最近数か月毎日ある秘密の修法を行じていますが、そのなかにもどの行法にもあるように「四無量心観」があります。この「四無量心観」は以前から大変好きであった観法です。四無量心観というのは慈・悲・喜・捨の瞑想をそれぞれの御真言を唱えて行うものですが、私は、「慈」のところでは「全ての生きとし生けるものが幸せでありますように」、「悲」では「全ての生きとし生けるものの苦悩がなくなりますように」、「喜」の瞑想では「すべての生きとし生けるものの願いが叶いますように」、「捨」のところでは「全ての生きとし生けるものが覚れますように」と本来の御真言のほかに願いつつ弥陀定印を結び、瞑想するようにしています。これは「次第」にはないのですが上座部の資料等を参考に自分で加えて行じているものです。
いままではこの最初の「慈」「悲」「喜」の瞑想が好きだったのですが、最近は「捨」の瞑想が深まっています。こここでは「心、本より不生なり、性・相 空なるがゆえに」と観想します。ここがいいのです。「心は不生不滅である、心が絶え間なく映している対象の本質も現象も実体はないのであるから・・」ということでしょうか。心ももとから不生不滅であったのです。般若心経のいう「諸法空相、不生不滅」というのがわかる気がしました。
そして折ある毎に「衆生無辺誓願度」を唱えていたのですが、今朝突然、「『幸せになる』とは覚ることだ」という思いがしました。いままでお大師様をはじめ無数の高僧たち、無数の無名の僧侶たちが生まれ変わり死に変わりしてこの「衆生無辺誓願度」を願ってきましたが、よくかんがえるとこれはとりもなおさず、衆生を悟らせようとされてきた、ということだったのです。さらにお釈迦様も「四門出遊」で衆生の生老病死の苦をごらんになり、衆生の苦を抜いてやりたいとして修行されついに菩提樹の下で覚られましたが、これは「衆生の苦を抜くためには衆生に悟らせることである」とわかったということだったのです。
世俗の価値観上の幸せは常に満ち欠けを繰り返します。「語に曰く、日中すれば則ち移り、月満つれば則ち虧く、と。物盛んなれば則ち衰うるは、天地の常数なり。進退盈縮、時と変化す。聖人の常道なり。(史記・蔡沢伝)」とあるとおりです。
「覚れない限り本当の幸せにはなれない」という事です。
いままではこの最初の「慈」「悲」「喜」の瞑想が好きだったのですが、最近は「捨」の瞑想が深まっています。こここでは「心、本より不生なり、性・相 空なるがゆえに」と観想します。ここがいいのです。「心は不生不滅である、心が絶え間なく映している対象の本質も現象も実体はないのであるから・・」ということでしょうか。心ももとから不生不滅であったのです。般若心経のいう「諸法空相、不生不滅」というのがわかる気がしました。
そして折ある毎に「衆生無辺誓願度」を唱えていたのですが、今朝突然、「『幸せになる』とは覚ることだ」という思いがしました。いままでお大師様をはじめ無数の高僧たち、無数の無名の僧侶たちが生まれ変わり死に変わりしてこの「衆生無辺誓願度」を願ってきましたが、よくかんがえるとこれはとりもなおさず、衆生を悟らせようとされてきた、ということだったのです。さらにお釈迦様も「四門出遊」で衆生の生老病死の苦をごらんになり、衆生の苦を抜いてやりたいとして修行されついに菩提樹の下で覚られましたが、これは「衆生の苦を抜くためには衆生に悟らせることである」とわかったということだったのです。
世俗の価値観上の幸せは常に満ち欠けを繰り返します。「語に曰く、日中すれば則ち移り、月満つれば則ち虧く、と。物盛んなれば則ち衰うるは、天地の常数なり。進退盈縮、時と変化す。聖人の常道なり。(史記・蔡沢伝)」とあるとおりです。
「覚れない限り本当の幸せにはなれない」という事です。