真言教誠義(密蔵沙門周海)18・・・
信心とは淳誠の心なり。浄く澄みたる水の中には空上の月影の現ずるがごとく、衆生の心も清浄なれば心中の佛日の影現ず。これを加持という。
佛と神とは本地垂迹にして一体分身なれば常に我が心に邪曲をさしはさむときは自身中の佛と産土神(注)と天等とは明らかに知りたまふゆえに現世にはその我が身に種々の禍を受け、来世には無間地獄に堕して出る期なし。
この故に常に斬鬼の心を懐きて正直正路にして自心の佛に畏れて無明の邪曲の心をば微塵もおこすべからず。また三宝(仏法僧)を疑うは堕獄の因なれば三宝において淳誠の信心を発すべし。諸の菩薩の修行したまう六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若))
の法のことを聴聞して、貪・瞋・痴・懈怠・無慚・放逸・散乱等の煩悩の心の起こるを対峙すべし。
六波羅蜜の行とは
一には檀波羅蜜、布施と翻ず。これに財施、法施、無畏施とあり。
財施は一切衆生の身命を助ける金銀等の財物なり。
二には法施、一切衆生は無始以来種々の苦を受け来る。菩薩はこのごとく来世の長き間にも種々の苦を受けることを知りて、大日如来と釈迦如来との説き給う、顕教と密教とを具にとききかせて、この法を施与して法の如く修行せしめて無始以来の煩悩業障を滅して成仏せしむ。これ法施の功徳は広大無辺なり。
三には無畏施とは、一切衆生の諸の怖畏を除かしめんがために施与するこれなり・・・続あり。
注)産土神は、生まれた土地の神で生まれる前から死んだ後まで守護する神とされている。死後は産土神に帰るとも信仰されている。七五三等も本来産土神にお参りした。
信心とは淳誠の心なり。浄く澄みたる水の中には空上の月影の現ずるがごとく、衆生の心も清浄なれば心中の佛日の影現ず。これを加持という。
佛と神とは本地垂迹にして一体分身なれば常に我が心に邪曲をさしはさむときは自身中の佛と産土神(注)と天等とは明らかに知りたまふゆえに現世にはその我が身に種々の禍を受け、来世には無間地獄に堕して出る期なし。
この故に常に斬鬼の心を懐きて正直正路にして自心の佛に畏れて無明の邪曲の心をば微塵もおこすべからず。また三宝(仏法僧)を疑うは堕獄の因なれば三宝において淳誠の信心を発すべし。諸の菩薩の修行したまう六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若))
の法のことを聴聞して、貪・瞋・痴・懈怠・無慚・放逸・散乱等の煩悩の心の起こるを対峙すべし。
六波羅蜜の行とは
一には檀波羅蜜、布施と翻ず。これに財施、法施、無畏施とあり。
財施は一切衆生の身命を助ける金銀等の財物なり。
二には法施、一切衆生は無始以来種々の苦を受け来る。菩薩はこのごとく来世の長き間にも種々の苦を受けることを知りて、大日如来と釈迦如来との説き給う、顕教と密教とを具にとききかせて、この法を施与して法の如く修行せしめて無始以来の煩悩業障を滅して成仏せしむ。これ法施の功徳は広大無辺なり。
三には無畏施とは、一切衆生の諸の怖畏を除かしめんがために施与するこれなり・・・続あり。
注)産土神は、生まれた土地の神で生まれる前から死んだ後まで守護する神とされている。死後は産土神に帰るとも信仰されている。七五三等も本来産土神にお参りした。