ」で、公子公孫の意味の言葉ともあり、將軍の子、方伯連帥の子などの意味を標幟する尊※(「禾+爾」、第4水準2-83-10)ともなりまして、中世波斯の文學中には人名として時々見當りまするのみならず、今日でも回々教徒の間に使用せらるゝ姓字であります。元來亞剌比亞語の「アミール」(Amir)又は「ヱミール」(Emir)の語は、將帥方伯・宰相等すべての文武の大官を示す語でありまして、後には實職なき人々でも、身分の高貴を標幟する尊稱に用ひられましたが、實職實務のある人々には、其の官職の名稱を此の語に附着さして呼ぶのが本筋でありました。例せば水軍の司令官でありましたら「アミール、アル、マ」(Amir al ma)とか「ヱミール、アル、マ」(Emir al ma)と呼んだもので、いつしか最後の「マ」の字を略して、「アミラル」とか「ヱミラル」と云ふ風になりまして、「サラセン」帝國の文化が地中海沿岸の諸國に光被し、其の武力が海陸共に基督教國の人民王侯を威壓した時代には、基督教國の陸海軍の將帥は自國語で呼ぶ官職の名を捨てて、喜んで「アミラル」(Amiral)又は「ヱミラル」(Emiral)の稱呼を用ひたものであります。佛蘭西の國王路易九世(Louis IX)の時代には、陸軍の將帥が「アミラル」の號を用ひました例があります。今日の歐米各國で、海軍の將帥を「アミラル」と云ひ又「アドミラル」と云ふは、「サラセン」帝國の國威の旺盛なりし頃、後進の基督教國の國々が其の後塵を拜して名實共にこれに模倣した遺風であります。因に申しまする。英語で「アドミラル」と云ふときの「ド」の音は、もとたゞ「ア」を促つめて短く發音さす爲にいつの世にか添加せられたもので、拉丁語の「アトミラーリス」と云ふ形容詞とは何等の關係があつた譯ではありませぬ。又「アミール」と云ひ「ヱミール」と申しまするは、畢竟亞剌比亞語の發音は、日本語の「ア」でもなく又「ヱ」でもありませぬから斯く二樣に發音致しましたので、もともと一つのものを云ふのでありますから、二つの異つた官名または尊稱を云うたのではありませぬ。恰も英語で「a」を書いたり、佛語で「e」を書いたりすると同樣であります。

 話は岐路に向ひましたから、本筋に戻りまして、米准那即ち「ミール、ゼーダ」の言語は、中世の波斯語または亞剌比亞語でありますから、今日では最後の音のダを通例省略致しまして、「ミール、ゼー」又は「ミール、ザー」と申します。印度の宗教都市で一番有名なる、「ベナーレス」(Benares)梵語で申しますると「バーラナシイ」の南西の方角に當りまして大約日本里數で十五里許りの地に「ミールゼープール」(Mirzapur)と申す都市があります。陶器の産地で、人口が六七萬位の小都市で、格別取立てて申上げる程の都市ではありませぬが、其の名は、公子または公孫の都市と云ふ義であります。「プール」は新嘉坡の坡と同じく、都城と云ふ梵語から來た言葉で、其の前に來る「ミール、ゼー」は「ミールザーダ」又は「ミール、ゼーダ」の「ダ」が省略された結果であります。其の他、印度及び波斯の人名または地名で、此の語を前節に用ひ、後節に邑落、都市の義を有する名詞を用ひた例は少くありません。
 かく説き來れば、諸君の中には或は疑惑の念を起さるゝ方も皆無ではありますまいと存じます。先づ第一に起りさうな疑念は米准那の「米」字は、亞剌比亞語の「アミール」又は「ヱミール」に起源を有する「ミール」の音を寫したとして、如何なる次第で最初の「ア」又は「ヱ」は省略せられて單に「ミール」となつたかと云ふことでありませう。これは「ミール」の聲音を強く力を入れて發音せねばなりませんから、自然最初の「ア」又は「ヱ」は省略さるゝに至つた譯で、殊に准那と云ふ語の發音を後に控へて居りますから、なるべく發音し易く、簡易に發音出來るやうに、最初の「ア」又は「ヱ」を省きたものと思はれます。第二には、然らば最後の「ダ」を何故に省略するに至つたかと云ふ疑念でせう。これも「ヱミール」の場合と似て、「ゼーダ」又は「ザーダ」の「ゼ」「ザ」を強く力を入れて發音せねばなりませぬから、所謂勤勇所要の勞力を儉約せんがために遂に「ダ」の音を省略したのであります。かゝる現象は、我が國の言葉にでも屡々見受けられます。一例を擧げますれば、國名の發音に於て、武藏相模の場合です。此等の地方は上總下總などの國名に於てなほ見らるゝごとく、「プサ」と云ふ、麻か苧か楮か知りませぬが、とにかく、纖維工業に必要な植物の培養に適した地方であつたことは、建國の始め、天富命が天孫の命によりて此の地方に楮麻を植ゑられたと云ふ史實からでも推定出來ます。此の地方を「プサガミ」「プサシモ」と昔から區分して名附けましたところ、いつしか、「プサシモ」の「モ」が發音せられずになりまして、其の鼻音性だけを初めの「プ」の音に添加しましたから、同じく唇音ではあるし、其のうへ鼻音性が加はつたものですから「プ」は「ム」となりました次第で、これに類似した音を漢字で武と藏とを配しましたが、「サウ」と音こそあれ、如何に考へても藏字に「サシ」と云ふ音がありませぬ。しかし昔から實際の發音は「ムサシ」で、神代ながらの「プサシモ」の俤を保有して居ります。次に相模の國名でありますから、武藏の國名がもと「プサシモ」であつたにむかへて、「プサガミ」でありましたが、いつしか最初の音の[#「音の」は底本では「昔の」]「プ」が呼稱の便利から消滅して、「サガミ」とのみ呼ぶやうになりました次第であります。以上は言葉の初めと終とが省略せらるゝ好適例として掲げましたが、場合により中間の音が變化し、又は省略せらるゝこともあります。上總と下總との國名は好適例であります。これは、もと/\「カミプサ」と云ひ「シモプサ」と呼んだことに相違ありません。然る處「カミプサ」の場合には、第二位の「ミ」は、いつしか單に鼻音化せる母音となり、これに影響せらるゝ第三位の「プ」は、第四位の「サ」の摩擦音の硬音性にも影響せられ結局以レ和爲レ貴とあつて、第二位の「ミ」から軟音性をとり、第四位の「サ」から摩擦音性をとりて結局「プ」の音は軟音の摩擦音即ち「ズ」となつたものと思はれます。下總の國名の場合には、今日の實際の發音は「シモーサ」で、先年文部省で制定した字音假名遣の[#「字音假名遣の」は底本では「字音假名遺の」]棒引法では、洵によく現實の發音が寫されて宜しきやうでありますが、民間ではやはり「シモフサ」と書きまして今日に至つて居ります。半濁音の性質を失つただけで、やはり民間の假名遣法には神代ながらの俤を保存して居ることには、私ども老人には何となく嬉しき心地があります。
 私は金剛智三藏や將軍米准那のことにつきて講演致しながら、何等これと關係のなき「プサ」の國の由來を持出して、長々しく諸君の清聽を汚した事を恐縮致して居りまするが、また一方ではあながち金剛智三藏や米准那と、日本の東部の江戸灣、靜岡灣即ち富士の靈峰が、朝日の光を受けて影を太平洋上になげる地方のこととは無關係であると斷定出來ぬと思ひます。甚だ牽強附會のやうでありますが、金剛智三藏が開元七年または八年、長安に入り、二十九年入寂せられるまでは約二十有餘年間ありますが、其の間は日本に於て、開闢以來と申しませうか、建國以來と申しませうか、とにもかくにも、古より未だ曾てなき文化事業が經營せられ、完成された時代で、日本が支那を介して印度または西域の文化を吸收するに最も力を効した時代でもあり、また支那人の間には日本を認めて、日出の國、義和が建てた國だと信ぜられ、神仙の棲遲する國、長生不死の靈藥の生ずる地域であると信ぜられたのみならず、航海者として支那海に往來する西域の船舶が、日本または朝鮮に潮流の工合に漂着した事もあり、殊に東大寺落慶の齊會または庭儀に參列した樂人の中には林邑即ち今の佛領印度の南部、コシン、チヤイナに國を建てた占城の樂人も居つたことを見ると、これらの國から乘つた人々の船舶は、支那の船舶のみであつたとは信ぜられませぬ。昔から、支那の書物に著はされてある扶桑の國の位置は、もし架空の神話からでなく幾分の現實性ある知識から出でたものとすれば、富士の靈峰が太平洋の清波に影を投ずる地方即ち昔時のプサ國でなければなりませぬ。今日に於てもアイヌ語でプサと云ふ語が存在して、麻苧のことを意味して居りますが、此の語は、アイヌが本來の語であるか、或は天富命に從うて、江戸灣、靜岡灣一帶の地に楮麻を植ゑた大和民族の言葉から借り用ひたものか、否やの問題に至りては暫らく後賢の研究を待つことにいたします。

 將軍米准那の舟師を支那に遣はした南印度の王は、捺羅僧伽補多跋摩ナラシンハポータ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマンと云ふ名の方で、跋摩(鎧)と云ふ語で終つてあり、正眞正銘の刹帝利種である事が明白であるのみならず、またパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族の王者であると云ふ事も判明して居ります。また捺羅僧伽ナラシンハは、韋紐天第四の化身の名であります。即ち人身獅頭の化身で、惡鬼を退治せんため天より下界に降臨した韋紐天の名をつけたものでありますから、正眞正銘の印度アーリヤの信仰を持つた王者であつた事はこれでも知れます。たゞ問題となるは其の次に來るポータの語の意味です。船と云ふ義もあり、また四足獸の子と云ふ意味もあります。シンハは獅子ですから獅子の子と解しても差支へはなく、またパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王族が以前から鑄造せしめて其の領内に流通せしめた硬貨の紋章には、流石に通商立國の國是の國だけあつて二本の帆檣を建てた船の紋章が刻印せられてありますから、ポータを船と解しても差支へはありませぬ。孰れにしてもこれは大した問題とはなり得ませぬ。何故かと申しますると、今日まで知られて居るパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王族出身の王者の名には、單に捺羅僧伽跋摩と云ふ名の王は二人ありますが、いづれにも補多に該當するポータの語は名前の中に見えませぬからであります。しかし、私だけの意見を申上げますと、漢字の音譯、捺羅僧伽補多の六字の次に羅の字が一つ落ちて居るのではないかと思ふのです。さうとすれば、補多羅の三字に、梵語の pautra(孫)と云ふことになります。事實この王は別表に於ても御覽の通り、西洋紀元六百三十年から六百六十八年まで王位に居つたナラシンハ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン王の孫に當つたと見えまして、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族の習慣に從ひ祖父と同じ名を稱して居ります。ですから、補多の二字をパウトラの俗語化ポータと解して、俗語の形で支那に傳はつたと見ても差支へはありませぬ。金剛智三藏が支那に向はるゝ時代に、南印度の王で、捺羅僧伽の名を冠した王者は此の以外に居りませぬ。此の王の在位の年時は、西暦紀元六百九十年から七百十五年に亙つて居りますから、開元七年または八年、金剛智三藏の入唐の年は西暦紀元で申しますると七百十九年か、または七百二十年ですから、當時は、王位を去りてのち、四年乃至五年經過して居ります。次の王は、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王族の習慣に基づき、祖父の名を襲うてパラメーシ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ラ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマンと申しまして、西暦紀元七百十五年から七百十七年まで位に居りました。國を享くること甚だ短くて、至つて薄祐の王であつたらしいのであります。


 話がこゝまで進んでまゐりますと、此のパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王朝のことにつきて御話申上げねば、佛作りて魂を入れぬやうな心地が致しますから、暫時話さして戴きます。パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82) pallava 王朝の名は、梵語として見れば「花の蕾」とか「木の若芽」とか、「梢」とか云ふ意味の言葉でありますが、これはもと/\「パツフラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」(pahlava)とも「パツルハ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」(palhava)とも申しまして、俗語から來たものである事は貨幣または碑文から證明せられてありますから、一概に花の蕾王朝、乃至若芽王朝など云ふ陽氣な景氣のよい名前に解することは出來ませぬ。而してパツフラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)とかパツルハ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)とか云ふ俗語の形は、純粹のインド、アーリヤ系の言葉とも見えませぬ。寧ろ別の系統の言葉から轉訛したものの樣でありますから、之に便乘してパルテイヤ即ち支那で申しまする安息アルサケス國の國名と同一であつて、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)即ちパールダ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)説が出現して、一時は西洋の印度波斯學者の間に殆んど定説のやうになりましたのであります。序ながら申上げますが、パルテイヤ Parthia と申しますのもペルシヤと申しますのも畢竟するに方言的發音の相違で、東部北部のイラーン高原邊陲の波斯帝國の部分ではパルテイヤと申しまして舊い形を保有し、西部南部のイラーン高原の部分ではテイがシとなつて Parasia Persia となつただけであります。いづれも梵語のパルツフ又はプリツフ(parthu, prthu[#「prthu」のrは下ドット付き])、英語のブロード(broad)、獨逸語のブライト(breit)と、同系の印歐語系の言葉で「廣きもの」又は土地、國土の義を有する語であります。また安息アルサケースは、イランの東部から起りてバクトリヤから印度の北西部に亙りて國を建てた波斯語系の王朝の名で、西朝紀元前二百五十年頃から西暦紀元後二百二十六年までつゞいた王朝で、支那の歴史では秦の始皇帝頃から東漢の孝獻皇帝の禪讓の時までに亙つて居ります。日本では孝靈天皇の御宇の始頃から神功皇后の御攝政時代の第二十六年に相當致しまする年間で、印度ではかの孔雀王朝の阿育王の時代から龍樹菩薩と交渉のあつたと云はるゝ娑多婆漢那王朝の末期までの年代に相當し、隨分長くつゞいた王朝でありました。陸軍は強く、流石の羅馬の武力を以てしても、波斯と羅馬との勢力範圍の境であつたテイグリス(又はタイグリス)河を一歩も東へ進むことが出來なかつた。この王朝の王樣達の名前のつけやうを見ますと、きつぱりとは申されませぬが、大體から見て祖父または父の名を襲用した點は、前刻申上げました通り南印度のパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王朝の王樣達の名前のつけやうと類似して居ります。此等の點等から見て、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)王朝は安息國即ちパルテイヤ王朝の枝分であるとの説が出たものと考へられないこともありませぬ。今日ではパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族を以て、安息王朝の建設し君臨したパルテイヤ國出身であつたと云ふ説は下火になつて居り、また肝腎、此の説を提出して一時印度學者波斯學者をして、隨喜驚歎せしめた英國の學者が、進んで自説を取消して居るやうな有樣であるから、私どももかれこれ云うて進んで死灰再燃の勞に服せんとするのではありませんが、此の説はあながち反對論者の説にのみ耳を傾けて其の云ふまゝに任することは、學者の良心上出來ないのであります。反對論者は、パルテイヤ帝國の陸軍の強きことのみを見て、當時の波斯民族の海軍がアケメニード(Achemenides)王朝時代の波斯民族と同じく、依然印度洋亞剌比亞海の制海權を保有して居つたことに想到せず、ひたすら安息王朝の武士が肥馬に跨り堅甲を披て、勁弓大箭を以てイラン高原から出で、印度を蹂躙し、征服した歴史上の確證がないから、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族の名稱がパルテイヤの名稱とは何等の關係ないと云ふが、アケメニード王朝以來、波斯民族の船舶は、西は阿弗利加の東岸から支那海に至るまで陸上に於ける王朝の興亡、隆替に煩はされずして活動を續けたことを思へば、印度の東海岸に通商立國の國是を以て國を立てたパツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)族を以て波斯民族の一支派でないとすることは、吾人の輙く承服出來ぬ所であります。
 今日でも東は南方支那から西は阿弗利加に至るまで、或は水夫となり或は水先案内などを業務として海上生活をして居る、「ラスカール」(Lascar Lashkar)と云ふ種族があります。東洋から印度洋を通過して西洋に赴く船が港に寄ると、船に荷物を積み又は船から荷物を上げる人夫の中には、色こそ多少黒きやうだが、言葉から見ても又は容貌から見ても、深目隆準明かに波斯系のものであるのはこの「ラスカール」で、二千五百年の昔から「フヱニキヤ」人や「アラビア」人と共に波斯灣から出でて印度洋南海支那海の水上交通に貢獻した波斯民族の殘した種族であります。其の名稱から見ても、兵士または軍卒と云ふ意味ですから波斯語系の民族であることは明白です。以上申上げたことから舊説ではあるが、これに反對する人々の説も俄かに贊成出來ない譯であります。
 波斯の古代「アケメニード」王朝時代と安息王朝時代との研究が未だ東西の學者の間に充分でなく、また波斯の中世紀薩珊王朝の時代の研究が未だ充分でない結果、古代を論ずるごとに、常に希臘史家の資料に基づきて事毎に希臘を推し、中世を論ずるごとに、亞剌比亞人の資料にのみ基づきて事毎に「アラビヤ」を推して、波斯の民族の文化と武力とを閑却する傾向あるを私は常に遺憾とするものであつて、古代のことは暫らく措きて論ぜざるも、西部亞細亞に於て、西暦第七世紀に於て、亞剌比亞人が「モハメツト」の指導の下に大帝國を建設し得たる所以は、畢竟するに「メソポタミヤ」と「ナイル」河流域との兩文化の繼承者たりし波斯帝國の文化を、亞剌比亞人が繼承し得た結果に外ならぬと私は常に思ふ所であります。今日に至るまで亞剌比亞語と思はれたものは、波斯民族の語であつて、亞剌比亞語となつたのは非常に多い。通商、工藝、政治、法律、宗教などの領域に於て、亞剌比亞人が波斯人に負ふ所は尠くない。就中、通商または航海に於ては、古代中世の波斯人は明かに亞剌比亞人の先輩であつた。のちに亞剌比亞人の領土となつたが、其の開拓者または最初の施設者は波斯人であつた。一例を擧ぐれば、亞弗利加の東海岸に於て「ザンヂバル」と云ふ國があります。亞剌比亞人が此の國から奴隸を買取つて諸國に賣出すから奴隸の國と呼び、「ザンヂバル」と申しまするが、よく/\其の語の起源を尋繹しますると、「ザンヂバル」の「ザンヂ」は波斯人の言葉で「ヂエンヂ」であつて、黒人と云ふ語から轉訛したものである。また「ターヂツク」(T※(マクロン付きA小文字)jik)即ち、支那で大食國など云ふときの大食でありますが、これは梵語の「ダーサ」例せば「カーリダーサ」など云ふとき「ダーサ」に語源上匹敵する波斯語の「ダーヂツク」から來た言葉で、もと/\波斯の支配階級が農商工の被支配階級に對して用ひた侮蔑の語であつたが、亞剌比亞人が波斯帝國を滅して、其の支配階級を滅したのちでも、農工商の階級に對して從來の呼稱を襲用した次第でありましたから、大食國とは、亞剌比亞人の主權の下にある波斯民族の義でなければならぬ。故に支那で云ふ大食國を以て直ちに亞剌比亞民族の邦とするは、政治的にはともかくも、民族的意味から見ますと聊か不當なる心地がせぬでもない。
 論じて茲に至れば將軍米准那の姓字は、亞剌比亞系の「ミール」と波斯系の「ゼーダ」又は「ザーダ」とから成立して居るから、將軍の民族的所屬は大食國ではなかつたか如何、と云ふ問題に到達するが、これに對して私は、唐代に所謂大食國の地理的位置、殊に天寶十二年の初頭に於て、玄宗皇帝が含元殿に於て内外國人の年賀を受けた際、我が國から派遣せられた遣唐大使、藤原の清河や古麿等が最初西畔第二大食國の下に置かれましたが、其の時の大食國はいづれの亞剌比亞人の國であつたか知る由もなく、たゞ舊唐書に大食國は波斯の西にあり、兵刄銛利、戰鬪に勇なりとの記事だけではあまり漠然として居るから、今日の處では「パルテイヤ」帝國の王族と、本末枝幹の關係が甚だ濃厚であつたと見るべき「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」國の所屬であつたと云ふに止める。

 たゞ此の際此の王朝の起源について、はつきり申上ぐることの出來ることがあります。此の王朝は、西暦紀元第三世紀の前半まで南印度に君臨して居つた娑多婆漢那シヤータ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーハナ王朝(※(セディラ付きC)※(マクロン付きA小文字)tav※(マクロン付きA小文字)hana)の後を承けまして、最初は方伯連帥の資格で那伽ナーガ族、チユフツ族等の諸侯伯と駢立して、南印度の東岸「クリシユナ」(Krisna[#rsnはそれぞれ下ドット付き], Kitsna)河の河口に都を建て後に王位を稱するに至つたと云ふ事であります。龍樹菩薩と同時であつたと云ふ市演得迦王、宋の求那跋摩の譯した龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈の經名に見えて居りまする禪陀迦王は、恐らく娑陀婆漢那シヤータ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ーハナ王朝の末期に出でて、佛教の僧侶を保護して、或は阿育王の建てた「ブヒルサ」古代の「※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)デイサ」(Vedisa, Bhilsa)の塔を修築し、或は諸方に洞窟を掘つて僧坊に宛て、或は盛んに佛寺を建立した ※(セディラ付きC)※(マクロン付きA小文字)ta-karniシヤータ、カルニ[#nは下ドット付き] 王の名の訛略即ち「シヤーンタカ」※(セディラ付きC)※(マクロン付きA小文字)nta-ka(rna)[#後のnは下ドット付き] であるまいかと私は思ひまするから、茲に問題になつて居りまする「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」王朝とは何等の關係はありませぬ。また此の王朝の特徴は、航海通商に力を効したことで、支那に於ける禪宗の始祖と云はるゝ達磨大師は香至國(K※(マクロン付きA小文字)※(チルド付きN小文字)ci-pura)の王子であつたとの事から見ると、「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」種族の出身と見なければならぬ。達磨大師は南北朝時代に梁の武帝の普通元年廣州即ち廣東に來たとの事であるから、西暦紀元五百二十年で金剛智三藏の入唐に先立つこと二百年であります。此の時代の「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」王朝は二分せられ、香至國以外に「グンツール」(Gunthur)と「ネロール」(Nellore)との間にあるパラクカダ(Palakkada)と云ふ地に都がありましたから、いづれの王朝の王族であつたか判然せぬが、とにもかくにも、達磨大師は、「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」族の王子であつたに相違ない。刹帝利種で、金剛智三藏のやうな婆羅門族でなかつたことは明白である。其の廣州に入つた當時は世壽幾何であつたか判然せぬが、西暦紀元五世紀から六世紀に至りて、パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)種族の王には、一方では「スカンダ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり(四百五十年―四百七十五年)、(別紙表參照)「シンハ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり(四百七十五年―五百年)、「スカンダ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」(五百年―五百二十年)、「ナンデイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」(五百二十五年―五百五十年)あり、他方では、「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)シユヌ・ゴーパ」あり、「シンハ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり、また「※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)シユヌ・ゴーパ」あり、また「シンハ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン」あり(五百五十年―五百七十五年)、達磨大師は梁の武帝の大通元年遷化した筈だから、いづれ前に掲げた王樣の誰かの子であつた筈である。其の血脈の中には、印度の武人の血が流れて居たに相違ない。梁の武帝の小乘的思想を無功徳の三字で喝破しただけの勇氣はあつた人に違ひない。また見樣によつては、羅馬武士に劣らぬ「パルテイヤ」武士の血が流れて居つたとも見られる。世人は、達磨大師の面壁九年の話やら、神光との問答の話や、大師に關する種々の奇怪なる話が如何にも常情を以て測ることの出來ぬを見て、達磨大師西來の眞面目につき種々の懷疑的評論をなす人もある。私どもも、達磨大師の支那に來たのちの傳説は後人の作であつたと云ふ説には、或る程度まで尤もだと思ひますが。達磨大師に限らず、當時印度に於て漸く組織的になり、體形を具するに至つた新佛教の哲學及びこれに基づきて現はれた修養・教育方法を傳へんため、支那に來た眞諦三藏等が、實利一點張りの南方支那人、官仕して利禄を求むることに終生專念する南方の支那人、華靡、駢儷對偶の文體に浮身をやつす支那の文人または知識階級に接して、適當なる法器を發見し得るに如何に苦心し失望したか、達磨大師に關する物語から推測することが出來ると思ふものであります。達磨大師が印度から支那へ西暦紀元五百二十年に來たか否か、梁の武帝と問答したか否か、乃至一葦の葉に身を托して、揚子江を渡つて北方支那に向つて赴いたか否か、私どもの問ふところでない。たゞこれによりて、印度に起つた大乘佛教の思想が南方支那を見限つて北方支那に移り、北方支那にも僅に履半足だけを殘して再び流沙葱嶺の西に歸つたと云ふことで、西暦第六世紀の前半には、南北支那いづれも大乘相應の國でなかつたことを認知すれば、それでよろしいのであります。それから約二百年を距てて、同じ「パツラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)」族の國から、印度宗教の精華、大乘佛教の極致たる眞言密教を金剛智三藏が來りて支那に傳へ、支那の民族的宗教の道教と融合して、渾然相支吾することなき密教を、儒道佛の三教に通じた宗祖大師によりて、達磨大師の時代から三百年の後に我が國に將來せられたのであります。其の間に、達磨大師の提唱にかゝる新興佛教に驚魂駭魄の支那の知識階級は、これを理解し、體得するまでに、先づ具舍の研究から始めて確實に佛教の經論に用ひられたる用語、術語の觀念を把握せねばならなかつた。唯識の知爲眞の認識論から出發して、八不中道、百非皆遣、人法無我の高遠なる哲理を把握せんとして把握出來ず、體得出來ずして、動もすれば、淺薄皮相の懷疑に陷り、絶望の地獄に陷らんとするに臨みて事事無礙、理事圓融の哲理が現はれて、やがて即事而眞、色心一如、凡聖不二の宗教が建立せられ、小乘の佛教に説く地獄極樂の説に拘泥し、現世死後の應報の説に心を奪れた民衆は、天空海濶の自由の天地に活動の場所を發見し、輪王無價の髻珠は外に求むるまでもなく、却つて大なる自我の中にあり、胼胝窮子の辛苦して尋ね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はる眞の父は、遠きに求むるまでもなく、却つて自己の眼前に居ることを悟らねばならなかつた。今日より遡りて考へて見ると、達磨大師が通商立國を國是とした南印度の國土、海に入りて寶を求むる事を建國の主義とした南印度の都邑に於て、※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)釀發生した印度文化の最高潮に達した時代の思想を支那に齎らした時代、また眞諦三藏が、南北印度交通の要衝として印度の天文地理學者が經度メリデヤン線の起點として定めた鬱邪尼ウヂヤイニイの都の學術科學を將來した時代、即ち西暦紀元第六世紀の前半から、同じ通商立國の國即ち香至國カーンチプラの艦隊に護られて金剛智三藏が入唐の時代まで、大約二百年の間かゝつて、支那に於て漸やく眞の大乘思想が會得せられ體認せられた次第でありまして、法顯三藏が其の著、佛國記中、巴連弗邑 P※(マクロン付きA小文字)tali-gr※(マクロン付きA小文字)ma[#tは下ドット付き] の節に於て述べ居られる如く、僅に羅越宗 r※(マクロン付きA小文字)jya-sv※(マクロン付きA小文字)mi, また智猛の所謂羅汰私寐迷 rattha-sv※(マクロン付きA小文字)m※(マクロン付きI小文字)[#tはともに下ドット付き](r※(マクロン付きA小文字)stra[#stはともに下ドット付き]-sv※(マクロン付きA小文字)m※(マクロン付きI小文字))と稱せらるゝ一婆羅門子により北方印度に於て保護し支持せられたに過ぎなかつた大乘思想は、此の二百年の間に於て、支那に於ける知識階級の常識となり、士大夫修養の指導精神となり終せたのであります。かくなりまするまでには、印度に於ては、善財童子は道を求めて五十三の智識を訪問して請益せねばならなかつた。常啼 Sada-prarudita 菩薩も出現せねばならなかつた。支那に於ては、流沙葱嶺の險を冒し南海風濤の難を凌ぎて、幾多の名僧高僧が來住せねばならなかつたことは云ふまでもない。斯くして支那の指導階級一般の常識となり畢つた大乘思想の精髓は、華嚴の色彩を帶びて眞言密教となり、支那の大衆的宗教の道教と合糅混一せる状態にあること大約一百年、遂に、儒道佛の三教を兼ねて會得した一大天才によりて、支那より日本に傳へられて、今日に及んだ次第であります。其の一大天才とは何人か、云ふまでもなく、宗祖大師即ち弘法大師其の人であります。かく論じ來れば、西暦紀元第九世紀の初頭に於て宗祖大師が、支那海の波濤を乘り切りて遣唐大使の一行と共に福州に漂着せられたことは、單に支那より密教を傳へんためと見るべきでなく、實は、西暦紀元第二世紀の頃より中央印度南方印度に於て胎動しつゝあつた新文化・新思想が、三百年を經て支那に入らんとして入らず、更にまた二百年を經て、金剛智三藏次いで不空金剛三藏を經て、漸やく支那に入つたものを日本に始めて將來せんためと見るべきものである。此の意味に於て、我が國の眞言宗の宗徒は宗祖大師の我が國に於ける降誕の日を記念すると同時に、不空金剛三藏の入寂の日を忘れてはならない。また不空金剛三藏の入寂の日を記念すると同時に、其の師、金剛智三藏の生國を忘れてはならない。金剛智三藏の生國は印度のいづれにあたつたかを詳にすると同時に、これを伴うて來た「アドミラル」米准那將軍の名を忘れてはならない。また誤讀してはならない。若しそれ、金剛智三藏より以前の龍猛・龍智神の事蹟に至りては、これを無責任なる俗學者の云爲に任せず、眞言宗全體の碩學と共に研究して余は更に合理的説明をなさんとするものであります。

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