福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

人生を畏れること、祈願も尋常な祈願では駄目

2014-09-20 | 法話
よく「人生を畏れるな」などとしたりがおに書いている本がありますが、それは悟りきった立場の人が利他行に専念してた人生の中で言える言葉であって、自分のことで精いっぱいな我々凡夫は「人生を畏れ」なければいけません。自分や家族の世間的な幸せを念頭に置く限り人生は不安でいっぱいのはずです。またそうでなければ逆に「幸せな」人生は送れません。「安心」をえることが信仰と云いますが、それは利他行に徹しきれる人の言う言葉です。自利を忘れることの出来ない凡夫の我々は人生を畏れ続けなければいけません。
そして人生をおそれると言うことは、それなりの祈願のしかたにも繋がってきます。
本当に人生を畏れているときは尋常な祈願の仕方はできません。
四国遍路でも夜明け前から大師堂で土下座して額を土に擦り付けて祈願している老婆がいました。通りがかりの私ですら見て「これでは必ず祈願成就するな」と思いました。ここまでしなければ所願成就は難しいと思います。
私も数十年前護国寺で初めて本堂にお詣りしたとき、お詣りに来ていた老人が寄ってきて「尋常でないお参りの仕方ですね、特別なことでもあるのですか?」と聞いてきました。それだけお詣りの仕方が尋常でなかったのでしょう。しかしおかげでどんどん有難いことが起こりました。
俗世の「所願」成就を祈願するときは尋常な祈願のしかたでは成就できないことを今朝思い出したので記しておきます。
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