福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は後宇多天皇が宸翰(国宝)を何度も出された相手、憲淳示寂の日。

2023-08-23 | 法話


憲淳は醍醐寺報恩院第四世。一に国師僧正といい、粟田口一品良教の子。報恩院覚雅の室に入り出家。正応五年八月具支灌頂を本師に受け、苦修精練して瀉瓶の印璽を付嘱せらる。乾元二年二月二十六日遍智院聖雲親王は師に印可を授ける。憲淳は後宇多天皇の幼少期に侍童としてお仕えする。徳治三年二月、憲淳病篤きに及ぶや法皇は勅書を下して法流伝授を求めたまふ。憲淳は三月二十五日、請文を奉って受法心得を進言。四月三日法皇重ねて勅書を賜ひて戒行護持、紹隆密教の叡慮を宣べさせたまふ。ここにおいて四月十四日、万里小路殿を荘厳して道場となし、法皇に伝法灌頂を授け奉り、・・・同二十九日法皇三度勅書を賜り、附法の条条は一事なりとも違背することなく、当流紹隆のために厳守すべきことを仰せらる(注1)。これより先、永仁五年憲淳は釈迦院隆勝に金剛乗の最極秘心印を授け南天相承の重器・道具・聖教並びに秘密の宝蔵を悉く伝授して附法の正嫡となせり。しかるに後宇多法皇は憲淳に対し、西南院道順を瓶瀉ならしめんことを強要あそばされしが、憲淳は応ぜず。法流を隆勝に遺嘱し、徳治三年八月二十三日寂す。壽五十一。(密教大辞典)

(注1)後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され密教興隆を誓われました。
以下「宸翰英華」等によります。
今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され法流を継ぎ密教興隆を誓われましたがこの前には、憲淳が法皇に以下のような附法状を奉っています。憲淳は法皇が報恩院に住持した場合は、法皇を正嫡として門跡(院主)を継がせる心づもりであったのですがしかし法皇による報恩院への住持は実現せず、徳治三年八月の憲淳の入滅後、法皇と憲淳の正嫡・隆勝は本尊や重書の所有をめぐり対立しました。
「報恩院流を伝授申し上げ法流を継いでいただくことするが、
・門外不出であること。・醍醐寺にお住まいになる事。・経蔵の開閉は憲淳の弟子にさせること。・寺に入られないならば他人には伝授しないこと。・他寺を兼帯している僧には一尊一巻をも伝授してはならないこと。・醍醐寺の住職となられ元首となるならば憲淳の弟子達に伝法興隆のこと。・憲淳の弟子には伝授した内容は申請に従って勅許さるべきこと。・女人を遠ざけるべきこと等、を守っていただきたい。」とお願いしたことに対して後宇多法皇は延慶二年1310四月二十九日にこの附法状に答えて一事も違背せず條々守るべきことをおおせられさらに本尊聖教目録を徴せれられ更に憲淳が病を養い恵命全うすべきことを望まれています。
「国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第三通目)」には「一遍慥畢、始終偏廻當流紹隆之謀也、努々一事不可有依違事、殊可守條々旨者也、本尊聖教以下為存知、可被進目録候哉、委細道順(憲淳の弟子)令申候歟、所勞體其後不審、相構加療治、被全恵命者、尤可為弘法利生之道、殊可被施醫術者也、
四月二十九日 金剛性  敬白」

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