福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

Q,最近直葬、樹木葬、散骨等がはやっているようですがこれをどう考えれば?・・その7・最終回修正

2014-09-10 | Q&A
Q,最近直葬、樹木葬、散骨等がはやっているようですがこれをどう考えれば?・・その7・最終回修正版

A,結論は「大変間違っている、こういう葬り方をされる人は死後浮かばれなくて可愛そう」ということでした。今回まで、㈠あの世の存在について、・・・「あの世はある、これを認めないのは人類の尊厳を否定し日本神話を否定する者である」、と書きました。㈡葬儀の必要性・・ここでは「葬儀は故人の魂を高めて永遠の利他行に導くもの」と書きました。
つぎは最後の「㈢遺骨の考え方」です。ここの結論は「遺骨は計り知れない力をもち貴いものであるから大切に扱うべき」ということになります。

そのまえに、最近「身寄りがないからお墓も作らないで散骨する」という意見がありましたが、身寄りのない人の対処方法をいいます。身寄りがなくても事前に頼んでおけばNPO等で葬儀を引き受けてくれるところもあります。インターネットに数多く出ています。また所縁のお寺をつくり、頼めば遺骨も本山で永代供養してくれます。また「もやいの会」等と云い、他人同士でも同じ供養塔にはいるということをすすめている寺もあるようです。身寄りがないということは散骨の理由にはなりません。

さてお骨の考え方です。
・先に見たように火葬場で僧侶のあげる「舎利禮」は故人の骨をお釈迦様のお骨と同じように貴いものと化するお経です。お釈迦様のお骨は舎利といい、『法華経、見宝塔品』では法華経の真実性を証明するために出現した過去佛の多宝如来は、全身舎利(お骨)のお姿を示されているといいます。
・また、お大師様は、金剛智→不空→恵果→弘法と相承された仏舎利(お釈迦様のお骨・宝石のように丸い)を請来されました。『御請来目録』に「仏舎利八十粒 就中金色舎利一粒」とあります。そしてこれは東寺に置かれ今日まで鎮護国家の「後七日御修法」の本尊とされてきました。仏舎利はあらゆる願いを満たす「如意宝珠」と一体と考えられ修法されてきたのです。
これらのことからも分るように佛舎利とはたいへんな霊力をもつもので実は密教信仰の秘中の秘のご本尊なのです。火葬場で僧侶があげる舎利禮は故人のお骨をこういうお釈迦様のお舎利と一体化させようとするものなのです。

こういう背景を受けて
・小右記には「肉体は穢れているが遺骨は白骨化するので清浄となる」。
・中外抄には「骨を先祖の骨と一緒に置けば子孫が繁盛する。」とあります(中外抄、「康治二年九月二十五日。御前に候。仰せに曰く我先年故殿(祖父師実)御供に法輪寺に参る時、小松の有りしに馬を打ち寄せて手を懸けむとせしかば、故殿仰せにいわく、『あれは鷹司殿の御葬所なり。そもそも墓には御骨を置く所なり。所放なり。葬所は烏呼事なり。又骨をば先祖の骨置くところに置けるは子孫の繁盛也。鷹司殿の骨をば雅信大臣の所に置く後は繁盛云々。』)
・こういう考えを受けてか、鎌倉長谷寺には千年前の人骨で梵字を書き込んでいるものがありました。
・ラフカヂオハーンの日記です。「八月二九日。 ある仏教宗派の葬儀の儀式に従って、遺体が火葬されるとき、骨の中から、ほとけさん、もしくは「仏さま」と呼ばれる小さな骨が探される。これは、一般には喉の小さな骨であると考えられている。どの骨がそれなのか、私は分からないし、また、そのような遺骨を調べるという機会を持ったこともない。焼かれた後に発見される、この小さな骨の形によって、死者の将来の状態が預言されうるのである。魂が運命づけられている次の状態が幸福なものなら、この骨は仏陀の小さなイメージの形をしているという。次の人生が不幸ならば、その骨は奇妙な形をしているか、あるいはまったく形をなしていないだろう、という。 近所のたばこ屋のせがれの、幼い少年が一昨日の晩に死んだ。今日、火葬に付された。火から残された小さな骨には、三体の仏様の形があった――三体――それはおそらく、悲しみにくれている両親への、精神的な慰めとなるものであったろう (1)。注(1)大阪の天王寺という大きなお寺では、この骨はみんな納骨所に投げ込まれる。骨が落ちるときに出す音 によって後世についての証が得られるという。このようにして集められた骨は、一〇〇年毎に、粉にされて、大きな仏像が造られる。」

・極めつけは宝性院の経蔵にあるという大師の御記の文です。ここには「高野山におくってきた信者の骨は私が毎日加持して弥勒菩薩の安養浄土に送り、弥勒菩薩下生の56億7千万年後に説法をきかせてやろう。」(『舎那の秘印をむすんで先の身を秘し、身を樹下に留むといへども意は兜率の内院にあり。しかりといえども遺跡を加持して日々の影向を欠かさず、有信の者に至っては其の身に幸を授かり、不信の者は先業を恨むべし。ただし我が山に送りおかるる亡者の舎利を、われは毎日三密の加持力を以って、まず安養の宝刹に送り、当来には我が山の慈尊説法の聴衆菩薩となるべし。』)とおしゃっているのです。
・これらを総合すると凡夫の遺骨といえどもいかに貴いものであるかがわかります。

(終わり)
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