福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

原人論(全編書き下し)

2024-04-20 | 諸経

原人論 終南山草堂寺沙門宗密述

  

萬靈蠢蠢たる皆な其本あり。萬物の芸芸(うんうん)たる各の其根に歸す。未だ

根本あることなくして而も枝末ある者はあらざる也。況んや三才中之最靈にして而も本源無からん乎。且つ人を知る者は智なり。自ら知る者は明なり。今我人身を禀得たり。而して自ら從來する所を知らず。曷ぞ能く他世の趣く所を知らん乎。曷ぞ能く天下古今之人事を知らん乎。故に數十年中學ぶに常に師無し。博く内外を攷へ以って自身を原(たず)ぬ。之を原ねて已まず。果して其の本を得たり。然るに今、儒と道を習ふ者は秖(ただ)近きを知るは則ち乃祖乃父傳體相續して此身を受け得たり。遠きは則ち混沌の一氣剖(わか)れて陰

陽之二と為り、二、天地人の三を生じ、三、萬物を生ず。萬物と人と皆な氣を本と為す。佛法を習ふ者、但だ云ふ、近きは則ち前生に業を造り、業に隨ひて報を受け、此人身を得たり。遠きは則ち業又惑に従ひ展轉して乃至阿頼耶識を身の根本と為す、と。皆已に窮むと謂へり而も實は未だし也。然るに孔老釋迦は皆是至聖なり。隨時應物して教を設け塗を殊にす。内

外相資けて共に群庶を利す。萬行を策勤し因果の始終を明し、萬法を推究し、生起の本末を彰はす。皆聖意なりと雖も而も實あり權あり。二教は唯だ權、佛は權實を兼ぬ。萬行を策し、悪を懲しめ善を勸め同じく治に歸する時は則ち三教皆な遵行すべし。萬法を推し理を窮め性を盡して本源に至れば則ち佛教方に決了と為す。然るに當今の學士、各の一宗に執して

佛を師とする者に就くに仍ほ實義に迷ふ。故に天地人物において之を原ねて源に至ること能はず。余、今還た内外教理に依りて萬法を推窮す。初め淺より深に至り、權教を習ふ者に於いて滯を斥して通ぜしめ、其の本を極めしめ、後に了教に依りて展轉生起之義を顯示して、偏を會し圓かならしめて末にいたらしむ。      文四篇あり。原人と名くる也。

原人論序              終         

 

 

 

原人論・斥迷執第一         

儒道の二教には人畜等の類、皆是虚無の大道より生成養育すと言ふ。謂く道法より自然に元氣を生死じ、元氣は天地を生じ、天地は萬物を生ず。故に愚智貴賎貧富苦樂は皆な天より禀くること時命にれり。故に死後却って天地に歸し、其虚無に復す。然るに外教の宗旨は但だ身に依りて行を立つるに在り、身之元由を究竟するに非ず、所説の萬物も象外を論ぜず。大道を指して本と為すと雖も而も備さに順逆・起滅・染淨の因縁を明かさず。故に習ふ者は是れ權なることを知らず、之に執して了と爲す。今略して擧して之を詰せん。所言の萬物は皆虚無大道より生ぜば、大道即是れ生死賢愚之本、吉凶禍福之基なり。基本既に其れ常に存せば則ち禍亂凶愚は除くべからざる也。福慶賢善益すべからざる也。何ぞ老莊之教を用ひん耶。又、道虎狼を育し桀紂を胎し顏冉を夭し夷齊を禍す。何ぞ尊と名くる乎。又、萬物は皆是自然に生化す、因縁に非ずと言はば、則ち一切因縁なき處、悉く應に生化すべし。謂く石、應に草を生ずべく、草或は人を生じ、人畜等を生ずべし。又應に生ずること前後無く、起つこと早晩なけん。神仙丹藥に藉(よら)ず。太平は賢良に藉らず。仁義は教習に藉らずんば、

老莊周孔何ぞ立教して軌則と為ることを用ふる乎。又皆元氣より生成すと言はば、則ち忽生の神未だ曾って習慮せず。豈に嬰孩にして便ち能く愛惡驕恣することを得ん焉。若し忽有自然にして便ち能く念に隨ふて愛惡す等と言はば、則ち五徳六藝悉く能く念に隨ふて解せん。何ぞ因縁を待ちて學習して成ずるや。又若し生は是れ気を禀けて忽ち有り、死は是れ氣を散じて忽ち無ならば、則ち誰か鬼神と為ん乎。且つ世に前生を鑒達し往事を追憶すること有るときは、則ち知る、生前相續して氣を禀けて而も忽ち有るに非ず。又鬼神靈知、斷ぜざることを驗るときは、則ち知る、死後氣散じて而も忽ち無なるに非ず。故に祭祀して祷を求む典藉文あり。況んや死して蘇する者、幽途の事を説き、或は死後感動妻子怨恩を讎報すること。今古皆有を耶。外難じて曰く「若し人、死して鬼を爲らば則ち古來之鬼は巷路に塞がらん。見る者あるべし、如何んぞ爾らざらん」。答曰「人は六道に死す。必ずしも皆な鬼と為らず。鬼死して復た人等と爲る。豈に古來の積鬼常に存せん耶。且つ天地之氣は本無知也。人無知之氣を禀く。安んぞ忽ち起きて知有ることを得ん乎。草木亦皆氣を禀く、何ぞ不知なる乎。又、貧富貴賎賢愚善惡吉凶禍福、皆な天命に由ると言はば、則ち天之賦命奚(な)んぞ貧は多く富は少に賎は多く貴は少なく乃至禍は多く福は少なきこと有らんや。苟しくも多少の分が天に在らば天は何ぞ平らかならざる乎。況んや行なくして而も貴く、行を守りて而も賎に、徳無くして而も富み、徳有りて而も貧しく、逆は吉、義は凶、仁は夭、暴は壽、乃至有

道の者は喪び、無道の者は興る有り。既に皆な天に由らば天乃ち不道を興して道を喪するなり。何ぞ善に福し、謙に益するの賞、淫に禍し盈に害するの罰あらんや。又既に禍亂反逆皆天命に由らば則ち聖人教を設くるに人を責めて天を責めず。物を罪して命を罪せず、是れ當らざる也。然れば則ち詩に亂政を刺り、書に王道を讃し、禮に安上を稱し、樂に移風を號す。豈是上天之意に奉じ、造化之心に順ぜん乎。是に知る此教を専らにする者は未だ人を原ぬる能はず。

  偏淺を斥(しりぞ)く第二(佛の不了義教を習ふ者)         

佛教は淺きより深きに之くに略して五等あり。一に人天教。二に小乘教。三に大乘法相教。四に大乘破相教。上の四は此篇中に在り。   五に一乘顯性教。此は第三篇中にあり。             

一には佛初心の人の為に且らく三世の業報善惡因果を説く。謂く、上品の十惡を造り死して地獄に堕す。中品は餓鬼、下品は畜生なり。故に佛且らく世の五常之教に類して五戒を持たしめ三途を免ることを得て人道の中に生ず。      天竺の世教儀式、殊と雖も、懲惡勸

善は別なし。亦た仁義等の五常を離れて而も徳行の修すべき非ず。例へば此國には手を歛

めて而も擧げ、吐番には手を散じて而も垂る。皆な禮と為す也。不殺は是れ仁。不盜は是れ義。不邪淫は是れ禮。不妄語は是れ信。酒肉を飮噉せざれば、神氣清潔にして智を益す也。上品十善及び施戒等を修して六欲天に生じ、四禪八定を修して色界無色界天に生ず。

題中に天と鬼と地獄とを標さざるは、界趣同じからず、見聞及ばず、凡そ俗尚末を知らず。況んや肯へて本を窮めんや。故に俗教に対して且く原人と標す。今佛經を敍す、理宜しく具さに列ねべし。             故に人天教と名く也。此教の中に拠るに業を見の本と為す。然るに業に有

三種あり。          一に惡。二に善。三に不動なり。報に三時あり。謂る現報、生報、後報なり。   今之を詰して曰く「既に造業に由りて五道身を受くとならば未審かし。誰人か造業し、誰人か受報するや。若し此の眼耳手足能く業を造らば、初死之人、眼耳手足宛然たり。何ぞ見聞造作せざるや。若し心造ると言はば、何者か是れ心。若し肉心と言はば、肉心質あり身内に繋る。如何んぞ速かに眼耳に入りて外の是非を辨ぜん。是非を知らずんば何に因りて取捨せむ。且つ心と眼耳手足と倶に質閡と為す。豈に内外相通じ運動應接して同く造業縁を造ることを得んや。若し但だ是れ喜怒愛惡、身口を發動して業を造らしむと言はば、喜怒等の情は乍ち起り乍ち滅す。自ら其の體なし。何を將って主と為して業を作らん耶。設し此の如く別別に推尋すばからず。都て是れ我此身心能く業を造ると言はば、此身已に死して誰か苦樂之報を受くるや。若し死後更に身ありと言はば豈に今日の身心造罪して福を修し、他の後世の身心をして苦を受けしめ樂を受けしむることあらんや。此れに據るときは則ち福を修する者は屈甚しく、罪を造る者は幸甚しきなり。如何が神理は此の如く無道なるや。故に知ぬ但だ此教を習ふ者、業縁を信ずと雖も身の本に達せず。

二に小乘教は説くに、形骸之色、思慮之心、無始より來た因縁力の故に念念生滅して相續無窮なり。水の涓涓たるが如く、燈の焔焔たるが如し。身心假合して一に似たり、常に似たり。凡と愚とは覺せずして之を執して我と爲し、此の我を寶と為す故に即ち貪(名利を貪り

以って我を榮す)瞋(違情の境を瞋りて我を侵害せんことを恐る。)癡(非理を計校る)等の三毒を起こす。三毒、意を撃ちて身口を發動して一切の業を造る。業成じて逃れ難し。故に五道苦樂等の身と別業所感三界勝劣等の處とを受く。共業所感。受くる所の身に於いて還た執して我と爲す。還た貪等を起こして業を造り報を受く。身は則ち生老病死なり。死して復た生ず。界は則ち成住壞空なり。空にして而も復た成ず。空劫より初めて世界を成すとは、頌に曰く、空界大風起り、傍廣數無量、厚さ十六洛叉にして、金剛も壞すること能はず。此を持界風と名く。光音金藏雲、布ひて三千界に及び、雨は車軸の如く下り、風は遏て流れを聽さず。深さ十一洛叉なり。始めて金剛界を作る。次第に金藏雲、雨注ぎて其内に滿つ。先ず梵王界乃至夜摩天を成す。風、清水を鼓して須彌七金等を成ず。滓濁は山地・四洲及び泥犁・鹹海外輪圍と為り、方に器界立と名く。時に一増減を経、乃至二禪の福盡きて人間に下生す。初め地餅林藤あり、後に粳米銷せず。大小便利し、男女の形別れ、田を分ち主を立て臣佐を求む。種種差別して十九増減を経る。前を兼ね總じて二十増減を名けて成劫と為す。議して曰く、空界劫中は是れ道教は之を指して虚無之道といふ。然るに道の體は寂照靈通にして。   是れ虚無ならず。老子或ひは之に迷ひ、或ひは權設して務めて人欲を絶つ。故に空界を指して道と為す。空界中の大風は即ち彼の混沌の一氣なり。故に彼、道より一を生ずと云ふなり。金藏雲とは、氣形之始、即ち太極也。雨下りて流れず。陰氣の凝る也。陰陽相合して方に能く生成す矣。梵王界乃至須彌とは、彼之天也。滓濁とは地なり。即ち一は二を生ずる矣。二禪福盡きて下生すとは、即ち人也。即ち二は三を生じ、三才備はれり矣。地餅已下乃至種種とは即ち三は萬物を生ずるなり。此に三皇已前、穴居野処未だ火化有らざる等に當る也。但し其時、文字記載無きを以ての故に。後人の傳聞明かならず。展轉錯謬して諸家の著作種種異説するのみ。佛教は又三千世界を通じて明るし、大唐に局らざるに縁るがゆえに、内外の教文全く同じからざる也。住とは住劫、二十増減を経るなり。壞とは壞劫、亦た二十増減なり。前の十九増減に有情を壊し、後の一増減に器界を壊す。能壞のものは是火水風等の三災、空よは空劫なり。亦た二十増減中、空にして世界及び諸有情は無き也。劫劫

生生、輪迴絶へず。無終無始にして汲井輪の如し。道教は只今、此世界未だ成ぜざる時の一度の空劫を知りて、虚無混沌の一氣等を名けて元始と為すと言ふなり。空界より已前に早く千千萬萬遍をへて成住壞空終りて而復た始まるを知らず。故に知んぬ佛教法中の小乘淺淺之教、已に外典深深之説に超へたり。都て此身の本、是れ我ならざることを了せざるに由る。是れ我ならざるとは謂く此身は本と色と心と和合して相を為すに因る。今、推尋分析するに色に地水火風之四大あり。心に受(能く好惡之事を領納す)想(能く像を取る者)行(能く造作する者、念念に遷流す)識(能く了別する者)の四蘊あり。若し皆是れ我ならば即ち

八我を成ず。況んや地大の中に復た衆多あり。謂く三百六十段の骨、一一各別に皮毛筋肉肝心脾腎、各の相是ならず。諸の心所等亦た各同じからず。見は是れ聞ならず。喜は是れ怒ならず。展轉し乃至八萬四千の塵勞あり。既に此の衆多之物あり。知らず、定んで何者を取りて我と為すや。若し皆な是れ我ならば、我は即ち百千ならん。一身之中に多主紛亂せん。此れを離れて外復無別法なり。翻覆して我を推すに皆不可得なり。便ち悟る、此身は但是れ衆縁仮和合の相にして元、我人なし。誰か為に貪瞋し、誰か為に殺盜施戒せん。(苦諦を知る也)。遂に心を三界の有漏の善惡に滯らせず。(集諦を断ずる也)但し無我の觀智を修し、(道

諦)以って貪等を断じ諸業を止息して我空眞如を證得す。(滅諦)。乃至阿羅漢果を得て、灰身滅智して方に諸苦を断ず。此宗の中に據るに色心二法及び貪瞋癡を以て根身器界之本と為す也。過去未來更に別法の本と爲すなし。今之を詰して曰く、夫れ生を經、世を累ねて身の本と為す者は自體須らく間斷なかるべし。今五識は縁を闕けば起らず。(根境等を縁と爲す)意識は時有りて行ぜず。(悶絶と睡眠と滅盡定と無想定と無想天となり)無色界天は此の四大無し。如何んが此身を持ち得て世世に絶へざるや。是に知んぬ此教を専らにする者も亦未だ身を原ねず。

三に大乘法相教は説かく、一切有情は無始已來法爾として八種の識あり。中において第八阿頼耶識は是れ其の根本なり。頓に根身・器界・種子を変じて七識を転生す。皆な能く自

分の所縁を變現すれども都て實法なし。如何んが變ずる耶。謂く我なり法なりと分別しつつ熏習せし力の故に諸識の生ずる時に變じて我と法とに似れり。第六七識の無明覆ふが故に此を縁じて執して實我實法と為す。患と(重病に心惛して異色の人物を見る也)夢との(夢想の所見知るべし)者の患と夢との力の故に心に種種の外境相に似て現ずるを夢時には執して實に外物ありと為すも、寤め來りて方に唯だ夢の所變なるを知るがごとし。我身も亦た爾なり。唯だ識の所變なり。迷ふが故に我及び諸境ありと執す。此れに由りて惑を起こし業を造りて生死無窮なり。(廣くは前説の如し)此理を悟解せば方に我身は唯識所變なりと知る。識を身の本と為す。(不了之義は後に破する所の如し)

四に大乘破相教とは前の大・小乘・法相の執を破して密かに後の眞性空寂之理を顕はす。破相之談は唯諸部般若のみならず大乘經に遍在せり。前の三教は次に依って先後す。此の              教は執に随ひて即破す。定れる時節なし。故に龍樹は二種の般若を立つ。一に共。二に不共。共とは二乘同じく聞きて信解す。二乘の法執を破するが故に。不共とは唯だ菩薩のみ解す。密かに佛性を顕すが故なり。故に天竺の戒賢・智光の二論師、各の三時教を立てて此の空教を措くに、或は唯識法相之前に在りと云ひ、或は後に在りと云ふ。今の意は後を取る。     

將に之を破さんと欲して先ず之を詰せん。曰く所變之境、既に妄ならば能變之識豈に眞ならんや。若し一は有、一は無なりと言はば、(此の下却って彼の喩を将ひて之を破す)則ち夢想と所見の物と應に異なるべし。異ならば則ち夢は是れ物ならず。物は是れ夢ならず。寐め

來りて夢滅して其物應に在るべし。又物若し夢にあらざれば應に是れ眞物なるべし。夢

若し物にあらざれば何を以てか相となさん。故に知んぬ、夢時は則ち夢の想と夢の物と、能見と所見との殊あるに似たれども、理に據るときは則ち同一の虚妄にして都て無所有なり。

諸識も亦た爾り。皆な假りに衆縁に託して無自性なるを以ての故に。故に中觀論に云く、未だ曾って一法として因縁より生ぜざるものはあらず。是の故に一切の法は是れ空ならざる者はなし、と。又云、因縁所生の法は我れ説く即ち是れ空なりと。起信論に云く、一切の

諸法は唯だ妄念に依りて差別あり。若し心念を離るれば即ち一切の境界の相無し、と。經に云く「凡そ所有る相は皆な是れ虚妄。一切相を離るるを即ち諸佛と名く、と。此等の文の如くは大乘藏に遍し。是に知る、心境皆空は方に是れ大乘の實理なり。若し此に約して身を原身ぬれば身は元と是れ空。空即是れ本。今復た此教を詰して曰く、若し心境皆無ならば無を知る者は誰ぞ、又若し都て實法なければ何に依りてか諸の虚妄を現ぜん。且つ現に世間虚妄之物を見るに未だ實法に依らずして而も能く起る者はあらず。如し濕性不變之水なければ何ぞ虚妄假相之波あらんや。若し淨明不變之鏡なくんば何ぞ種種虚假之影あらんや。又前説の夢想と夢境とは同じく虚妄とは誠に所言の如し。然るに此の虚妄之夢は必ず睡眠之人に依る。今既に心境皆空ならば未審(いぶかし)何によりてか妄を現ぜん。故に知る、此教は但だ執情を破して亦た未だ明かに眞靈之性を顕はさず。故に法鼓經に云、一切空經は是な有餘の説なりと。(有餘とは餘義未了也)大品經云、空は是れ大乘之初門なりと。上の四教展轉相望するに前は淺く後は深し。若し且らく之を習之ふて自ら未了なりと知る、之を名けて淺と為す。若し執して了と為すは即ち名けて偏と為す。故に習人に就きて偏淺と云ふ也。

 

直に眞源を顕はす第三(佛了義實教)         

五に一乘顯性教とは、説かく一切有情は皆な本覺眞心あり。無始以來常住清淨にして昭昭として昧からず。了了として常に知る。亦たは佛性と名く。亦たは如來藏と名く。無始際より妄相、之を翳して自ら覺知せず。但だ凡質を認むるが故に躭著して業を結し生死の苦を受く。

大覺之を愍んで一切皆空を説き又た靈覺の眞心清淨にして全く諸佛と同じと開示す。故に華嚴經に云く、佛子よ、一衆生として而も如來智慧を具せずと云ふこと無し、但し妄想執著を以て證得せず。若し妄想を離るれば一切智自然智無礙智即ち現前することを得。便ち一塵に大千の經卷を含むの喩を挙げて塵を衆生に況し經を佛智に況す。次後に又云く、爾時如來普く法界の一切衆生を観じて而も是の言を作く、奇なる哉、奇なる哉、此諸衆生、云何んが

如來の智慧を具有して迷惑じて見ざるや、我當に教ふるに聖道を以てし、其をして妄想を永離し、自ら身中において如來廣大智慧の佛と異なることなきを見ることを得せしむべし、と。評して曰く、我等多劫に未だ眞宗に遇はず。返りて自ら身を原ぬることを解せず。但虚妄之相を執して甘んじて凡下なり、或は畜、或は人なりと認む。今至教に約して之を原ねて方に

本來是佛と覚れり。故に須らく行は佛行に依り、心は佛心に契ひ、本に返り源に還り凡習を斷除して之を損し又た損し以って無爲に至るべし。自然の應用恒沙なる。こと之を名けて佛と曰ふ。當に知るべし迷悟は同一の眞心なり。大なる哉妙門の原人此に至れり。              然るに佛前の五教を説くは、或は漸、或は頓。若し中下之機あれば則ち淺より深に至り漸漸誘接して先ず初教を説き惡を離れ善に住せしめ、次に二三を説きて染を離れて淨に住せしめ後に四五を説きて相を破し性を顯し、権を會し實に歸し、實教の修に依り乃至成佛せしむ。若し上上根智ならば則ち本より末に至る。謂く初めは便ち第五に依り頓に一眞心體を指し、心體既に顯れて自ら一切皆是れ虚妄にして本來空寂なりと覚る。但迷を以ての故に眞に託して起る。須らく眞を悟るの智を以て斷惡修善し妄を息め真に歸すべし。妄盡き眞圓なる是を法身佛と名く。

             

  本末會通第四(前に斥く所を會して同じく真源に歸し皆正義と為す)            

眞性を身の本と為すと雖も生起すること蓋し因由あり。端無くして忽ち身相を成すべからず。但前宗未了なるに縁て所以(ゆへ)に節節に之を斥く。今將に本末會通せんとす。乃至儒道も亦た是なり。初めは唯第五の性教所説なり。後段より已去、節級方に諸教に同ず。各

注に説くが如し。謂く初めは唯一眞靈性。不生不滅不増不減不變不易なり。衆生無始より迷睡して自ら覺知せず。隱覆に由るが故に如來藏と名く。如來藏に依るが故に生滅の心相あり。此より方に是れ第四教亦同じく、此已下の生滅諸相を破する也。所謂不生滅の眞心、生滅の妄想と和合して非一非異。名けて阿頼耶識と為す。此の識に覺と不覺と二義あり。是より下方に是第三の法相教中も亦た此説に同ず。不覺に依るが故に最初の動念を名けて業相と為す。又此念本無なることを覚らざるが故に轉じて能見之識を成し及び所見の境界相現ず。又此境は自心より妄の現ずることを覚らずして執して定有と為すを名けて法執と為す。   此下方に是れ第二の小乘教中も亦た所説に同ず。

此等を執するが故に遂に自他之殊を見て便ち我執を成ず。我相を執するが故に順情諸境を貪愛して以って我を潤さんと欲す。違情諸境を瞋嫌して相ひ損惱せんことを恐る。愚癡之情展轉して増長す。

              此下方に是れ第一人天教中の亦た所説に同ず

故に殺盜等の心神、此の惡業に乗じて地獄鬼畜等の中に生ず。復た此の苦を怖るる者、或は性善なる者あり。施・戒等を行じ心神此の善業に乗じて中陰に運して母胎中に入る。

              此の下方に是れ儒道の二教も亦た所説に同ず。

気を禀け質を受く(彼の所説、気を以て本と為すを會す)

氣は則ち頓に四大を具し漸に諸根を成ず。心は則ち頓に四蘊を具し漸に諸識を成ず。十月滿足し生じ來るを人と名く。即ち我等今の身心是也。故に知んぬ、身心各の其の本あり。二類和合して方に一人を成ず。天・修羅等も大に此に同じ。然るに引業に因りて此身を受得すと雖も復滿業に由るが故に貴賎貧富壽夭病健盛衰苦樂あり。謂く前生の敬慢を因と為して今貴賎之果を感ず。乃至仁は壽、殺は夭、施は富、慳は貧。種種の別報具さに述ぶべからず。是を以って此身に或は惡無くして自ら禍し、善無くして自ら福し、不仁にして壽、不殺にして夭等の者。皆是れ前生の滿業已に定れるが故に今世に所作によらずして自然に然るが如し。外學者は前世を知らずして但目覩に據りて唯だ自然なりと執す。(彼の所説の自然を本とするを會す)             復た前に少きとき善を修し老て悪を造り、或は少にして惡、老ひて善なる有り。故に今世に少きときは富貴にして樂しみ、老大には貧賎にして苦しむ、或は少くして貧苦、老ひて富貴等あり。故に外學者は唯だ否泰(ふさがりひらく)は時運に由ることを執す。(彼の所説の皆天命に由ると云ふを會す)然るに所禀之氣、展轉して本を推せば即ち混一之元氣也。所起之心、展轉して源を窮むれば即ち眞一之靈心也。實を究て之を言はば

心外に的に別法無し。元氣も亦た心之所變に従ふ前の轉識所現之境に屬す。是れ阿頼耶の相分の所攝なり。初の一念の業相より分れて心境之二と為る。心既に細より麁に至り展轉して妄に計して乃至業を造り(前に敍列するが如し)境も亦た微より著に至り、展轉して變起し乃至天地あり。      即ち彼の始、太易より五重運轉し乃ち太極に至る。太極より兩儀を生ず。

彼れ自然太道と説くは此の眞性を説くが如くなれども其の實、但だ是れ一念能變の見分のみ。彼元氣と云ふは此の一念初動のごとくなれども其の實は但だ是れ境界之相なり。

業は既に成熟し即ち父母より二氣を禀受し業識と和合し人身を成就す。此れに據らば則ち心識所變之境乃ち二分と成り、一分は即ち心識と和合して人と成り、一分は心識と和合せずして即ち天地山河國邑と成る。三才中に唯だ人の靈なるは心神と合するに由る也。佛説内の

四大と外の四大と不同とは正に是れ此也。哀なる哉。寡學にして異執紛然たり。語を道流に寄す。成佛せんと欲する者は必ず須らく麁細本末を洞明して方に能く末を棄てて本に歸し心源を返照すべし。麁盡き細除き靈性顯現せば法として達せざるなきを法報身と名く。應現無窮なるを化身佛と名くる也。

原人論   終         

 

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