福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

愚管抄巻七 その5/6

2022-11-20 | 法話

愚管抄巻七 その5/6

今左大臣(藤原道家)の子(藤原頼経)を武士の大将軍に(藤原頼経は鎌倉幕府4代将軍。摂政・九条道家の子。源実朝暗殺後,源頼朝の遠縁にあたる頼経がわずか2歳で鎌倉に迎えられ将軍となる。その後執権の北条氏に疎まれ,1244年頼経の子藤原頼嗣へ将軍職を譲渡して出家。1246年には反得宗派の反乱事件(宮騒動)に関連して京都に追われた。)一定八幡大菩薩のなさせ給ひぬ。人のすることに非ず。一定神々のしいださせ給ひぬるよとみゆる、ふかしぎの事のいでき侍りぬる也。これを近衛殿など(基通・家実父子。近衛基通は大臣藤原基実の長子、父の死後、継母の平盛子の父清盛の後援を得て内大臣関白。後白河の知遇を得、源頼朝の台頭以後も、亡命中の源義経をかくまうなど、鎌倉幕府に反抗。九条兼実にかわって関白に還任も。家実は近衛基通の長子、幕府が後援し朝廷政治は荒廃。)云さたのほかの者は「わが家にかかることなし、はじかかるるか」(九条家は将来恥をかくであろう)いはるるを、誠になどいふ人もあるとかや。をかしき事とは、ただこれらなり。わが身うるはしく家をつぎたる人にてこそ、さやうの事はをろかながらもいふべけれ。平将軍(平清盛)が乱世に成さだまる謀反の詮に(治承三年十一月の政変、平清盛が軍を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件)二位中将より(この政変時の基通の官位。近衛基通はこの政変時に清盛により叔父の摂政基房が解官されると,内大臣・関白となり,翌年には安徳天皇の摂政となる。有職故実を十分に伝承できてなかったとされる)つやつや物もしらぬ人のわかわか(子供じみた)をろかをろかとしたるに、摂籙の臣の名ばかりさずけられて、怨霊(平家)にわざとまもられて、わが家うしなわんれうに久しくいきたるぞと、ゑ思ひしらぬほどの身にして、「家のはじ也」などいはばや(言っても八幡大菩薩の御心にかなわない)大菩薩の御心になかふべき。言ふに足らずと云はこれなり(論ずる価値がない)。すこしは、世のうつり物の道理のかはりゆくやうは、人これをわきまへがたければ、そのれうに(それを知らせる為に)これはかきつけ侍れど、これをみむ人もわが心にいれいれせんずれば(深く心にとめなければ)さらにかなうまじ(理解不可能であろう)。こはいかがし侍るべき。されば摂籙家と武士家(将軍家)とをひとつになしして、文武兼行して世をまもり、君をうしろみまいらすべきになりぬるかとみゆるなり。これにつきて昔を思ひいで今をかへりみて、正意にをとしすゑて(帰着させる)邪をすて正にきする道をひしと心うべきにあひ成て侍るぞかし。先これにつきて、是は一定大菩薩の御計か、天狗・地狗の又しわざかとふかくうたがうべし。このうたがいにつきて、昔より怨霊と云物の世をうしない人をほろぼす道理のはべるを、先仏神にいのらるべきなり。

百川の宰相のいみじく光仁をたて申しと(光仁天皇の即位について藤原百川が奔走した)、又そのあとの王子立太子論ぜしに、桓武天皇をばたてをほせまいらせたれど、あまりにさたしすごして、井上の内親王を穴をえりて獄をつくりてこめまいらせなんどせしかば(井上内親王は聖武天皇の皇女で光仁天皇の后であったが、藤原百川ら藤原式家一派の陰謀で幽閉され薨去)、現身に龍に成て、ついに蹴ころさせ給と云めり(愚管抄では井上内親王は怨霊となって祟り、竜に変身して藤原百川を蹴殺したとする)一條摂政(藤原伊井)は朝成の中納言を生霊にまうけて(藤原朝成は藤原北家勧修寺流であったが、藤原北家九条流の藤原伊尹と官職を争って敗れ、伊尹とその子孫に祟る怨霊となったとされる逸話が諸書にある)義孝(伊尹の子)の少将までうせぬと云めり。あさひら(藤原 朝成(あさひら)は、藤原北家勧修寺流、右大臣・藤原定方の六男)は定方右大臣の子孫也、宰相の時は一條摂政(藤原伊尹)は下﨟にて競望のあいだ放言して申しけり。大納言所望の時は摂籙臣になられたるにまいりて、昔はさうなく上へのぼる事もなかりけるに良久しく庭に立て、たまたまよび入てあはれたるに、大納言にはわが(朝成が)なるべき道理を立てけるをうちききて、(藤原伊尹が言うには)「往年納言のときは(朝成が)放言せられき、今は貴閣(あなた)の昇進わが(藤原伊尹の)心にまかせたり。世間ははかりがたき事ぞ」と云て、やがて内へいられければ、(朝成は)なのめならず腹立て(伊尹邸を)いでける。車にまつ゛笏をなげいれけるに、二つにわれにけり。さて生霊となれり、とこそ江師(大江 匡房)もかたりけれ。三条東洞院はあさ平(朝成)が家のあとなり、それへは一條摂政(藤原伊尹)の子孫はのぞまずなど申めり。元方の大納言(藤原元方は村上天皇に入れた娘祐姫(更衣)が第1皇子広平親王を生んだことにより昇進したが、藤原師輔の娘安子も第2皇子憲仁親王(のちの冷泉天皇)を生み,すぐに東宮に立てられた。これにより元方の希望は断たれ,3年後に他界。このため元方は怨霊となって,外戚の地位を固めた師輔の身内に祟り,とりわけ冷泉天皇の狂気はそのためという。以上『栄花物語』『大鏡』による)は天暦第一皇子廣平親王の外祖にて、冷泉院をとりつめまいらせたり(激しく迫った)。顕光大臣は御堂の靈になれり(藤原顕光は長女元子を一条天皇の女御に,次女延子を皇太子敦明親王の妃としたが,藤原道長の圧力で後宮対策に失敗78歳で死去したがその後道長一族にたたり,世に悪霊左府とおそれられた)。小一條院(三条天皇は後一条天皇(一条天皇皇子)への譲位に際し,藤原道長の意に反して親王の立太子を実現したが,道長は圧迫を加えたのでその地位は不安定で,父上皇の没後ついに東宮を辞し,後一条天皇の同母弟敦良親王(後朱雀天皇)が道長の望みどおり東宮となった。以後は上皇に準じて小一条院と号し,道長も女の寛子を妃とし優遇したが,もとの妃の延子と,その父藤原顕光の悲嘆は大きく,その死後は道長一家にたたる怨霊として恐れられた。)御しうとなりしゆへなどかやうに申也。されども仏法と云物のさかりにて、智行の僧をほかれば、かやうの事はたたれども(祟る)事の他なる事をばふせぐめり。まめやかに底よりたうとき僧をたのみて、三宝の益をばうる也。九條殿(藤原師輔。村上天皇の女御となった娘安子が皇子憲平親王(冷泉天皇)を生んだことで,第1皇子広平親王(外祖父は藤原元方)を退け,憲平を皇太子に立てた。この安子の皇子出産の祈祷を延暦寺横川の良源(のち18代天台座主)に頼んで功徳があった)は慈恵大師、御堂は三昧和尚(慶円、第24代天台座主)・無動寺座主(慶命、第27代天台座主)、宇治殿(藤原頼道)は滋賀僧正(明尊。小野道風の孫。園城寺長吏、円満院創建。。藤原頼通の帰依を受け,興福寺再建供養会の導師・宇治平等院の検校、一条天皇から八宗総博士に任ぜられた。弟子の覚円は頼通の子)など、かやうにきこゆめり。ふかく世をみるには、讃岐院(崇徳天皇。鳥羽天皇の子。後白河天皇の兄。即位したが,鳥羽上皇により近衛天皇へ譲位をしいられ,1141年退位して上皇となったが自分の子重仁の即位は実現せず,後白河天皇が即位した。この不満から1156年保元の乱を起こし讃岐に流され配所で没したが,その怨念で怨霊になったと世人に恐れられた。)知足院どの(藤原忠実、保元の乱で頼長に同心したが,忠通の計らいで刑を免れ知足院に閉居)の霊のさたなくて、ただ我家(藤原忠実の家)をうしなはんと云事にて(保元の乱で藤原忠実の邸宅が没収)法性寺殿(藤原忠通)はこ(我が子)ながらあまりに器量の、手がくべくもなければにや(忠実の怨霊が手掛けてそれにあたる)わが御身(忠通)にはあながちの事もなし。中の殿の(藤原基実。関白・藤原忠通の4男。近衛家の祖。16歳で二条天皇の関白、24歳で病没)とくうせざま(早死にのしかた)松殿(藤原基房。藤原忠通の子、兄基実の死で摂政をつぎ,太政大臣,関白を歴任。のち平清盛と対立して備前に流された。のち源義仲とむすんだが,義仲の敗死で政界をしりぞく。)九條殿(藤原兼実。藤原忠通の子。平氏滅亡後源頼朝に支持されて摂政,氏長者,太政大臣,関白。建久7年政敵の源通親に追われて失脚,法然に帰依して出家)の事(事件)にあはれやう、このい殿(近衛基通)のたびたびとられ給て(近衛基通が義仲・頼朝により摂政関白を師家・兼実)、今まで命をいけてあそびてこの家(摂関家)をうしなはれぬる事と、後白河一代あけくれ事にあはせ給うことなどは(保元の乱・平治の乱・成親陰謀・治承三年の政変・以仁王挙兵)あらたに(神仏の霊験あらたに)この怨霊も何もただ道理をうる方の(道理を理解する側に)こたうる事にて侍なり。一とあたりは(事件の当初は)ただやすやすとある事の一大事にはなる也。さぬきよりよびかわしてまいらせて(祟りが相次いだので後白河上皇は崇徳上皇の院号を「讃岐院」から「崇徳院」に改めた)京にをきたてまつりて、國一つなどまいらせて(寿永3年には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された)「御作善候べし」などにて歌うちよませまいらせてあらましかば、かうほどの事あるまじ。知足院殿(忠実、忠通の父)をも申うけて、法性寺殿(忠通)の御さたには(処置としては。)宇治の常楽院にすゑ申ていますこし庄どももまいらせて、をなじくあそびして管絃もてなしてをはしまさしかば、かうほどの事はあるまじき也(保元の乱に加担した罪で忠忠通の父忠実は知足院に閉居させられた)。法性寺殿はわがおやなれば、流刑のなきこそそまう(所望)の事とをもはれたりけるにや。それもいはれたれど(もっともであるが)我身にあらたなるたたりはなけれども、いかにもののはからひは、これほどのやうをふかく思ひとかぬところに事はいでくるなり(忠通自身も晩年は不遇、子もみな早逝)。人間界には怨憎会苦かならずはたすところなり(人間界では怨憎会苦は必ず果たすようになっている)ただ口にて一言、われにまさりたる人を過分に放言しつれば、當座にむずとつきころして命をうしなはるるなり。怨霊と云は、せんは(究極は)ただ現世ながらふかく意趣をむすびてかたきにとりて、小家より天下にもをよびて(怨憎会苦が起こるのは取るに足りない小さい家より天下人の場合にまで及んで)、そのかたきをほりまろばかさんとして(穴を掘りころばそうとして)、讒言そら事をつくりいだすにて、世のみだれ又人の損つ゛る事はただえおなじ事なり。顕にそのむくひをはたさねば冥になるばかりなり(目に見えておこなわなければ見えないところで仕返しがおこなわれる)。聖徳太子の十七条の中に「嫉妬をやめよ、嫉妬の思ひはそのきはなし。かしこくをろかなる事は、又たまきのはしなしきがごとし。我一人えたりとな思ひそ」(「十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬あることなかれ、われすでに人を嫉めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患い、その極りを知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬む。ここを以て、五百(いおをせ)にしていまし今、賢に遇うとも、千載にして以て一の聖を待つこと難し。それ賢聖を得ざれば、何を以てか国を治めん。」)といましめて、「寶あるもののうれへはやすやすととほるなり。石を水になげるるやう也。まずしき者のうれへはかたくてとほる事なし。水にて岩をうつがやう也」(「五に曰わく、餐を絶ち、欲を棄てて、明らかにうつたえをわきまえよ。それ百姓の訴は一日に千事あり、一日すらなおしかり、況んや歳を累ぬるをや。このごろ、訴を治むる者、利を得るを常となし、賄を見てことわりを聴く。すなわち、財あるものの訟は、石に水を投ぐるが如く、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここを以て、貧しき民は則ち由る所を知らず。臣の道またここにかく。」)と仰られたる。この三事のせんいては侍るを、世のすゑざま、當時の世間にはさるいましめのあるかとだにも思はで、わざとこれを(貪瞋痴を)めでたき事に思て、すこしもたましひあらんと思ひたる人は、物ねたみと自是他非と追従まいない(賄賂)とにて、これがひとへに世をもたんにはなん(難)の候はんぞ。あざやかあざやか(てきぱきとしている)と侍るものかな。をさまれる世には人官をもとむ。この比(承久元年1219年頃)の十人大納言三位五六十人、この院(後白河法皇)の御時までも十人が内外にてこそ侍りしか。ゆげいのぜう(衛門尉。宮城の警備益である衛門府の第三等の官)けびいしはかずさだまらず。一度に除目(任命式)をみれば靫負尉・兵衛尉四十人にをとるたびなし(およばず)、千人にもなりぬらん。人官をもとめて、そくらう(贖労、財物を官に納めて官位を得る)わきざし(絹巻)をたずねて(差し出して)ねがふものは、近臣かくごん(恪勤、まじめに勤める)の男女にてにあらんには、左右にをよばぬことぞかし(ためらわない)。さまではをもひよらず。まことには、末代悪世、武士が世になりはてて末法にもいりにたれば、ただちりばかりこの道理(怨霊・嫉妬・貪欲・猟官などについても筋道)どもを君もをぼしめしいでて、こはいかにとをどろきさめさせ給て、さのみはいかに(そうむやみと)この邪悪悪霊の手にもいるべきとをぼしめし、近臣の男女もいささかをどろけかし(驚けよ)とのみこそ念願せられ侍れ。又武士将軍をうしないて(頼朝・頼家・実朝が死に)、我身(武士)にはをそろしき物もなくて、地頭地頭とてみな日本国の所當とりもちたり(割り当てられた年貢を責任もち引き受けた)。院(後鳥羽上皇)の御ことをば近臣のわき(脇腹)、地頭の得分にてこそぐれば(武士がくすぐれば)、ゑまずと云事なし。武士なれば、當時心にかなはぬ物をば をれをれと(働きかけるときのことば)にらみつれば、手むかいする物なし。ただ心にまかせてんと、ひしと案じやりと今はみゆめり。さてこれらのひが事のつもりて大乱になりて、この世は我も人もほろびはてなんずらん。大の三災(大方等大集経にいう火災,水災,風災)はまだしき物を、さすがに仏法のをこないもの(修法)いこりたり、宗廟社稷の神もきらきらとあんめり。ただいささかの正意とりいだして、無顕無道の事すこしなのめになりて(普通になり)、さすがにこれをわきまへたる人、僧俗の中に二三人四五人などはあるらん物を、これをめしいだして天下につかへられよかし。事の詮には人の一切智具足してまことの賢人聖人はかなうまじ、すこしも分分に主とならん人(分に応じて主となる人)は、国王よりはじめまいらせて、人のよしあしをみしりてめしつかいをはします御心一つが、やすかるべき事の詮にて侍なり。それがわざとするやうに、何事にも、さながらからすをうにちかはるること(泳げない烏を鵜としてつかう愚かさ)にてはべれば、つやつやとよのうせ侍りぬるぞとよ(国は滅びると思う)。又道りと云物はやすやすと侍ぞかし(容易に実現するものだ)。それわきまへたらん臣下にて、武士の勢あらんをめしあつめて仰せきかせばや。その仰せことばは「先、武士と云ものは、今は世の末に一定當時あるやうにもちいられてあるべき世の末になりたりとひしとみゆ(今は末法の世になったので武士が今のように有力なりのが当然になった)。さればそのやうは勿論なり(末法の世であるから武士が幅を利かせるのは異論がない)。その上にはこの武士をわろしとをぼしめして、これにまさりたるともがらいでくべくにあらず。このやうにつけても世の末ざまはいよいよわろき者のみこそあらんずれ。このともがらをほろぼさんずる逆乱はいかばかりのことににてかはあるべきなれば(どれほどのことでもあり得ないので)、冥に天道の御さたのいほかに、顕に汝等をにくくもうたがいもをぼしめすことはなき也」。地頭の事こそ大事なれ。これはしずかにしずかによくよく武士に仰合て御はからいあるべき也。これとどめまいらせじとて(武士が地頭を停止させられされないようにとして)、むかへび(お盆の迎え火)をつくりて朝家をおどしまいらする事もあるべからず。さればとて又をち゛させたまうべきことにもあらぬなり。ただ大方のやうの武士のともがらが、今は正道を存べき世になりたる也。この東宮(承久の変当時の皇太子懐成かねなり親王のこと。懐成親王は承久3年承久の乱直前に4歳で践祚。父の順徳天皇が、祖父の後鳥羽上皇と共に承久の乱を起こし後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に流される。7月9日に幕府の手によって懐成親王(仲恭天皇)は廃位。この時後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に懐成親王の復位を願った。天福2年(1234年)に17歳で崩御。歴代の天皇の中で、在位期間が最も短い天皇。)この将軍(承久の乱当時二歳の藤原頼經。鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂政関白を歴任した九条道家の三男、両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された。)と云はわずかに二歳の少人なり。これをつくりいで給ふことはひとへに宗廟の神の御さたあらはなる。東宮(懐成親王)も御母(順徳天皇中宮立子)はみなし子になられたり(中宮立子の父母は早死にした)。祈念すべき人もなし(立子が皇子を産むにあたって安産を祈る人もない)。外祖父(母方の祖父良經)の願力のこたふるらんをばしらねども、かかることいまいでき給べしやは。将軍(頼朝・頼家・実朝)又かかる死して源氏平氏の氏つやつやと(明白に)たゆべしやは。そのかはりにこの子をもちゐるべしやは(源氏平氏が絶えたのでこの九条家の頼経を将軍にするとは)。一定ただことにはあらぬ也。昔よりなりゆく世をみるに、すたれはてて又をこるべき時にあいあたりたり(衰退しきってまた盛んになるものだ)。これにすぎてはうせむとてはいかにうせむずるぞ(滅びようとしてもどのようにして滅びるのか滅びるものではないのだ)。記典(紀傳)明經もすこしはのこれり。明法(律令格式を講ずる学問)法令(律令)もちりばかりはあんめり。顕密の僧徒も又過失なくきこゆ。百王をかぞふるにいま十六代はのこれり(古事記序「鏡を懸け珠を吐きて百王相ひ続きて」。順徳天皇は八十四代)。今この二歳の人々のをとなしく成て(懐成親王と頼経が大人になって)世をばうしないもはて、をこしもたてむずるなり(滅ぼすことも興すこともする)。「それ今廿年またんまで武士ひがごとすなすな(20年待つから武士よひがごとをするな)、ひがごとせずは自餘の人(武士以外の人々)ひがごとはとどめやすし」と仰きかせて、神社仏事祠官僧侶によけらかならん(よけらくあらん・よかろう)庄園さらにめずらしくよせたびて(めったにないくらい多く寄付して)、「この世を猶うしなはん邪魔をば、神力仏力にてをさへ、悪人反道(反逆)の心あらんともがらをば、その心あらせぬさきにめしとれと祈念せよ」と、ひしと仰せられて、このまいない(賄賂)獻芹(けんきん・進上物をへりくだって言う言葉)すこしとどめおかれよかし。世にやすかりぬべきことかなとこそ、神武よりけふまでの事がらをみくだして思ひつつ゛くるに、この道理はさすがにのこりて侍る物をとさとられ侍れ(劫初劫末の時運に遮悪作善の運が織り合わされている)。あなををの申すべきことのをおさや(なんと言うべきことの多さよ)。ただちりばかりかきつけ侍りぬ。これをこの人々をとなしくをはしまさんをり御覧ぜよかし。いかがをぼし目さん。露ばかりそをこともなく、最真実の世のなりゆくさま、かきつけたる人もよも侍らじとて、ただ一すち゛の道理と云ことの侍をかき侍りぬる也。

 

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