第一五課 無駄
「自分がいくら骨を折って行やっても、することなすことみな無駄になる」
苦学をして勉強していた一青年が、こう歎じました。実際彼が骨を折ってなしたことがみな無駄だったように見えました。彼はすっかり懐疑家になり、しばらく呆然ぼんやりとして暮していましたが、反撥心を起して、こう言いました。
「こうなったら、もう自暴やけだ。今度は逆に、無駄なことばかりしてやろう」
青年はそう決心はつきましたものの、さて、その決心に添うような無駄事を探す段になって、はたと行き詰りました。世の中の事は何一つとして必ず何か用途を伴うもので、全く無駄というものはない。ふてて、ごろりと寝ていることさえ、身体の休養になってしまう。
消炭の屑は鍋釜の磨き料になるし、コロップの捨てたのは焼いて女の黛になるし、鑵詰の空鑵は魚釣りの餌入れになるし、玉子の殻はコーヒーのアク取りになるし、南瓜のヘタは彫って印になるし、首のもげた筆の軸は子供の石鹸しゃぼん玉吹きになるし、菜切庖丁の使い減らしたのは下駄の歯削りになるし、ズボンの古いのは、切って傘袋になるし――。青年は家の中を見廻して、あまり無駄なもののないのに圧迫を感じて居堪まれなくなって表へ飛び出しました。
青年はふとラジオ店の前に立ちました。某水産技師の講演放送中でありました。
「みなさん、あの何万粒の数の子の中から孵って鰊になるのは、ほんの二、三匹に過ぎないということを聴いて驚かれるかも知れません。自然は何という無駄をさせるだろうと。しかし、それは人間の頭の考えであります。自然にしたらば、はじめからその何万粒の無駄を承知で、その中のいくらかの鰊の生を世に送るのであります。もし何万粒の無駄がなかったら、そのいくらかの鰊の生もないのであります。
従って自然においては、いくらかの鰊の生のために他の何万粒の犠牲は無駄どころか当然なかるべからざる用意なのであります。故に、自然は、その何万粒のどれにも厚薄のない同等の念を入れて世に送るのであります。それを無駄と考えるのは人間の頭であります。ここに自然の考えと、人間の考えとのスケールの大きさが違うのであります」
もう青年は、これ以上聴く必要はありませんでした。無駄をしまいしまいという考えは却って無駄をすることになるのだ。それはちょうど生きるだけの鰊の数しか数の子の粒を用意しないようなものだ。孵らないにきまっている。その中に無駄のあることを予想してかかる仕事こそ、却ってその無駄を意義あらしめる結果になるのだ。自然が何万粒の数の子を、いくらかの鰊として予算するようなものだ。そう考え付いた青年は、腕組みして、強い息を吐きながら、折りしも点つきかけた町のネオンサインの旋廻を眺めながら言いました。
「僕も、無駄を平気でやれるような人間になろう」
(講元・・比叡山開創以来三人目の千日回峰行二度成満者の酒井雄哉師の本に「ムダなことなどひとつもない」というのがあります。「失業して東京の街をあてもなく毎日歩き回っていた時期があったがその経験が千日回峰行での毎日84キロの行を長いと感じなくさせていた。・・人間が行うことはすべてどこかへつながっていて、人生にムダなことなんてひとつもないんじゃないかな・・」と書いておられました。自分もあれは何だったのか全く意味がなかったのではないかと腹立たしいことを今でも数多く思い出しますがすべてそれらも本当は大変な教訓を示してくれていたんだろうと思うことにしました。)