愚管抄巻七 その6/6
またことのせん(究極の真実)一侍りけり。人と申すものは、せんがせんには(究極の究極には)にるを友とす(似たもの同士)と申ことの、そのせんにては侍るなり。
それが世の末に、わろき人のさながら(全体)一つ心に同心合力してこの世をとりてに侍にこそ。よき人は又をなじくあいかたらひて同心に侍べきに、よき人のあらばやは合力にもをよぶべき(良い人があったなら合力することになるがいないのでできない)。あなかなしやと思つつ、いささか佛神の御さたをあふぐばかりなり。もちゐる時はとら(虎)となるべき人はさすがに候らんものを、よき物は世のやうをみてさしいでぬにこそ侍らめ。かくこの世のうせゆく事は君も近臣もそらことにて世をおこなはるめり(現在の世がこのように滅びていくことは上皇も近臣もいつわりの政治をおこなっていることを示している)。そら事と云物は朝議の方にはいささかもなきこと也(朝廷ではいつわりの政治はない)。そら事云物をもちゐられんには、よき人の世にゑあるまじき也。さやうの事も中々世の末には、民は正直なる将軍のいできて、たださずは、なをるかたあるまじきに、かかる将軍(摂関家出身の将軍)のかくいでくる事は大菩薩(八幡大菩薩)の御はからひにて、文武兼じて威勢ありて世をまもり君をまもるべき摂籙の人をまうけて、(八幡大菩薩が)世のため人のためにまいらせるるをば、君の御心得をはしまさぬにこそ。これこそゆゆしき大事にて侍れ。これは君の御ため摂籙臣と将軍とをなじ人にてよかるべしと、一定てらし御さたの侍る物を、そのゆへあらはなり。謀反すち゛の心はなく(摂関家の将軍は武士の将軍のような謀反心はない)、しかも威勢つよくして、君の御後見せさせむと也(八幡大菩薩が君の御後見をさせよとの意図である)。かく御心ゑられよかし。陽成院御事(藤原基経が「物狂帝」と言われた陽成天皇を退位させたこと)ていならんためなどこそ(などのようなことになるのが)いよいよめでたかるべけれ。それをふせぎをぼしめしては、君こそ太神宮・八幡の御心にはたがはせをはしまさんずれ。ここを構て君のさとらせたまうべき也。この藤氏の摂籙の人の、君のため謀反のかたの心つ゛かいは、けつ゛りはててあるまじとさだめられたるなり。さてしかも君のわろくをわしまさんずるを、つよくうしろみまいらせて、王道の君のすち゛をたがへずまもりたてまつれにて侍れば、陽成院のやうにをぼしまさん君は御ためこそあしからんずれ。さる君は又をぼろげにはをはしますまじ。さほどならん君は又よき摂籙をおぼしめさば、やはかなんずる(どうして自分の意思を実現できようか)。太神宮・大菩薩の御心にてこそあらんずれ。この道理はすこしもたがうまじ。ひしとさだまりたることにて侍なり。始終をちたたむずるやうの道理(復興しようとする道理)をも、この世の末の、昔よりなりまかる道理の、宗廟社稷の神のてらさせ給ふやうをしもしらせ給はで、あさき御さたとこそうけたまはり侍れ。物の道理、吾国のなりゆくやうは、かくてこそひしとは落居(落ち着く)せんずることに侍れ。法門の十如是のなかにも(法華経の十如是)、如是本末究竟等と(十如是は如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是相、如是本末究竟等であるが如是本末究竟等とは最初の如是相を本、最後の如是相を末とし、本から末まで一貫する原理即ち実相であるとする)申す也。かならず昔今はかへりあいて(過去と現在は表裏一体)やうは昔今なればかはるやうなれども、同すじにかへりてもたふる事にて侍なり(同じ血筋に帰りて持ち支えるのだ)。大織冠の入鹿をうたせ給て、世はひしと遮悪持善の事はりにかなひしにぞかし。今又この定なるべきにこそ(鎌倉幕府が開かれて廿年後に貴族である頼経が国政をとり武士を押さえること)。このやうにてこそひしと君臣合体にてめでたからんずれ。
猶をろをろ(不十分に)この世のやうをうけたまはれば、摂籙の臣とてをもてはもちゐる由にて、底には奇怪の物にをぼしめしもてなして、近臣は摂籙臣を讒言するを、君の御意にかなふこととしりて世をうしなはるる事は、申ても申てもいふばかりなきひがごとにて侍也。これは内々小家の家主、随分の後見までただをなじことにて侍也。それが随分随分の後見と主人とひしとあひ思たる人の家のやうにをさまりよきことは侍らぬ也。まして文武兼行の大織冠の苗裔と、国王の御身にて不和のなからひ(交情)にて、たぎに心ををきてあらんと云ことは、冥顕、首尾、始中終、過現當、いあささかも事の道理にかなふみちはべりなんや。あはれあはれこの道理こそ、いかにもいかにもすゑにはひしとつくりまからんずらめとこそ、かねてより心得ふせて侍れ。それがいかに申ともかなうまじき事にて侍るぞとよ。世の末に世の中はをだしかるまじ(穏やかではなかろう)と云道理の方へ、ふふとうつりうつりし侍なり。それに悪魔邪神はひしとわろがらせんと取なす處に、時運しからしめぬれば、又三宝善神の化益の力およばずばず成てんずと、事いできてはをとろへをとろへしまかりて、かく世の末と云ことになりくだり侍ぞかし。そのやうは、時の君のつよくうるさき(細かいところまで気が付く)摂籙臣をあらせじばや(存在させたくない)とをぼしめす御心の、世の末ざまにはいよいよ又つよくいでくるなり。このひが事のゆゆしき大事にて侍る也。それに文武兼行の摂籙臣のつよつよとして(強いこと)いかにもいかにもゑ引はたらかすまじきがいでこむやうに、君の御意にかなはぬことはなにごとかはあるべき。ここに世は損ぜんずるなり。この道理を返々君のをぼしさとりて、この御ひがごとのふつとあるまじき也。君は臣をたて、臣は君をたつることはりひしとあるぞかし。このことはり(君臣あい助け合うということ)をこの日本国を昔よりさだめたるやうと(手本であると)又この道理によりて先例のさはさはとみゆると、これを一々をぼしめしあはせて(天皇が考えて)道理をだにもこころへとおさせ給ひなばめでたかるべき也。
とほくは伊勢大神宮と鹿島の大明神と、ちかくは八幡大菩薩と春日の大明神と、昔今ひしと議定して世をばもたせ給ふなり。(「日本書紀神代下」に「復、(天照大神は)天児屋命(鹿島神宮の祭神、鹿島神宮は藤原氏の氏神の一)・太玉命に勅して曰はく『惟爾二神も、同じく殿内に侍ひ、善く防ぎ護り為せ。』」とある。)今文武兼行して君の御うしろみあるべしと、この末代、とうつりかううつりしもてまかりて(ああ移りこう移りしていき)かくさだめられぬる事はあらはなることぞかし。それに漢家の事はただ詮にはその器量の一事もきはまれるをとりて(帝王となるものの器量一つをとって)、それがうちかちて国王とはなることとさだめたり。この日本国は初より王胤はほかへうつることなし。臣下の家又さだめをかれぬ。そのままにて(天皇・臣下が定まったまま)いかなる事いでくれどもけふまでたがはず。百王のいま十六代のこりたるほどは、このやうはふつとたがうまじき也。ここにかかる文武兼行の執政をつくりいだして、宗廟社稷の神のまいらせられぬるを(進上する)、にくみそねみをぼしめしては、君はきみにてゑをはしますまじきなり。日本にも臣の君をたつるみちげにげにと二あんめり(臣が君をたてる道に二の道がある)。一には先、清盛公が後白河院をわろがりまいらせて、その御子御孫にて世を治めんとせしやう、木曽が又たたかいにかちて(法住寺殿合戦。木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃し後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した政変)、君を(後白河法皇)おしこめまいらせしずぢ、このやうは君をふたつとは申すべくもなけれども、武士が心のそこに、世をしろしめすきみをあらためまいらすにてある也。されば世をみだす方にてたてまいらせ、世を治る方にてたてまいらする、二のやう也。みだす方は謀反の義なり。それはすゑとおりたる道なし。いま一の国を治るすじにてまいらするは、昭宣公の陽成院をおろしまいらせて(藤原基経が陽成院を退位させたてまつりて)、小松の御門(光孝天皇)をたてまいらせ、永手大臣(藤原永手。奈良時代の公卿。房前の子。称徳天皇が没後、藤原百川らとはかって光仁天皇を擁立し、道鏡を追放した。)百川宰相と二人して光仁天皇をたてまいらせし、武烈うせ給て継体天皇を臣下どものもとめいでまいらせし、これらは君のため世のために、一定この君わろくてかはらせ給べしと、その道理さだまりぬ。この君(光孝・光仁・継体天皇等)いでき給て、この日本国は始終めでたかるべしと云道理のひしとさだまりしかば、これによりて神明の冥には御さたあるにかはりまいらせて、臣下の君を立まいらせしなり。さればあやまたずこの御門の末こそはみなつがせ給て、けふまでこの世はもたへあれて侍れ。さはさはとこの二のやうは侍ぞかし。それに今この文武顕兼行の摂籙のいできたらんずるを、ゑて(ややもすると)君これをのにくまんの御心いできなば、これが日本国の運命のきはまりになりぬとかなしき也。この摂籙臣は、いかににもいかにも君にそむきて謀反の心のをこるまじきなり。ただすこしほをごはにて(堅苦しい表情をする)あなずりにくくこそあらんずれ。それをば一同に、事にのぞみて道理によりて萬のことのをこなはるべき也。一同に天道にまかせまいらせて、無道に事ををこなはば、冥罰をまたるべきなり。末代ざまの君の、ひとへに御心にまかせて世をおこなはせ給て事いできなば、百王までをだにまちつけつ゛して、世のみだれんずる也。ただはばからじ理にまかせてをほせふくめられて御覧のあるべき也。さてこそこの世はしばしもをさまらんずれと、ひしとこれは神々の御はからひのありて、かくさたしなされたることよと、あきらかない心ゑらるるを、かまへて神明の御はからいの定にあいかないて、をぼしめしはからいて、世ををさめらるべきにて侍なり。「冥衆はをはしまさぬにこそ」など申は、せめてあさましき時うらみまいらせて人のいふことぐさ也。誠には劫末までも冥衆のをはしまさぬ世はかた時もあるまじき。ましてかやうに道あるやう人の物をはからい をもふ時は、ことにあらたにこそ當時(現在も)もをぼゆれ。これはさしつめてこの将軍が(藤原頼経。鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所)ことを申やうなるは、かかることの當時あれば、それにすがりて申ばかり也。この心はただいつもいつもこと将軍(異なる将軍)にてもこのをもむきを心えて(冥衆は常におわすことを心得て)、世の中をば君のもたせ給べきぞかし。将軍がむほん心のをこりて運のつきん時は、又やすやすとうしなはんずる也。実朝がうせやうにて心得られぬ。平家のほろびやうもあらはなり。これは将軍が内外あやまたざらんを、ゆへなくにくまむことのあしからんずるやうをこまかに申也。このすち゛は(誤りない将軍を上皇が理由なく憎むこと)わろき男女の近臣の引いださんずるなり。ここをしろしめさんことの詮にては侍べき也。(誤りない将軍を上皇が理由なく憎むことは悪い近臣を近ずけることになるということを上皇がお知りになることが究極の事である)。こは以ての外の事どもかきつけ侍りぬる物かな。これかく人の身ながらも(慈円自身の事ながら)、わがする事とはすこしもをぼへ侍らぬ也。申ばかりなしなし。あはれ神仏もの給ふ世ならば、といまいらせてまし。
さてもこの世のかはり継目にむまれあいて、世の中の目のまへにかはりぬる事を、かくけざけざと(はっきりと)み侍ことこそ、よにあはれにもあさましくもをぼゆれ。人は十三四まではさすがにをさなきほど也。十五六ばかりは心ある人は皆なにごともわきめへしらるること也。この五年があいだ、これをみきくに、すべてむげに世に人のうせはてて侍也。その人」のうせゆくつぎ目こそ、いかに申べしともなけれども、をろをろ、尤この世の人心ゑしらるるべきふしなければ、思ひいだして申しそふる也。今の世の風儀は忠仁公(藤原良房)の後を申べきにや。それは猶上代なり。(良房は養老律令の官選注釈書である 令義解を作るとともに次々と政敵を排除して孫である清和天皇の摂政となる)。
僧もそのときにあたりて、弘法・慈覚・智証の末流どもも、仁海(小野流祖)・皇慶(台密谷流祖)・慶祚(園城寺で天台教学を興隆させ、入定)などありけり。僧俗のありさま、いささかその風儀のちりばかりつ゛つも、のこりたるかとおぼゆるは、いつまでぞと云に、家々をたずぬべきに、まつ゛は摂籙臣の身々(その身その身、当事者どものこと)、次にはその庶子どもの末孫、源氏の家々、次々の諸大夫ども(中級貴族)の侍る中には、この世の人は白河院の御代を正法にしたる也。尤然る可し然る可し。をり居の御門の御世(退位された天皇が治める世)になりかはるつぎ目なり。白河院の御世の候けん人はちかくまでもありしかば(白河院崩御は1229年、慈円出生は1155年)これ(白河院の時代を正法と心得ていた)を心うべし。一條院の四納言(一条天皇の時代に、秀才として特に知られていた四人の納言、権大納言藤原公任、権中納言藤原斉信、権中納言源俊賢、権中納言藤原行成)のすへも白河院のはじめまでは、をなじほどのことの、やうやううすくなるにてこそあれ。白河院御屣の後一をち一をちくだれども(一度衰えてまた衰える)、猶またそのあとはたがはず。後白河院の御ときになりて、一の人(摂政関白)は法性寺殿(藤原忠通、鳥羽・崇徳・近衛・後白河の4代の摂政・関白)、一人の庶子の末は花山院忠雅(藤原忠雅、清盛の後の太政大臣、花山院三世)又、經宗(藤原經宗。大納言藤原経実の子。平治の乱では、平清盛とも手を結び、後白河院政を支える藤原信西や藤原信頼ら院側近たちを相次いで打倒、天皇の立場を強化しようとしたが、院からの反発をうけ、1160年(永暦1)に阿波へ流罪。1164年(長寛2)に本位に復し、1166年(仁安1)には左大臣まで昇進。)伊通相國(これみちしょうごく。藤原 伊通は藤原北家中御門流、権大納言・藤原宗通の次男。官位は正二位・太政大臣。九条に邸宅を構えていたことから九条大相国と号した。院政に対し天皇親政を説く)、閑院(藤原冬嗣)にはまじかく公能(藤原冬嗣の子孫、徳大寺公能のこと、娘の忻子を後白河天皇の中宮とする)子三人、實定・實家・實守、公教(藤原公教。父は太政大臣実行、鳥羽上皇の後見。鳥羽法皇の死後には保元の記録所を運営して藤原信西の政策を後援し,保元2(1157)年には内大臣まで昇進し三条内府と呼ばれた。)子三人、實房・實国・實綱、公通(藤原公通は、平安時代後期の公卿。 西園寺家の第二代。 権中納言藤原通季の子。 鳥羽天皇(74代)・崇徳天皇(75代)・近衛天皇(76代)・後白河天皇(77代)・二条天皇(78代)・六条天皇(79代)の六朝にわたって朝廷に仕え、権大納言)・實宗(藤原 実宗は藤原公通の長男。内大臣。琵琶の名手。)父子、これらまで。又源氏には雅通公(源 雅通、権大納言・源顕通の次男。内大臣。久我家3代)、諸大夫には顕季(藤原北家魚名流の後裔である美濃守・藤原隆経の子)が末は隆季(中納言藤原家成の子。四条・大宮と号す。善勝寺流藤原氏長者。鳥羽院別当,後白河院有力近臣、権大納言、歌人)重家(顕季の孫、従三位,大宰大弐、歌人)、勸修寺(山科勸修寺を菩提寺とする内大臣藤原高藤の子孫)には朝方(高藤の九代あと、鳥羽・後白河両院政で院庁別当として活躍。権大納言。源義仲,源頼朝に2度解官されたが復帰。能書家。)經房(吉田経房。藤原北家勧修寺流。権右中弁・藤原光房の子。官位は正二位・権大納言。 源頼朝の鎌倉政権より初代関東申次に任ぜられた。吉田家の祖。)、日野には資長(元永2年生まれ。日野実光の次男。民部卿。正二位。63歳で念願の出家をとげた際,九条兼実から末代の幸人と評される。日野民部卿,日野入道とよばれた。)・兼光(検非違使別当・従二位。高倉,後鳥羽2代の侍読)父子、これらは見聞し人々は、これらまではちりばかり昔のにほひはありけるやらむと、その家々のをほかたの器量にてはをぼへき。中の難ども(内部の非難)どもはさたの外なり。光頼大納言(平安後期。白河院司として権勢をほしいままにした葉室(藤原)顕隆の孫。葉室大納言,桂大納言,六条などと号す。権勢家であった甥藤原信頼を怖じず,平治の乱(1159)で内裏に幽閉されていた二条天皇を救い出し,信頼方の計画を破った)桂の入道とてありしこそ、末代にぬけいでて人にほめられにしか。二條院時は「世の事一同に(一向に、)さたせよ」と云仰ありけるを、ふつに辞退して出家してけるは(藤原光頼は世人に惜しまれながら41歳で辞官出家,桂の里に隠棲,当時の政争から身を守った)、誠によかりけるにや。ただし大納言になりたることこそをぼつかなけれ(光頼は権大納言になったがこれは不審である。)「諸大夫の大納言は光頼にぞはじまりたり」なんど人にいはるめりまで也。かからん人はならで候なんどや思ふべからん(光頼のような思慮深い人は大納言などにはならないほうがよかった)。昔は諸大夫なにかと器量ある士をばさたなかりき。さやうのころは勿論也(器量のある者は書大夫にはならなかった昔に諸大夫が大納言にならなかったのは当然である)。ひさしくかやうの品秩(地位と秩)さだまりて「諸大夫の大納言みつより(光頼)にはじまりたる」などいはるる事は、上品の賢人のいはるべき事にはなきぞかし。末代にはこの難はあまり也(末代には欠点は常識を超えている)。いかさまにもよくゆるされたりける物にこそ。この人々の子供の世になりては、つやつやと、むかれつきより父祖の気分の器量のけずりすててなきに、むまご(孫)どもになりては當時ある人々にてあれば、とかくうおき人とも、わろき人とも云にたらぬ事にて侍也。さて又一の人(摂政関白)は四五人までならびいできぬ。その中に法勝寺殿(藤原忠通)の子供の摂政になられたる中に、中の殿(基実)の子の近衛殿(基通)又松殿(基房)九条殿(兼実)の子どもには師家(藤原基房の3男。寿永2年(1183)源義仲とむすんだ父の画策で,近衛基通にかわり12歳で摂政・氏長者となる。翌年義仲の敗死で辞任)良經(九条兼実の次男・慈円の甥・土御門天皇の摂政・太政大臣、新古今和歌集假名序を作る)也。てて(基實・基房)と二三人の中に九條殿は社稷の心にしみたりしかばにや、あに二人の子孫には、人とをぼゆる器量は一人もなし。松殿の子に家房(関白・松殿基房の子、和歌・漢詩に優れ九条良経と共に九条家の文芸集団の中心。権中納言に昇進したが、享年30で薨去)といひし中納言ぞよくもやときこへしを、丗にもおよばで早世してき。九條殿(藤原 師輔、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白太政大臣・藤原忠平の次男。官位は正二位・右大臣。有職故実・学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えた。師輔の没後に長女・中宮安子所生の皇子が冷泉天皇・円融天皇としてそれぞれ即位し、師輔の家系は天皇の外戚として大いに栄えた。)の子どもは昔のにほひにつきつべし(つき従ったのであろう)。三人までとりどりになのめならずこの世の人にはほめられき。良通内大臣(九条良通。鎌倉時代初期の公卿。兼実の子。母は藤原季行の娘。文治2 (86) 内大臣まで累進したが急死)は廿二にてうせにし。名誉人口にあり。良經(九条良經。関白・九条兼実の次男で、「後京極殿」と呼ばれる。従一位・摂政の時38才で急死。書道は天才的で、後に「後京極流」と呼ばれる和様書道の一流派となった。和歌では、『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序を書いた)又執政臣になりて同じく能く芸群にぬけたりき。詩歌・能書昔にはじず、政理・公事父祖をつげり。左大臣良輔(九条良輔は、関白・九条兼実の四男。左大臣・八条と号す。既に早逝していた長兄の良通に続き、次兄の摂政・良経も元久3年(1206年)に薨じたため、庶子であったにもかかわらず九条家の中心的な存在となり、左大臣に昇進したが、疱瘡のため34歳で急死。)は漢才古今に比類なしとまで人をもひたりき。丗五にて早世。かやうの人どもの若じににて世の中かかるべしとはしられぬ。あなかなしあなかなし。今、良經後の京極殿(藤原師実)の子にて左大臣(道家)只一人のこりたるばかりにて、ことあにあに(異母兄である基実・基房)の子息は人かたにてまよふばかりにや(同じような人のかたちをしているだけで迷う)。そのほか家々に一人もとるべき人なし。諸大夫家にもつやつやと人もなき也。職事(親王・女院・摂関家などの家政職員)・辨官(太政官事務局)の官の名ばかりは昔なれど、任人(適任者)はなきがごとし。をのずからありぬべきも出家入道とのみきこゆ。ほりもとめば三四人などはいでくる人もありなんものを、すべて人をもとめらればこそは、ありてすてられたらんこそ、たのもしくもきこゑめ(優れた人を探し出すことがあってこそ、存在して捨てられることも頼もしいものだ)。さればこはいかがせんずるや、此人のなさをば。この中に實房(三条実房。平安時代末期鎌倉時代の公卿。 三条家は藤原北家閑院家流で清華家。 父は内大臣三条公教。 母は藤原清隆の娘。 子に公房・公宣・公氏・公俊など。子孫から多くの三条家庶流が生まれた。権中納言右大臣左大臣となる。 建久7年(1196年)3月上表して辞任、同年4月出家)は左府入道とていきのこりたるが、ただこの世の人の心になりたるとかや。
僧中には、山には青蓮院座主(天台四八世行玄。父は藤原師実。天台座主・僧正、鳥羽上皇・藤原忠実に授戒。を行う。久安6年(1150年)最勝寺経供養の日を祈祷により晴天にしたことにより、住房を皇后の祈願寺とし、青蓮院と称された。)の後はいささかもにほうべき人なし。うせてのち(行玄死後)六十年にをほくあまりぬ。寺(園城寺)には行慶(白河天皇の子。近衛・後白河・二条三代の天皇の護持僧)覚忠(藤原忠通の子。後白河上皇の出家に際して戒師。天台座主・園城寺長吏。「千載和歌集」などの勅撰集に12首)の後は又つやつやときこへず。
東寺には御室には五宮(覚性法親王。鳥羽天皇第五皇子,母は待賢門院璋子。仁和寺の覚法法親王を師として出家・伝法灌頂を受ける。以後,天皇家の安穏と国家守護のために多くの密教修法を主宰し,名声高かった。仁安2(1167)年全宗派統括の総法務に就任,同時に仁和寺は日本国一の地位を獲得した)まで也。東寺長者の中には、寛助(https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/82821178928b49c2370f21b44998a340)寛信(https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjhrKz02Pf6AhXPm1YBHaH2DJsQFnoECBIQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F6bfa2f4b5f4043b0ad71542bbe1e869d&usg=AOvVaw2O4D2f-LLd7KmtUIk2WE-q)など云人こそきこへけれ。さかりざまには理性(賢覚。平安時代後期の真言僧。醍醐寺三宝院の勝覚に灌頂をうけ理性院をひらき,理性院流の祖。門下に覚鑁ら。字は理性。)三密(聖賢。賢覚の弟。醍醐寺三宝院の勝覚に灌頂をうけ,のち同寺に金剛王院を創建し金剛王院流の開祖。字は三密坊。)などは名誉ありけり。南京方(奈良)には恵信法務ながされて後は(恵信は慈円の異母兄、興福寺別当。恵信は興福寺の内紛で伊豆へ流され没した)、たれこそなど申すべき。寸法(計る)にもをよばず。覚珍(興福寺四十一世別当、藤原公季の末裔)ぞあしうきこへぬ。中々當時法性寺殿の子にてのこりたる信圓前大僧正(太政大臣九条兼実・天台座主慈円とは異母兄。興福寺内の有力五院家、大乗院・一乗院・龍華樹院・禅定院・喜多院を兼帯し興隆寺中興の祖)上なる人のにほひにもなりぬべきにこそ。又慈円大僧正弟にて山にはのこりたるにや。さればこはいかにすべき世にか侍らん。この人のなさを思ひつずくるにこそ、あだにくさくさ心もなりて、まつべき事もたのもしくなければ、いまは臨終正念にて、とくとく頓死をし侍なばやとのみこそをぼゆれ。この世のすゑにあざやかにあなあさましとみへて、かかればなりにけりとをぼゆるしるしには、摂籙へたる人の四五人四五人ならびてつつ゛らんとして侍ぞや。これは前官にて一人あるだにも猶ありがたき職どもを、小童べのうたひてまうことばにも、九條殿の摂政の時は「入道殿下(藤原基房)、小殿下(師家。基房の子)、近衛殿下(基通。基房の兄である近衛基実の子)、當殿下(兼実。基房の弟)」と云てまいけり。それに良經摂政に又なられしかば(兼実の嫡男(慈円は叔父)として権大納言内大臣となったが政変で父と共に朝廷から追放(建久七年の政変)、後に復帰し土御門天皇の摂政太政大臣となる。)五人になりにき。天台座主には慈円・實全(天台第66世。右大臣徳大寺公能の子。)真性(元久の法難時の天台座主。以仁王(後白河院皇子)の子で城興寺宮・宮僧正といわれた。契中より穴太流の灌頂を、のち慈円に三昧流の灌頂を受け青蓮院門主。)承圓(第68、72世。良観、良顕ともいわれる。摂政関白太政大臣松殿基房の子。道元の叔父。)公圓(第70世。左大臣三条実房の子。)と五人あんめり。ならには信圓(藤原忠通の4男。慈円の兄。法相宗。興福寺別当,大僧正。東大寺大仏の開眼供養呪願師,大仏殿落慶供養導師。)雅縁(源雅通の子。興福寺47世別当)覚憲(父は藤原通憲(信西)。兄に唱導の大家澄憲,高野山明遍,甥に笠置寺貞慶など当時の仏教界の枢要を占める高僧が揃っている。幼くして法相宗の碩学蔵俊の教えを受け唯識学を修めた。養和1(1181)年,興福寺権別当に任ぜられて前年に平重衡の焼き討ちで焼失した寺を再興。)信憲(興福寺50代別当)良圓(父は太政大臣九条兼実、慈円は同母弟。興福寺に入り信円に師事、雅縁の後の興福寺別当。學徳。)ありき。信憲も覚憲がいきたりしになりにしやらん(実際は 覚憲は文治5年(1189年)に45代興福寺別当、建暦2年(1212)死去。その2年後の建保元(1214)年に信憲は50代興福寺別当となる)。十大納言、十中納言、散位五十人にもなりぬらん。僧綱には正員の律師百五十六人になりぬにや。故院(後白河法皇)御時百法橋と云てあざみけん事のやさしさよ(はずかしさよ)。僧正故院御時まで五人にはすぎざりき。當時正僧正一度に五人いできて十三人まであるにや。前僧正又十余人あるにこそ、衛府(宮門の警備を司った役所)はかぞへあらぬ程なれば、とかく申すにおよばず。官人をもとむと云事はいひいだすべきことならず。人の官をもとむるも今はうせにけり。成功成功と猶もとむるになさんと云人なし。されば半にもをよばでなすをいみじきに今はしたるとかや(役人になり手がない)。それにとりて(関係して)、この官位の事はかくはあれども、さてあらるる事にてありけり。又世のすゑの手本ともおぼへたり。大方心ある人のなさこそ申ても申てもかなしけれ。かかれば一の人(摂政関白)のをほさよ。この慈円僧正の座主に成しまでは、山には昔よりかぞへよく、摂籙の家の人の座主になりたるは、飯室の僧正尋禅(藤原師輔の十男、引退して飯室に籠る)と、仁源・行玄(父は藤原師実。母は藤原忠俊(藤原隆家の孫)の娘で、同母兄に尋範がいる。天台座主・大僧正。鳥羽上皇・藤原忠実に授戒。最勝寺経供養の日を祈祷により晴天にしたことにより、住房を皇后の祈願寺とし、青蓮院と称す。)慈円とただ四人とこそは申しか。當時は山ばかりにだに、一の人の子一度にならびいできて十人にもあまりぬらん。寺・奈良・仁和寺・醍醐と四五十人にもやあまるらん。一度に摂籙の臣四五人まで前官なっがらならびてあらんには道理にてこそあれ。又宮たちは入道親皇とて、御室の中にもありがたかりしを(仁和寺でも滅多になかった)、山にも二人ならびてをはしますめり(承久元年当時には延暦寺に後鳥羽上皇皇子の道覚・尊快の両親皇がいた。道覚は後鳥羽第九子・80代天台座主。尊快は後鳥羽第七皇子で天台座主73世になるが承久の乱で辞退する)。新院(土御門上皇)當院(順徳天皇)、又二宮(高倉天皇第二皇子守貞新王)・三院(第三皇子惟明皇子)の御子など云て、数しらずをさなき宮々(仁和寺次記には守貞親王の幼子・道深新王が入寺した記録ありという)法師法師にと、師共のもとへあてがはるめる。世滅松(不明)に聖徳太子のかきをかせたまへるも、あはれにこそ、ひしとなかひてみゆれ。これを昔はされば人の子をまうけざるかと、世にうたがう人をほかりぬべし。よくよく心へらるべき也。昔は国王の御子御子ををかれれど、皆姓をたまはせてただの大臣公卿にもなさるれば、新王たちの御子もさたにをよばす(処遇した)。一人の子も家をつぎて、摂籙してんとをもはぬほかは(思いがけないものは)、みなただの凡人にふるまはせて、朝家につかへさせられき。つぎつぎのひ人(摂政関白の次の位の人)の子も人がましかりぬべき子をこそとりだせ(相当の人物であろう人こそ取り出すのだが)さなきはただはいしれて(廃痴れて)やみやみすれば、ある人は皆よくてもてあつかふものなし(現在居る者は皆よく扱われるものはない)。今の世には宮も一の人の子も、又次次の人の子もさながらを宮ぶるまい(全員が皇族として扱われる)、摂籙の家嫡ぶるまいにて、次々もよきをややのやうならせんと、わろき子供をあてがひて、このをやをやの取いだせばかくはあるなるべし。又僧の中にもその所の長吏をへつれば、又その門徒門徒とて、出世の師弟は世間の父子なれば、我も我もとそのたちわけ(分派)のををさよ。されば人なしとはいかにもしかるべき人のをほさこそぞいふべき。あはれあはれ有若亡(あれどもなきが如し)、有名無実などいふことばを人の口につけて云は、ただこのれう(為)にこそ。かかればいよいよ緇素みな怨敵にして、闘諍誠に堅固なり。貴賤同く人無くして、言語すでに道断侍りぬるになむ。しし(為仕)もてまかりては、物のはてには問答したるが心はなぐさむるなり。
問、されば今はちからをよばず、かうて世になをるまじきか。
答、分には(ある程度には)やすくなほりなむ。
問、すでに世くだりはてたり。人又なからん也。あともなくなりにたるにこそ(昔の痕跡も無くなった)。しかるにやすくなをりなんとはいかに。
答、分にはとはさて申也。一定やすやすとなをるべき也。
問、そのなをらんずるやう如何。
答、人はうせたれど、君と摂籙臣と御心一にて、このある人の中にわろけれども、さりとては、僧俗をかいゑりかいゑりして(選抜選抜して)、よからん人を、ただ鳥羽・白河のころの官の数にめしつかいて、そのほかをばふつとすてらるべきなり。不中用(不要)の物をまことしく(本当に)すてはてて、目をだにみせられずは(気の毒という心情を眼にあらわさなければ)、めでためでたとしてなをらんずる也。随分になをると云はこれなり。昔のごとくには、人のなければ、かなふまじ。ゑりただしたらんずる寸法の世こそはわろながら(悪いながら)、よくなをりたるこの世にてあらんずれ。
問、この官のををさ、人のををさをば、」いかにすてんとてはすてられんずるぞ。
答、すつると云は、ふつとめしつかはず。さる者や世にあらんともしろしめさるまじき也。陽成院世にをはしまして、やうやうの悪事せさせ給しかど、ものもいはで聞いれざりましかば、寛平・延喜の世のめでたくてありき。解官停任にもおよぶまじ。ただすてられぬにて「まことにすてられたらん人には、なあいしらいそ(つきあうな)」と、ゑりとられたらん人に、をほせふくめて、さて有べきなり。
問、そのすてら人あまりをほくて、よりあいて謀反やをこして大事にやならんずらん。
答、武士をかくてもたせをはしましたるは、そのれうぞかし。すこしもさる気色いかでかきこえざらん。きこゑん時二三人さらん者を遠流せられなば、つやつやさる心をおこす人もあるまじき也。
問、此義なりて侍り。いみじいみじ。ただしたれかその人をばゑりとらんずるぞ。
答、これこそ大事なれ。ただしこれゑりてまいらする人四五人は一定ありぬべし。その四五人よりあいて、ゑりとりてまいらせたらんを、君だにもつよつよとはたらかさで、ひしともちゐさせ給はば、やすやすとこの世はなをらんずるなり。
問、解官せじとはいかに。
答、ゑりいだされむ人の、八座・辨官・職事ばかりになる人候らんところこそ要なれば、それは解官せらなんず。こともをろかや。そのほかはせめて無沙汰なれと也。僧俗官の数のさだめほどこそ大事あんれど、鳥羽院最中の数、末代よりよきほど也。(終わり)