福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「七生報国」(追加)

2024-02-26 | 先祖供養

柳田国男「七生報国」(『先祖の話』より。「先祖の話」は空襲で無数の日本人が犠牲になって居た最中の昭和20年4月から5月の終戦直前に書かれています。)

 

 それは是から更に確かめて見なければ、さうとも否とも言へないことであらうが、少なくとも人があの世をさう遥かなる国とも考へず、一念の力によつてあまたゝび、此世と交通することが出来るのみか、更に改めて復立帰り、次次の人生を営むことも不能では無ひと考へて居なかつたら、七生報国といふ願ひは我々の胸に、浮ばなかつたらうとまでは誰にでも考へられる。廣瀬中佐が是を最後の言葉として、旅順の閉塞戦に上つたときには、既に此辞句が若い学徒の間に、著名なものとなつて居たことは事実である。(廣瀬中佐は日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事し閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。部下を助けるため一人沈み行く福井丸に戻ったところをロシア軍に狙撃され戦死。青山霊園に墓地。軍神第一号。なお、広瀬中佐は閉塞船福井丸乗船のとき「七生報国、一死心堅。再期成功、含笑上船」(七たび生まれて国に報ぜん。一死、心に堅し。再び成功を期し、笑みを含みて船に上る)という律詩を書き残している。)。中にはただ詩人の咏歎を以て之を口にした場合も無かったとは言へまいが、今生死の関頭に立つ誠実な一武人としては、是が其瞬間の心境に適切であったのは固よりで、日頃愛誦の句であるだけに、感銘の更に新たなるものがあったであらうことも疑はれぬ(これは漱石が「艇長の遺書と中佐の詩」という文章で中佐の詩を「なくもがなである」と批判したことへの反論でもあります)。同じ体験が今度は又、至誠純情なる若者によって次々と積み重ねられた。さうして愈々この四つの文字を以て、単なる文学を超越して、国民生活の一つの目標として居るのである。

太平記の次の一節をよく読んで見ると、この中にはまだ一抹の曇りといふやうなものが漂って居る。それを今までは全く気が付かずに、深い印象を私たちは受けて居たのであった。「手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。」(太平記「百三十八 正成兄弟討死事」)人にまう一ぺん生まれてこやうといふ願までが、罪業ふかき悪念であると、見られて居るやうな時代も有ったのである。是が楠公の当時の常識であったのか、但しは又広厳寺(神戸市にある楠木正成の菩提寺。建武3年(1336年)5月、楠木正成が当寺の明極禅師と問答して悟って湊川の戦いに臨んだと『明極和尚行状録』にある。)の僧たちが後にさういふ風に世の中に伝へたのか、もしくは語る者が、自分の批評を以て潤飾したか。三者何れであらうとも、それは問ふ所で無い。国民はすでにもう久しい間、是を悪念とも妄執とも見ることを忘れて、ただその志の向ふ所を仰慕して止まぬのである。

安藤為章の年山紀聞の中に、水戸の黄門光圀の侍女村上吉子、後に法体して一静尼と謂った人が、七十二歳を以て世を辞した時の歌を載せて居る。

「又も来ん 人を導くゑにしあらば 八の苦しみ絶え間無くとも」

女性として又仏道の人としては、誠に力強い最後の一念であったが、それが如何なる方面に再生したかは、悲しいことにまだ明らかにはなって居ない。人生は時あって四苦八苦の衢であるけれども、それを畏れて我々が皆他の世界に往ってしまっては、次の明朗なる社会を期するの道は無ひのである。我々が是を乗越へていつまでも、生れ直して来やうと念ずるのは正しいと思う。しかも先祖代々くりかへして、同じ一つの国に奉仕し得られるものと信ずることの出来たといふのは、特に我々に取っては幸福なことであった。

 

(柳田国男は「仏教では極楽浄土に生まれることを願うのみで『七生報国』という国を思う気持ちは生まれてこないのではないか?」という疑問を持っていたのかもしれませんが「八幡愚童訓」には叡尊上人は元寇の役で神風を吹かせた後も、蒙古の皇帝に生まれ変わって日本侵略を食い止めた、と出ています。叡尊のような高僧中の高僧でさえ「七生報国」の思想を持っていたことがわかります。)

「八幡愚童訓」「(叡尊が蒙古の帝に生まれて日本侵略を止めると願ったことは)治乱まことに王のなすところなり。上品十善の功徳だに鉄輪王と成るぞかし、いかにいわんや思円上人(叡尊)、菩薩具足の戒全し。蒙古の王となりしこと更に相違あるべからず。去れば彼の王宿願を憶念して怨害の心なく、自他の王民安んずること返す返すも貴かるべし。

そのうえ、宝亀四年2月十五日の御託宣に「世は替っても神は替らず」とあるも頼もし。末代不善の輩は上古廉直の人に同じからずと雖も神慮は替らず守りたまうこそ嬉しけれ。去れば近頃,洛陽より月詣でせし女房、利生頓無きことを恨んで一両年も参らず、程を経てのちに思案して参詣したりしに「千早ぶる、神の心は長ければ、忘るるひとを忘れざりけり」とご示現を蒙りき。とりわけ異賊においては、因位の怨敵垂迹の誓願あるゆえに、降伏すみやかなれば來寇のおそれあるべからずと覚えたり。日本にて防がせ給うのみならず、折々他方に翔び打ち靡きしたまいしこと、神通の不思議といひながら世にすぐれたり。御託宣に「ある時は王位に帯し異国の軍を靡し、ある時は他界に渡りて濫悪を誡しむ」とあるにつけて、後一条院の御宇、長元の頃(1028年から1036年)異国の兵を起こして来たらんとせし時、大菩薩神通力を現わしたもうて、大地忽ち震動して、造るところの船を破損したまひしかば、異賊力なくして留まりぬ。懸る神明の御坐す圀なれば、十歳の減劫に至る隣敵いかで奪うべきや。」

 

 

 

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