「八正の道広けれど 邪見の人ぞ踏み迷う 己(おのれ)が顔貌智慧技量 皆善悪の影ぞかし」
これは不邪見戒を讃嘆し奉るなり。凡そ悪業は貪瞋痴により起こる。貪瞋痴はただ邪見により因果応報の真理に眼を塞ぐゆえに起こる。邪見にして因果応報の理に明らかならざるゆえに貪瞋痴が起こるのである。従って十悪の中で他の九悪を惹き起こすはこの邪見による。従って十善戒の中でこの不邪見戒が最も大切である。
ここで八正道の「正」とは偏った考えを離れているゆえに「正」という。「道」とは涅槃に通ずるゆえに「道」という。
八正道の第一は「正見」、深く四諦(苦集滅道)無漏(煩悩が漏れ出ない)の因果の真理を信じ、能く外道の断常有無の邪見(運命は決まっている・決まってない、死後は無い・ある等の決めつけの考え)を離れるをいう。
八正道の第二は、「正思惟」、四諦(苦集滅道)の真理を悟得して明瞭に諸法を弁別する。
八正道の第三は、「正語」、能く口業を摂して妄語、綺語、悪口、両舌を離れる。
八正道の第四は、「正業」、殺生、偸盗、邪淫、を離れ戒定慧の正道を実行する。
八正道の第五は、「正命」、利養のために偽って、異相・奇相を現じ、利養の為に自らの功徳を説き、占いをし説法する。また高声に威を現じて人をして畏怖せしめ、供養を唆す、等の事をしない。正命とは仏の戒律に応じて命をつなぐことをいう。
八正道の第六は、「正精進」、能く勉励して断悪修善に堪えうるなり。
八正道の第七は、「正念」、戒定慧の正道及び不浄観、数息観等によって法を思念して涅槃を求むるなり。
八正道の第八は、「正定」、心を一境に住して諸の散乱を防ぎ身心寂静にして真空の理に住して心を他に移さない。
以上の八正道は我等仏戒を奉ずる者の断悪修善の要道転迷開悟の指南にして一切の善を摂しおさめて漏らさざるなり。
然るに今、邪見の人は八種の正道に迷い、生死の牢獄出離の期無く、冥きより冥きに入りて三途八難(三途八難とは、仏法を聞くことができない八の境界をいう。三途は地獄・餓鬼・畜生、これに長寿天 [長寿を楽しんで求道心が起こらない)辺地 [人間の欲望がうずまいている世界]無感覚・世智弁聡 [世俗智にたけて正理に従わない]仏前仏後 [仏が世におられない時期]をいう]の悪業に踏み迷う有様、まことに遇われ至極なり。
次の十善業道経の二句 「己(おのれ)が顔貌智慧技量 皆善悪の影ぞかし」は正しく不邪見戒の因果の相を示せり。邪見とは我見にまかせて仏神をないがしろにし、因果を撥無するなど種々のよこしまなる見解を立つるなり、故にこの類甚だ多しと雖も要は「断見」と「常見」なり。
「断見」にも色々あれど、先ず「善をなして好い報なく、悪をなして悪の報いなく、神と言い仏というも眼前に見るべきならねば、これも無きことと思い定むる」を断見と言い、「常見」にも色々あれども、人は常に人となり、畜生は常に畜生となりて、人が畜生となるべき理なく、鳥獣虫魚等畜生の類が人となるべき理なしと思い定むるを「常見」という。
これらは皆今世界は、衆生の善悪の業因によって万般を現ずるの理(衆生は業次第でどのような境涯にもなりうる)を知らざるが故なり。
大智度論には「一切世間法、因果無人」と説きて(十二因縁論に「一切世間法 唯因果無人 但從諸空法 唯生於空法」とあり)、因果の外に我・人・衆生なくまた能造の主等なきを明説せられ、また楞嚴には十界は循業発現なり(『首楞厳経』「十界は循業発現の境界なり(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・佛の世界はそれぞれ業が因になり果になり無限に循環して現れた世界である)」)と断定せられたり。世間一切の事物は皆善悪業因の影象のあらわれたるものなれば千人が千人、万人が万人各々に皆その分限を異にして仮令、父母兄弟夫婦の間といえども一種類としてその福力・徳行・智能を同じくするものあることなし。万物の出生するは皆、原因あり、万物の霊長としての人間が因縁なくして生まれてくるわけがない。人も悪行によっては地獄・餓鬼・畜生に生まれるし、畜生も宿業の善果熟するときは人とも天人ともなる。およそ戒法とは不思議なもので、戒が身についていれば悪事は自ら遠ざかる。例えば兵力強ければ敵国がうかがわざるが如く、人の元気充実したれば外邪が侵さざるがごとし。この因果の理法を信じて疑わぬ時は、仏法僧の三宝や無漏の浄法を信ずる心が起こり、一切衆生に対しても同体の大悲を発現する、これを菩薩の発菩提心という。三業清浄にして他を憐愍するの心、内に成就すれば此れを菩薩の戒体と名付く、この戒体広大無辺の功徳を具有する。これを菩薩の十善戒と名つ゛く。
富貴は慈悲行よりきたる。
貧窮は慳貪(けちんぼう)よりきたる。
福徳は善根よりきたる。
愛敬は 忍辱よりきたる。
智慧は精進よりきたる。
高位は礼拝よりきたる。
短命は殺生よりきたる。
愚蒙は破戒よりきたる。
無病は信心よりきたる。
病身は不浄よりきたる。 (因果経)
十善戒和讃全文「 帰命頂礼 十善戒、 十方三世の諸如来の三十二種の妙相もこの浄戒を種因とす。戒定智慧も三密も三十七の道品も身三口四と意三より 皆生じたる功徳なり。世間諸善の根本にて人の人たる道なれば、出家在家も持つ(たもつ)べく老若長幼奉ずべし 。龍樹菩薩の教誡に 仏果を期して戒なきは、渡りに船のなき如く 到るを得じと、のたまえり。昔、比丘あり、行く道に渇きに迫り水を得て、蟲の命をあわれみて 死して道果を得たりけり。また八才の少沙弥の、水の流れて蟻穴に入るを救いし功徳にて 夭死転じて長寿せり。また、毘舎伽母の指の輪の 落ちて入江に沈みしも、元の指端に還りたるためしは実にいなまれず。影勝王の像の子の産に臨みて悩みしを牧牛の女の操もて、誓いて分娩せしめたり。斑足王の猛悪も 実語のとくに感悟して、九十九余の命をも放ちて道に入りにけり、言辞弁舌明瞭に生まれし種(もと)は不綺語なり。時候和順に資産富み 草木さえ皆色ぞ増す。人天中に香はしきものは善語に過ぐるなし。妻子眷属和悦して上下人心、皆服す。主従和睦違わぬは 不両舌語の功徳なり。親好厚く和敬せば これぞ菩薩の心なる。足ることを知る人の身は 地上に臥すも浄土なり。 己をせめて施せよ、多欲は餓鬼の種因なり。世を乱し、身を滅ぼすは皆一朝のいかりなり。一切男女は過去の父母、とか一子の慈悲を運ぶべし。八正の道広けれど 邪見の人ぞ踏み迷う。己が顔貌智慧技量 皆善悪の影ぞかし。神も聖もみ仏も みなこの道に由りたもう。これぞ真実の道なれば この道撥無するなかれ。妻子珍宝及王位 死出の旅路の共ならず。唯この戒の功徳のみ 身に添う三世の友ぞかし。百歩の間持(たも)つすら 仏になるとのたまえば、萬行中の易行なり 唯 ひたすらに守るべし]