金剛般若波羅蜜經開題(弘法大師)
(京都国立博物館に大師筆の「金剛般若波羅蜜多経」(残巻)が国宝として残っています。
大師は遣唐使・藤原葛野麻呂が無事渡唐の御礼に『金剛般若経』187巻の書写をしたので大師がその供養をされたその際の願文を執筆されています。「・・弟子、去んじ延暦二十三年に天命を大唐にふくんで遠く鯨波を渉る。風波天に沃いで人力何の計かあらん。自ら思く、冥護(神仏の護り)によらずんばいずくんぞ皇華んも節を写し奉らんと。鐘谷感応して使乎の羨(遣唐大使のねがい)を果たすことを得たり。」大師も同じ船に乗っておられたのでこの思いは同じであったでしょう。『金剛般若経』の霊験の有難さは身を以てお感じになったと思われます。)
「今斯の蘇多覽を釋すに略して二趣あり。一には顯略、二には深祕なり。
顯略趣とは、多名句を以て一義理を詮ずる是也。深祕
とは、一一名句中に無邊の義理を含する是也。
初門に就きて又二あり。所謂、唐梵二國の説是れなり。梵淺略とは又二あり。初は題目について釋し、次は經文について釋す。
題額の淺略とは謂く、バザラセイジキャハラジニャハラミタソタラン
の十三字は四名を詮す。筏日羅の二字は金剛と翻じ、セイジキャの三字は能斷と名け、ハラジニャの二字は智惠と名け、ハラミタの四字は已究竟と呼び、ソタランは貫線と號く。即ち此の四名を合束し一會の經目と為す。所謂佛名稱城戰勝施樹給孤買園に在して、千餘の除勤勇(比丘のこと・仏道に精進する者)・無量大心衆との為にに説きたまふところの三摩地法是也。次に唐の淺略の題名とは、所謂金剛般若波
羅蜜經なり。金剛は即り堅實之名。般若は智惠之稱。
波羅蜜は到彼岸と翻ず。經は曰く不改の軌範なり。
此の意に就きて又六種の翻傳あり。第一に鳩摩羅什三藏の所譯は舍衞國(『大智度論』では、釈迦が舎衛城に25年滞在し、バーセナディ王やスダッタ長者など、多くの民衆を教化したといわれる所)と名く。第二に菩提留支三藏の譯には婆伽婆(バカバ・世尊)と名く。第三に眞諦三藏の譯には祇陀樹林(舍衞國にあった祇園精舎)と名く。第四には達磨笈多(だるまぐぷた・「金剛能断般若波羅蜜経」を訳す)の譯には金剛断割と名く。第五に玄奘三藏譯(「能断金剛般若波羅蜜経」には室羅筏(しらばつ・コーサラ国の重要都市。大唐西域記に「室羅筏底國は‥僧徒は少なく正量部を学ぶ」としている。)と名く。第六の義淨三藏譯(「仏説能断金剛般若波羅蜜経」)には名稱城と號す。六經別なりと雖ども同じく多名句に訳して「不住」等の義を釋す。此の六經について題目は各の不同なり。諸經の題目を釈するに古徳皆「人・法・喩の名を以てす」といふ。
今此の經も亦た然なり。金剛は喩、般若は法なり云云。
今、祕密藏の金剛頂等に依らば、金剛般若波羅蜜多とは亦た是れ人名。三十七尊中に四佛母有り。所謂金剛波羅蜜菩薩・寶波羅蜜菩薩・法波羅蜜菩薩・羯磨波羅蜜菩薩是也。今是の經は則ち初の尊(金剛波羅蜜菩薩)の三摩地法曼荼羅なり。此の四佛母は一切佛を生成する菩薩なり。三世の如來を養育する薩埵なり。故に下文(金剛般若経)に云ふ。「一切諸佛及諸の佛阿耨多羅三藐三菩提法は皆此此經より流出す」と。此の尊に亦た五佛(中央大日如來、東方阿閦佛、西方阿彌陀佛、南方寶生佛、北方不空成就佛)・十六三昧(十六大菩薩)・四攝(金剛界曼荼羅で一切衆生に対する化他の徳を具象化した、金剛鉤菩薩(東)、金剛索菩薩(南)、金剛鎖菩薩(西)、金剛鈴菩薩(北)の四菩薩)・八供養(嬉・鬘・歌・舞、香・華・灯・塗)等、乃至、十佛刹微塵數不可説不可説の大・三・法・羯の四種曼荼羅、四種法身(自性・受用・変化・等流)、四種智印(四智印)等無邊の徳を具せり。故に經の文に
説かく、「一切賢聖は皆な以って無爲法にしてしかも差別あり」と。
解して云く、一切賢聖とは亦た淺深二別あり。若し淺略に約せば、名けて三賢・十聖等(聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢))と名く。若し深祕に約せば賢とは普賢、聖とは大聖なり。
即ち一切如來の遍法界最妙善の理智法身を普賢と名く。三賢之賢及び因位の普賢とには非ず。大聖とは且く三十七尊及び微塵數の諸尊を皆な大聖と號く。聖とは梵に阿哩也(ありや)と曰ふ。若し質直に翻ずれば「無惡」なり。一切の惡因を斷じ一切の惡果を盡し、一切の惡習氣を洗蕩する者は但だ佛世尊歟。
故に義を以て大聖と名く。諸聖者中に大・多・勝の義を具す故に曰く摩訶といふ。
無爲法とは内外諸家の談釋紛紜たり。且く龍猛菩薩の釋義(釋摩訶衍論)に約して之を談けば所謂有爲(現象)とは三自の法(釋摩訶衍論にいう心生滅門でいう自体・自相・自用)。無爲とは一如の法(真理)、法とは衆生心なり。三自門(心生滅門でいう自体・自相・自用)に染淨・清淨・一法界・三自の四種の本覺(染淨一体とする染淨本覺・清らかな本来の本覺・唯一の真理の本覺・それらを合わせた本覺)あり。一如門中
に亦た恒沙の佛徳を具し、圓滿海中に亦た無量の徳を具す。此の如くの諸徳は皆な是れ一衆生の心法なり。是の心法は皆な無明大念之作業を離るるが故に無爲(因縁をはなれたもの)と名く。皆な念相を離れたる覺者其數無量なり。故に差別有りと云ふ。差別は則ち一法に名くるには非ず。高下有るが故に差と曰ひ、彼此不同の故に別と曰ふ。一一の佛徳は恒沙に過ぎ刹塵を超へたりと雖も、根條主伴(根や枝にそれぞれ主・副があるように)、各各に差別あり。然れども猶ほ平等平等にして一なり。故に無爲法と名く。無爲とは則ち一如平等の義なり。
謂く金剛とは又、多家の釋不同なり。且く常途の義を除きて深祕に就きて釋せば、金剛頂經云「普賢法身は一切に遍じて能く世間の自在主となる。無始無終無生滅、性相常住にして等虚空なり。一切衆生の所有心の堅固菩提を薩埵と名く。心不動三摩地に住して精勤決定せるを金剛と名く」と。解して云ふ。不動とは梵に阿遮攞といひ、阿をば無・不・非に名く。即ち諸法本
不生の義なり。本來不生なれば亦た離滅壞・離因・離縁・無生無滅なり。無生無滅なれば無有始終なり。故に上(金剛頂経)に「無始無終にして無生滅、性相常住にして等虚空」といふ。即是ち阿字の義なり。遮字とは字相は變遷なり。字義は則ち無遷變なり(遮字は字の上では變遷であるが本当の意味は無遷變である)。無遷變とは即ち常住不壞なり。即ち法佛の三密なり。上文に云ふ「一切衆生所有の心、堅固菩提を薩埵と名く」と。薩埵をば心勇猛等と名く。是の心智(元の「心」とその作用である「智」)諸動作を離れて彼の虚空に均し。故に無遷變と曰ふ。攞字を相無相に名く。字相は則ち一切諸法相の義なり。字義は即ち一切諸法相不可得の義なり。相と言ふは、生住等の四種の相と我人等の四種の相と及び九界(十界から仏界を除いたもの)差別と、皆な名けて曰く相と。曼荼羅諸尊は皆な如是等の諸相を離る。故に曰く相不可得と。
是の金剛法界諸尊は常に如是の三摩地に住して四無量(慈悲喜捨の四無量心)を具足す。大悲三昧に依って普ねく十一種衆生界(金剛般若経にいう、卵生・胎生・湿生・化生・有色・無色・有想・無想・非有想・非無想・これら総)を縁じて其の苦惱を拔く。經文(金剛般若経)に云ふ所の「佛須菩提に告ぐ。諸菩薩摩訶薩は應に如是に其心を降伏すべし。所有る一切衆生の類、乃至如是の無量無數無邊衆生を滅度せしむとも、實には衆生の滅度を得る者無し」とは、是則ち觀自在菩薩の大悲三昧の用心なり。論には廣心利益等と名く(金剛般若波羅蜜經論に「云何廣心利益。如經諸菩薩生如是心所有一切衆生衆生所攝。乃至所有衆生界衆生所攝故」)。次に大慈三昧に依って一切衆生に樂を與ふ。即ち次の經文に云く「菩薩は事に住せずして布施を行ず云云」と(金剛般若経に「菩薩は法に於いてまさに住するところ無くして布施を行ずべし」とあり)
布施に財・法・無畏等の差別あり。一の檀中に六度(六波羅蜜)及び十度(十波羅蜜)・無量波羅蜜を具して檀の義を釋すべし。三の檀(財施・法施・無畏施)、別なりと雖も樂を得ること是れ一なり。即是れ彌勒の
大慈三昧之用心なり。
三に大喜三昧之力に依って能く嫉妬を離る。嫉妬の心は彼我より生ず。若し彼我を忘ずれば即ち一如を見る。一如を見れば則ち平等を得る。平等を得れば則ち
嫉妬を離る。嫉妬を離るれば即ち一切衆生の善を隨喜す。隨喜すれば則ち一切の法を謗ぜず。謗ぜざれば即ち信受す。信受すれば即ち奉行す。故に次の經文(金剛般若経)に云「頗る衆生有りて是の言を聞くを得て乃至能く信心を生じ此を以って實と為す」と。及び經中に所説の「人我を遺忘し諸相に著せず」等の文義
(多くの経典に在り。例えば大乗本生心地觀經には「化利群生不著諸相」とあり)は皆是れ大喜三昧之用心なり。大喜三昧は則ち曼殊菩薩(文殊菩薩)之三摩地也。此の大般若(大般若波羅蜜多経)一部六百卷十六會二百八十二品は並びに是れ文殊菩薩之三摩地門也。十六會は則ち金剛界十六大菩薩三摩地門也。故に龍猛菩薩の「菩提心論」に云く「内空より乃至無性自性空まで」十六空門は皆な是れ薩寶等の十六大菩薩の三摩地門なり。此の十六大菩薩の三摩地法門は能く一切法教を攝す。應化隨機之説には多名句・淺略之義を説き、若し大度種性(だいたくしゅしょう・機根の優れた者)のためには眞言深祕を説く。故に文に云ふ「大乘を発する者の為に説く」(金剛般若経)とは顯教を擧げ、「最上乘を發する者の為に説く」(金剛般若経)とは眞言宗の者の為に深祕の義を説くことを挙ぐ。金剛頂等の經を最上乘と名くるが故に。
智度論に據らば般若に多種の淺深あり。地前の人の為の所説は淺なり。地上の為の所説は深なり。地上の中に亦た淺深あり。一一の地菩薩に皆な差別あり。初地の菩薩(歓喜地の菩薩)は二地の菩薩(離垢地の菩薩)所知の般若を知らず。乃至九地の菩薩(善慧地の菩薩・仏法を演説する段階の菩薩)は十地の菩薩(法雲地・智慧の雲が雨の様に降り注ぐ段階)の所知を解せず。十地は如來所得の般若を知らず。如是に淺深無量無
邊にして廣略も亦た無量無邊なり。
大日經に據れば、二乘の凡夫は但だ多名句の淺略を解し、諸佛菩薩は一一の名句中の無量の義を解す。今此の題目及び經中の淺深・廣略も亦復た如是なり。
如是に無量契經所説の名句文身中に各各不著不住等の義を説く(多くの経典の中に説く不著不住等の「空」の義は)。皆な是れ文殊大智惠大喜三摩地の義なり。四に大捨三昧に依りて一切離相平等の義を説く。
捨と言ふは梵には「べいきしゃ(梵字)」といふ。即ち平等捨離の義なり。能く内外所有の物を捨て、能く善惡所有の法を忘れ、四相の差別を遣りて、一如平等を證す。是れ則ち人に約せば普賢菩薩の三摩地門也。次の經文(金剛般若経)に「如來は悉く知り悉く見たまふ。乃至法相も無く、非法相も無し。應に法を取るべからず、應に非法を取るべからず。法尚ほ應に捨つべし、何ぞ況んや非法をや」と云ふ。如是等の義は大捨三摩地の義なり。
如是の四行中(慈・悲・喜・捨)に無量の徳を具す。所謂、如來恒沙の萬徳は有爲虚妄の相を離れ、四種言説の境(入楞伽経に「有四種言説分別相。所謂相言説・夢言説・計著過惡言説・無始妄想言説」。)を絶すといふと雖も、然も猶し無爲法中に恒沙の妙徳を具足す。所謂萬徳は則ち曼荼羅無盡莊嚴の藏是也。刹塵も
其の數に喩ふるを得ず。河沙も其の量に比すること能はず。下文所説(金剛般若経)の「一切賢聖は皆な無爲法にして而も差別有るを以てなり」といひ、又「福徳甚多し」といひ、又「一切諸佛及び諸佛の無上正遍知の法は皆な此の經より出ず」といひ、又四果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の人を擧げて河沙の喩を引きて福徳の甚多なることを稱し、八部(天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つ)の供養を談じ、「最上第一希有法を成就す」と讃じ、則ち(この金剛般若波羅蜜多経のあるところには)「諸佛若しは尊重の弟子いますと為す」と説く。如是等の文は並びに是れ無盡莊嚴之義を顯示するなり。謂はく、福徳とは即ち四種法身(密教では自性・受用・変化・等流の四身すべてを法身とみなす、四種法身を解く)の相好也。論(金剛般若経論かとされる)には無爲無漏之身を指す。今四種法身・四種曼荼羅身(諸尊の形像を描いた大曼荼羅、諸尊の持物や印契を描いた三昧耶曼荼羅、諸尊の真言・種子などを示した法曼荼羅、諸尊の威儀・動作を表した羯磨曼荼羅)の相好等を皆な福聚と云ふが如し。
部に於いて名けば即ち寶部尊也。
復次に金剛能斷般若等(達磨笈多(ダルマグプタ)玄奘・義浄等の訳の「金剛能斷般若経」)には通別二意あり。通とは(それぞれに共通の事は)三十七尊及百八尊千尊乃至十佛刹微塵數の諸尊を皆な金剛と名く。并びに不動三摩地に住して常恒不壞の故に。能く無明大念等を離るるが故に。定惠具足の故に、已究竟(すでに究竟に達している)の故に。互に渉入加持の故に。別とは(それぞれの別の解釈は)但し金剛利菩薩の三摩地法門也。顯には文殊師利菩薩と名くる也。
復た別別に釋せば、「金剛」即金剛部なり(金剛とは胎蔵曼荼羅の金剛部を指す)、阿閦佛を主となし微塵數の尊あり。「能斷」は即ち寶部なり。能く有爲有漏之貧困を斷じて、能く無盡莊嚴之庫倉を得るが故に。「般若」は即ち法部なり。大智惠を具足して能く自他を利する故に。「波羅蜜多」は羯磨部なり。大精進の事業能く一切事を究竟するが故に。「經」とは佛部なり。四部(以上の金剛部・宝部・法部・羯磨部)を攝持して不漏不散、常恒不變自在主宰の故に。
如是等の義は皆な唐言に約して之を釋する而已(漢訳表題に従って釈したにすぎない)。
復次に四種法身に約して之を釋せば、「金剛」とは自性法身なり。常恒不變なるが故に。「能斷」とは二種の受用法身(自受用・他受用)なり。能く無明妄想を破して自他の法樂を受くるが故に。「般若」は即ち變化法身なり。大智惠を具する者は能く神通變化を起こす故に。「波羅蜜多」とは等流法身なり。萬行を波羅蜜多と名く。等流身は則ち萬行法門之相なるが故に。「經」は四種に通ず。四種法身に各の法曼荼羅を具するが故に。
復次に四種曼荼羅に約して之を釋せば、「金剛」は即ち三昧耶身なり。此の金剛に獨・三・五等の別あり(独鈷・三鈷・五鈷)。亦た寶・蓮等を通じて金剛と名ずく。各の堅・不壞の義を具す故に。「能斷般若」は亦た三昧耶身なり。文殊の三昧耶身に二種あり。一に利劍、即ち能斷の義を表はす。二に梵夾、即ち智惠の義を表す。「波羅蜜」も亦た是れ三昧耶身なり。萬行の法門身に各の三昧耶身を具す。各の標幟を持して波羅蜜形に住するが故に。波羅蜜形とは所謂入定の相なり
。「經」とは亦た是れ三昧耶身なり。五色の修多羅(スートラ)を亦た經と名くが故に。大曼荼羅身とは如上所説の四種法身等皆な是也。如是の題目は皆な悉く彼の佛の密號・名字なるが故に。法曼荼羅身とは一一の名は則ち法なるが故に。羯磨身とは如是の諸
尊各の事業威儀を具するが故に。
復た次に求上門に約して釋せば、「金剛」とは能行の者を擧ぐ。一の吽字を以て三密を加持せば即ち本尊に同ず。是を金剛身と為す。一切の魔怨は破壞すること能はざるが故に。「般若波羅蜜多」とは所觀の法(観ぜられる対象の法)を擧ぐ。能く此の不住不著三摩地に住せば、能く四魔の境を超て一如の理を早證するが故に。「能斷」とは得益を明かす。能く此の三昧を行ずるの人は五障の雲を早搴し三重の妄執を超て、五智を成就し三部(佛・蓮・金)を獲得するが故に。
復た次に三寶に約して釋せば、「金剛」は佛寶なり。如來身は金剛に同なるが故に。「般若」は則ち法寶なり。「波羅蜜」は則ち僧寶なり。
復た次に三大に約して釋せば、「金剛」は體なり。不壞法身を金剛と名くるが故に。「般若」は相なり。智惠の身は即ち相好根身なるが故なり(三十二相・八十種好のよって荘厳されているから)。「能斷波羅
蜜」は即ち用なり。自他の無明を斷じて彼岸に到るが故なり。
復た次に殺三摩娑の釋(六離合釈)に約して之を釋せば、「金剛」は則ち般若なれば持業に名を得。「金剛人」が般若なれば即ち依主釋なり(金剛のように堅固な人が般若であれば格限定複合語である依主釋の関係)。金剛人必ず智惠を有すれば即ち有財に名を樹つ(金剛の人が必ず智惠を有すれば、「〜を持つ」「〜を有する」の意味をあらわす用法の有財釈)。「金剛」は是れ寶物之名なり。取りて以って喩と為す。「般若」は是れ法也。法と喩と別體なれば則ち相違に名を立つ。
金剛は是れ佛の密號なり。般若は是れ佛之の智慧なり。佛身と佛心と避遠することを得ずといえば即ち隣近に名を得る(仏身と仏心を離せないとなれば隣近釈)。帶數は闕けて無し(帶數釈はない)。
復た次に三身に約して之を釋せば、「金剛」は即ち法身なり。自性法身は堅實不變にして金剛寶の如くなるが故に。「般若」は即ち應身なり。四種智身は能く眞俗に應ずるが故に。「波羅蜜」は則ち化身なり。化身の佛は能く六度等を説いて衆生を利益するが故に。
復次に三點に約して之を釋せば(法身・般若・解脱の三徳を梵字イ字の三点に喩える)「金剛」は法身と名け、「般若」は即ち智慧之點なり(梵字イ字の上に付ける点、空点)。「波羅蜜」は即ち解脱點を表はす(梵字イ字の横に二つ付ける点、涅槃点)。三有を過ぎ四魔を超て菩提の岸に昇り、圓寂の山に登るが故に。
復た次に理智に約して之を釋せば、「金剛」は即ち理なり。堅實の故に、不壞の故に、常恒の故に。「般若」は即ち智なり。能く照すが故に、能く決するが故に、能く了するが故に。「波羅蜜」は二種に通ず。
復た次に止觀に約して之を釋せば、「金剛」は則ち奢摩他(止)なり。動作を離れたるが故に。「般若」は則ち毘鉢舍那(観)なり。智慧の眼を以て能く諸法を觀ずるが故に。下の四字(波羅蜜多)は亦た二(止・観双方)に通ず。
復た次に「金剛」は則ち定なり。「般若」は即ち慧なり。下(「波羅蜜多」)も亦た准知せよ。
復た次に四徳に約して之を釋せば、「金剛」は常徳を表す。四相を離れたるが故に。「能斷」は樂徳を表す。諸苦惱絶つが故に。「鉢羅孃」(prajñā・プラジュニャ・般若)は則ち我なり(真実の自我)。不著自在の故に。「波羅蜜」は則ち淨なり。出煩惱濁穢遊
涅槃凉臺故
復た次に教・理・行・果に約して之をせば、「金剛」は理法なり。眞如無爲は堅實無壞なること金剛のごとくなるが故に。「能斷」は行法(実践)なり。相應行に因って諸戲論を絶つが故に。「般若」は是れ教法なり。
如是の諸法門の義は悉く斯の題名之中に含めり。若し一一に解釋せば歴劫にも盡し難し。又た一一の梵の名字に就いて釋せば亦た無量無邊の義を具す。繁を恐れて且く休む。
復た次に六相に約して之を釋せば、謂く「金剛等の四名」(「金剛」「能断」「般若」「波羅蜜」のこと)一會の經名を呼べば總相なり(総対的姿)。十三字(梵字でば・ざら・せい・じ・きゃ・はら・じにゃ・は・ら・み・た・そ・たらん)の差別は是れ別相なり(個別相)。諸字共に一縁起を成ずるは是れ同相。諸字各各不同なるは是れは是れ異相なり。諸字合會して經名あるは是れ成相。諸字各の自位に住するは是れ壞相(六相とはすべての存在がそなえているという6種の姿のことで,総相,別相,同相,異相,成相 ,壊相 をいう。華厳宗ではすべての存在がこれらをそなえ,部分的にも全体的にも完全に調和し合っている (六相円融) という)
復た次に四悉檀(仏が人々を教え導く四種の方法。世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)、対治悉檀(煩悩ぼんのうを打ち砕く)、第一義悉檀(真理に直接導こうとする)の四つ)に約して釋せば、此四名・十三字、一會の名を得ることは則ち世界の名也(世界悉檀(人々の心に合わせて説く)となる)。若し一一に之を離るれば即ち名相なし。是を第一義と為す(「第一義悉檀」(真理に直接導こうとする)とする)。佛、妙生等の為に、斯の三摩地の名を説くことは即ち人に名を得(「各々為人悉檀」(各人の宗教的能力を考えて説く))。此の金剛三摩地は能く我人等の分別の煩惱を斷じ、無爲無相の眞如を得しむるは即ち「對治悉檀」なり。
(金剛般若經開題終)
(京都国立博物館に大師筆の「金剛般若波羅蜜多経」(残巻)が国宝として残っています。
大師は遣唐使・藤原葛野麻呂が無事渡唐の御礼に『金剛般若経』187巻の書写をしたので大師がその供養をされたその際の願文を執筆されています。「・・弟子、去んじ延暦二十三年に天命を大唐にふくんで遠く鯨波を渉る。風波天に沃いで人力何の計かあらん。自ら思く、冥護(神仏の護り)によらずんばいずくんぞ皇華んも節を写し奉らんと。鐘谷感応して使乎の羨(遣唐大使のねがい)を果たすことを得たり。」大師も同じ船に乗っておられたのでこの思いは同じであったでしょう。『金剛般若経』の霊験の有難さは身を以てお感じになったと思われます。)
「今斯の蘇多覽を釋すに略して二趣あり。一には顯略、二には深祕なり。
顯略趣とは、多名句を以て一義理を詮ずる是也。深祕
とは、一一名句中に無邊の義理を含する是也。
初門に就きて又二あり。所謂、唐梵二國の説是れなり。梵淺略とは又二あり。初は題目について釋し、次は經文について釋す。
題額の淺略とは謂く、バザラセイジキャハラジニャハラミタソタラン
の十三字は四名を詮す。筏日羅の二字は金剛と翻じ、セイジキャの三字は能斷と名け、ハラジニャの二字は智惠と名け、ハラミタの四字は已究竟と呼び、ソタランは貫線と號く。即ち此の四名を合束し一會の經目と為す。所謂佛名稱城戰勝施樹給孤買園に在して、千餘の除勤勇(比丘のこと・仏道に精進する者)・無量大心衆との為にに説きたまふところの三摩地法是也。次に唐の淺略の題名とは、所謂金剛般若波
羅蜜經なり。金剛は即り堅實之名。般若は智惠之稱。
波羅蜜は到彼岸と翻ず。經は曰く不改の軌範なり。
此の意に就きて又六種の翻傳あり。第一に鳩摩羅什三藏の所譯は舍衞國(『大智度論』では、釈迦が舎衛城に25年滞在し、バーセナディ王やスダッタ長者など、多くの民衆を教化したといわれる所)と名く。第二に菩提留支三藏の譯には婆伽婆(バカバ・世尊)と名く。第三に眞諦三藏の譯には祇陀樹林(舍衞國にあった祇園精舎)と名く。第四には達磨笈多(だるまぐぷた・「金剛能断般若波羅蜜経」を訳す)の譯には金剛断割と名く。第五に玄奘三藏譯(「能断金剛般若波羅蜜経」には室羅筏(しらばつ・コーサラ国の重要都市。大唐西域記に「室羅筏底國は‥僧徒は少なく正量部を学ぶ」としている。)と名く。第六の義淨三藏譯(「仏説能断金剛般若波羅蜜経」)には名稱城と號す。六經別なりと雖ども同じく多名句に訳して「不住」等の義を釋す。此の六經について題目は各の不同なり。諸經の題目を釈するに古徳皆「人・法・喩の名を以てす」といふ。
今此の經も亦た然なり。金剛は喩、般若は法なり云云。
今、祕密藏の金剛頂等に依らば、金剛般若波羅蜜多とは亦た是れ人名。三十七尊中に四佛母有り。所謂金剛波羅蜜菩薩・寶波羅蜜菩薩・法波羅蜜菩薩・羯磨波羅蜜菩薩是也。今是の經は則ち初の尊(金剛波羅蜜菩薩)の三摩地法曼荼羅なり。此の四佛母は一切佛を生成する菩薩なり。三世の如來を養育する薩埵なり。故に下文(金剛般若経)に云ふ。「一切諸佛及諸の佛阿耨多羅三藐三菩提法は皆此此經より流出す」と。此の尊に亦た五佛(中央大日如來、東方阿閦佛、西方阿彌陀佛、南方寶生佛、北方不空成就佛)・十六三昧(十六大菩薩)・四攝(金剛界曼荼羅で一切衆生に対する化他の徳を具象化した、金剛鉤菩薩(東)、金剛索菩薩(南)、金剛鎖菩薩(西)、金剛鈴菩薩(北)の四菩薩)・八供養(嬉・鬘・歌・舞、香・華・灯・塗)等、乃至、十佛刹微塵數不可説不可説の大・三・法・羯の四種曼荼羅、四種法身(自性・受用・変化・等流)、四種智印(四智印)等無邊の徳を具せり。故に經の文に
説かく、「一切賢聖は皆な以って無爲法にしてしかも差別あり」と。
解して云く、一切賢聖とは亦た淺深二別あり。若し淺略に約せば、名けて三賢・十聖等(聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢))と名く。若し深祕に約せば賢とは普賢、聖とは大聖なり。
即ち一切如來の遍法界最妙善の理智法身を普賢と名く。三賢之賢及び因位の普賢とには非ず。大聖とは且く三十七尊及び微塵數の諸尊を皆な大聖と號く。聖とは梵に阿哩也(ありや)と曰ふ。若し質直に翻ずれば「無惡」なり。一切の惡因を斷じ一切の惡果を盡し、一切の惡習氣を洗蕩する者は但だ佛世尊歟。
故に義を以て大聖と名く。諸聖者中に大・多・勝の義を具す故に曰く摩訶といふ。
無爲法とは内外諸家の談釋紛紜たり。且く龍猛菩薩の釋義(釋摩訶衍論)に約して之を談けば所謂有爲(現象)とは三自の法(釋摩訶衍論にいう心生滅門でいう自体・自相・自用)。無爲とは一如の法(真理)、法とは衆生心なり。三自門(心生滅門でいう自体・自相・自用)に染淨・清淨・一法界・三自の四種の本覺(染淨一体とする染淨本覺・清らかな本来の本覺・唯一の真理の本覺・それらを合わせた本覺)あり。一如門中
に亦た恒沙の佛徳を具し、圓滿海中に亦た無量の徳を具す。此の如くの諸徳は皆な是れ一衆生の心法なり。是の心法は皆な無明大念之作業を離るるが故に無爲(因縁をはなれたもの)と名く。皆な念相を離れたる覺者其數無量なり。故に差別有りと云ふ。差別は則ち一法に名くるには非ず。高下有るが故に差と曰ひ、彼此不同の故に別と曰ふ。一一の佛徳は恒沙に過ぎ刹塵を超へたりと雖も、根條主伴(根や枝にそれぞれ主・副があるように)、各各に差別あり。然れども猶ほ平等平等にして一なり。故に無爲法と名く。無爲とは則ち一如平等の義なり。
謂く金剛とは又、多家の釋不同なり。且く常途の義を除きて深祕に就きて釋せば、金剛頂經云「普賢法身は一切に遍じて能く世間の自在主となる。無始無終無生滅、性相常住にして等虚空なり。一切衆生の所有心の堅固菩提を薩埵と名く。心不動三摩地に住して精勤決定せるを金剛と名く」と。解して云ふ。不動とは梵に阿遮攞といひ、阿をば無・不・非に名く。即ち諸法本
不生の義なり。本來不生なれば亦た離滅壞・離因・離縁・無生無滅なり。無生無滅なれば無有始終なり。故に上(金剛頂経)に「無始無終にして無生滅、性相常住にして等虚空」といふ。即是ち阿字の義なり。遮字とは字相は變遷なり。字義は則ち無遷變なり(遮字は字の上では變遷であるが本当の意味は無遷變である)。無遷變とは即ち常住不壞なり。即ち法佛の三密なり。上文に云ふ「一切衆生所有の心、堅固菩提を薩埵と名く」と。薩埵をば心勇猛等と名く。是の心智(元の「心」とその作用である「智」)諸動作を離れて彼の虚空に均し。故に無遷變と曰ふ。攞字を相無相に名く。字相は則ち一切諸法相の義なり。字義は即ち一切諸法相不可得の義なり。相と言ふは、生住等の四種の相と我人等の四種の相と及び九界(十界から仏界を除いたもの)差別と、皆な名けて曰く相と。曼荼羅諸尊は皆な如是等の諸相を離る。故に曰く相不可得と。
是の金剛法界諸尊は常に如是の三摩地に住して四無量(慈悲喜捨の四無量心)を具足す。大悲三昧に依って普ねく十一種衆生界(金剛般若経にいう、卵生・胎生・湿生・化生・有色・無色・有想・無想・非有想・非無想・これら総)を縁じて其の苦惱を拔く。經文(金剛般若経)に云ふ所の「佛須菩提に告ぐ。諸菩薩摩訶薩は應に如是に其心を降伏すべし。所有る一切衆生の類、乃至如是の無量無數無邊衆生を滅度せしむとも、實には衆生の滅度を得る者無し」とは、是則ち觀自在菩薩の大悲三昧の用心なり。論には廣心利益等と名く(金剛般若波羅蜜經論に「云何廣心利益。如經諸菩薩生如是心所有一切衆生衆生所攝。乃至所有衆生界衆生所攝故」)。次に大慈三昧に依って一切衆生に樂を與ふ。即ち次の經文に云く「菩薩は事に住せずして布施を行ず云云」と(金剛般若経に「菩薩は法に於いてまさに住するところ無くして布施を行ずべし」とあり)
布施に財・法・無畏等の差別あり。一の檀中に六度(六波羅蜜)及び十度(十波羅蜜)・無量波羅蜜を具して檀の義を釋すべし。三の檀(財施・法施・無畏施)、別なりと雖も樂を得ること是れ一なり。即是れ彌勒の
大慈三昧之用心なり。
三に大喜三昧之力に依って能く嫉妬を離る。嫉妬の心は彼我より生ず。若し彼我を忘ずれば即ち一如を見る。一如を見れば則ち平等を得る。平等を得れば則ち
嫉妬を離る。嫉妬を離るれば即ち一切衆生の善を隨喜す。隨喜すれば則ち一切の法を謗ぜず。謗ぜざれば即ち信受す。信受すれば即ち奉行す。故に次の經文(金剛般若経)に云「頗る衆生有りて是の言を聞くを得て乃至能く信心を生じ此を以って實と為す」と。及び經中に所説の「人我を遺忘し諸相に著せず」等の文義
(多くの経典に在り。例えば大乗本生心地觀經には「化利群生不著諸相」とあり)は皆是れ大喜三昧之用心なり。大喜三昧は則ち曼殊菩薩(文殊菩薩)之三摩地也。此の大般若(大般若波羅蜜多経)一部六百卷十六會二百八十二品は並びに是れ文殊菩薩之三摩地門也。十六會は則ち金剛界十六大菩薩三摩地門也。故に龍猛菩薩の「菩提心論」に云く「内空より乃至無性自性空まで」十六空門は皆な是れ薩寶等の十六大菩薩の三摩地門なり。此の十六大菩薩の三摩地法門は能く一切法教を攝す。應化隨機之説には多名句・淺略之義を説き、若し大度種性(だいたくしゅしょう・機根の優れた者)のためには眞言深祕を説く。故に文に云ふ「大乘を発する者の為に説く」(金剛般若経)とは顯教を擧げ、「最上乘を發する者の為に説く」(金剛般若経)とは眞言宗の者の為に深祕の義を説くことを挙ぐ。金剛頂等の經を最上乘と名くるが故に。
智度論に據らば般若に多種の淺深あり。地前の人の為の所説は淺なり。地上の為の所説は深なり。地上の中に亦た淺深あり。一一の地菩薩に皆な差別あり。初地の菩薩(歓喜地の菩薩)は二地の菩薩(離垢地の菩薩)所知の般若を知らず。乃至九地の菩薩(善慧地の菩薩・仏法を演説する段階の菩薩)は十地の菩薩(法雲地・智慧の雲が雨の様に降り注ぐ段階)の所知を解せず。十地は如來所得の般若を知らず。如是に淺深無量無
邊にして廣略も亦た無量無邊なり。
大日經に據れば、二乘の凡夫は但だ多名句の淺略を解し、諸佛菩薩は一一の名句中の無量の義を解す。今此の題目及び經中の淺深・廣略も亦復た如是なり。
如是に無量契經所説の名句文身中に各各不著不住等の義を説く(多くの経典の中に説く不著不住等の「空」の義は)。皆な是れ文殊大智惠大喜三摩地の義なり。四に大捨三昧に依りて一切離相平等の義を説く。
捨と言ふは梵には「べいきしゃ(梵字)」といふ。即ち平等捨離の義なり。能く内外所有の物を捨て、能く善惡所有の法を忘れ、四相の差別を遣りて、一如平等を證す。是れ則ち人に約せば普賢菩薩の三摩地門也。次の經文(金剛般若経)に「如來は悉く知り悉く見たまふ。乃至法相も無く、非法相も無し。應に法を取るべからず、應に非法を取るべからず。法尚ほ應に捨つべし、何ぞ況んや非法をや」と云ふ。如是等の義は大捨三摩地の義なり。
如是の四行中(慈・悲・喜・捨)に無量の徳を具す。所謂、如來恒沙の萬徳は有爲虚妄の相を離れ、四種言説の境(入楞伽経に「有四種言説分別相。所謂相言説・夢言説・計著過惡言説・無始妄想言説」。)を絶すといふと雖も、然も猶し無爲法中に恒沙の妙徳を具足す。所謂萬徳は則ち曼荼羅無盡莊嚴の藏是也。刹塵も
其の數に喩ふるを得ず。河沙も其の量に比すること能はず。下文所説(金剛般若経)の「一切賢聖は皆な無爲法にして而も差別有るを以てなり」といひ、又「福徳甚多し」といひ、又「一切諸佛及び諸佛の無上正遍知の法は皆な此の經より出ず」といひ、又四果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)の人を擧げて河沙の喩を引きて福徳の甚多なることを稱し、八部(天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つ)の供養を談じ、「最上第一希有法を成就す」と讃じ、則ち(この金剛般若波羅蜜多経のあるところには)「諸佛若しは尊重の弟子いますと為す」と説く。如是等の文は並びに是れ無盡莊嚴之義を顯示するなり。謂はく、福徳とは即ち四種法身(密教では自性・受用・変化・等流の四身すべてを法身とみなす、四種法身を解く)の相好也。論(金剛般若経論かとされる)には無爲無漏之身を指す。今四種法身・四種曼荼羅身(諸尊の形像を描いた大曼荼羅、諸尊の持物や印契を描いた三昧耶曼荼羅、諸尊の真言・種子などを示した法曼荼羅、諸尊の威儀・動作を表した羯磨曼荼羅)の相好等を皆な福聚と云ふが如し。
部に於いて名けば即ち寶部尊也。
復次に金剛能斷般若等(達磨笈多(ダルマグプタ)玄奘・義浄等の訳の「金剛能斷般若経」)には通別二意あり。通とは(それぞれに共通の事は)三十七尊及百八尊千尊乃至十佛刹微塵數の諸尊を皆な金剛と名く。并びに不動三摩地に住して常恒不壞の故に。能く無明大念等を離るるが故に。定惠具足の故に、已究竟(すでに究竟に達している)の故に。互に渉入加持の故に。別とは(それぞれの別の解釈は)但し金剛利菩薩の三摩地法門也。顯には文殊師利菩薩と名くる也。
復た別別に釋せば、「金剛」即金剛部なり(金剛とは胎蔵曼荼羅の金剛部を指す)、阿閦佛を主となし微塵數の尊あり。「能斷」は即ち寶部なり。能く有爲有漏之貧困を斷じて、能く無盡莊嚴之庫倉を得るが故に。「般若」は即ち法部なり。大智惠を具足して能く自他を利する故に。「波羅蜜多」は羯磨部なり。大精進の事業能く一切事を究竟するが故に。「經」とは佛部なり。四部(以上の金剛部・宝部・法部・羯磨部)を攝持して不漏不散、常恒不變自在主宰の故に。
如是等の義は皆な唐言に約して之を釋する而已(漢訳表題に従って釈したにすぎない)。
復次に四種法身に約して之を釋せば、「金剛」とは自性法身なり。常恒不變なるが故に。「能斷」とは二種の受用法身(自受用・他受用)なり。能く無明妄想を破して自他の法樂を受くるが故に。「般若」は即ち變化法身なり。大智惠を具する者は能く神通變化を起こす故に。「波羅蜜多」とは等流法身なり。萬行を波羅蜜多と名く。等流身は則ち萬行法門之相なるが故に。「經」は四種に通ず。四種法身に各の法曼荼羅を具するが故に。
復次に四種曼荼羅に約して之を釋せば、「金剛」は即ち三昧耶身なり。此の金剛に獨・三・五等の別あり(独鈷・三鈷・五鈷)。亦た寶・蓮等を通じて金剛と名ずく。各の堅・不壞の義を具す故に。「能斷般若」は亦た三昧耶身なり。文殊の三昧耶身に二種あり。一に利劍、即ち能斷の義を表はす。二に梵夾、即ち智惠の義を表す。「波羅蜜」も亦た是れ三昧耶身なり。萬行の法門身に各の三昧耶身を具す。各の標幟を持して波羅蜜形に住するが故に。波羅蜜形とは所謂入定の相なり
。「經」とは亦た是れ三昧耶身なり。五色の修多羅(スートラ)を亦た經と名くが故に。大曼荼羅身とは如上所説の四種法身等皆な是也。如是の題目は皆な悉く彼の佛の密號・名字なるが故に。法曼荼羅身とは一一の名は則ち法なるが故に。羯磨身とは如是の諸
尊各の事業威儀を具するが故に。
復た次に求上門に約して釋せば、「金剛」とは能行の者を擧ぐ。一の吽字を以て三密を加持せば即ち本尊に同ず。是を金剛身と為す。一切の魔怨は破壞すること能はざるが故に。「般若波羅蜜多」とは所觀の法(観ぜられる対象の法)を擧ぐ。能く此の不住不著三摩地に住せば、能く四魔の境を超て一如の理を早證するが故に。「能斷」とは得益を明かす。能く此の三昧を行ずるの人は五障の雲を早搴し三重の妄執を超て、五智を成就し三部(佛・蓮・金)を獲得するが故に。
復た次に三寶に約して釋せば、「金剛」は佛寶なり。如來身は金剛に同なるが故に。「般若」は則ち法寶なり。「波羅蜜」は則ち僧寶なり。
復た次に三大に約して釋せば、「金剛」は體なり。不壞法身を金剛と名くるが故に。「般若」は相なり。智惠の身は即ち相好根身なるが故なり(三十二相・八十種好のよって荘厳されているから)。「能斷波羅
蜜」は即ち用なり。自他の無明を斷じて彼岸に到るが故なり。
復た次に殺三摩娑の釋(六離合釈)に約して之を釋せば、「金剛」は則ち般若なれば持業に名を得。「金剛人」が般若なれば即ち依主釋なり(金剛のように堅固な人が般若であれば格限定複合語である依主釋の関係)。金剛人必ず智惠を有すれば即ち有財に名を樹つ(金剛の人が必ず智惠を有すれば、「〜を持つ」「〜を有する」の意味をあらわす用法の有財釈)。「金剛」は是れ寶物之名なり。取りて以って喩と為す。「般若」は是れ法也。法と喩と別體なれば則ち相違に名を立つ。
金剛は是れ佛の密號なり。般若は是れ佛之の智慧なり。佛身と佛心と避遠することを得ずといえば即ち隣近に名を得る(仏身と仏心を離せないとなれば隣近釈)。帶數は闕けて無し(帶數釈はない)。
復た次に三身に約して之を釋せば、「金剛」は即ち法身なり。自性法身は堅實不變にして金剛寶の如くなるが故に。「般若」は即ち應身なり。四種智身は能く眞俗に應ずるが故に。「波羅蜜」は則ち化身なり。化身の佛は能く六度等を説いて衆生を利益するが故に。
復次に三點に約して之を釋せば(法身・般若・解脱の三徳を梵字イ字の三点に喩える)「金剛」は法身と名け、「般若」は即ち智慧之點なり(梵字イ字の上に付ける点、空点)。「波羅蜜」は即ち解脱點を表はす(梵字イ字の横に二つ付ける点、涅槃点)。三有を過ぎ四魔を超て菩提の岸に昇り、圓寂の山に登るが故に。
復た次に理智に約して之を釋せば、「金剛」は即ち理なり。堅實の故に、不壞の故に、常恒の故に。「般若」は即ち智なり。能く照すが故に、能く決するが故に、能く了するが故に。「波羅蜜」は二種に通ず。
復た次に止觀に約して之を釋せば、「金剛」は則ち奢摩他(止)なり。動作を離れたるが故に。「般若」は則ち毘鉢舍那(観)なり。智慧の眼を以て能く諸法を觀ずるが故に。下の四字(波羅蜜多)は亦た二(止・観双方)に通ず。
復た次に「金剛」は則ち定なり。「般若」は即ち慧なり。下(「波羅蜜多」)も亦た准知せよ。
復た次に四徳に約して之を釋せば、「金剛」は常徳を表す。四相を離れたるが故に。「能斷」は樂徳を表す。諸苦惱絶つが故に。「鉢羅孃」(prajñā・プラジュニャ・般若)は則ち我なり(真実の自我)。不著自在の故に。「波羅蜜」は則ち淨なり。出煩惱濁穢遊
涅槃凉臺故
復た次に教・理・行・果に約して之をせば、「金剛」は理法なり。眞如無爲は堅實無壞なること金剛のごとくなるが故に。「能斷」は行法(実践)なり。相應行に因って諸戲論を絶つが故に。「般若」は是れ教法なり。
如是の諸法門の義は悉く斯の題名之中に含めり。若し一一に解釋せば歴劫にも盡し難し。又た一一の梵の名字に就いて釋せば亦た無量無邊の義を具す。繁を恐れて且く休む。
復た次に六相に約して之を釋せば、謂く「金剛等の四名」(「金剛」「能断」「般若」「波羅蜜」のこと)一會の經名を呼べば總相なり(総対的姿)。十三字(梵字でば・ざら・せい・じ・きゃ・はら・じにゃ・は・ら・み・た・そ・たらん)の差別は是れ別相なり(個別相)。諸字共に一縁起を成ずるは是れ同相。諸字各各不同なるは是れは是れ異相なり。諸字合會して經名あるは是れ成相。諸字各の自位に住するは是れ壞相(六相とはすべての存在がそなえているという6種の姿のことで,総相,別相,同相,異相,成相 ,壊相 をいう。華厳宗ではすべての存在がこれらをそなえ,部分的にも全体的にも完全に調和し合っている (六相円融) という)
復た次に四悉檀(仏が人々を教え導く四種の方法。世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)、対治悉檀(煩悩ぼんのうを打ち砕く)、第一義悉檀(真理に直接導こうとする)の四つ)に約して釋せば、此四名・十三字、一會の名を得ることは則ち世界の名也(世界悉檀(人々の心に合わせて説く)となる)。若し一一に之を離るれば即ち名相なし。是を第一義と為す(「第一義悉檀」(真理に直接導こうとする)とする)。佛、妙生等の為に、斯の三摩地の名を説くことは即ち人に名を得(「各々為人悉檀」(各人の宗教的能力を考えて説く))。此の金剛三摩地は能く我人等の分別の煩惱を斷じ、無爲無相の眞如を得しむるは即ち「對治悉檀」なり。
(金剛般若經開題終)