大阪・茨木市総持寺では4月15日から21日 秘仏本尊(千手観世音様)御開扉 西国御砂踏 があります。また4月18日は山陰流包丁式があります。ここの御本尊は亀の上にお立ちになっているようです。此の由来は、「今昔物語集巻二十九第廿九」に「亀報山陰中納言恩語 」として載っています。
「今昔、延喜の天皇1)の御代に、中納言藤原の山陰と云ふ人有けり。数の子有けるが、中に一人の男子有けり。形ち端正にして、父、此れを愛し養ひけるに、継母有て、父の中納言よりも、此の児を取り分き悲くして養ひければ、中納言、此れを極て喜き事に思て、偏へに継母に打ち預てなむ養せける。 而る間、中納言、太宰の帥に成て、鎮西に下ける。継母を後安き者に思て有る程に、継母、「此の児を、何で失なはむ」と思ふ心深くして、鐘の御崎と云ふ所を過る程に、継母、此の児を抱て、尿を遣る様にて、取りたる様にて、海に落し入れつ。其れを即ちは云はずして、帆を上て走る船の程に、暫許有て、「若君落入り給ひぬ」と云て、継母、叫て、泣き喤(のの)しる。 帥、此れを聞て、海に身も投許泣き迷ふ事限無し。帥の云く、「此れが死たらむ骸也とも求めて、取上て来れ」と云て、若干の眷属を浮船に乗せて追ひ遣る。我が乗たる船をも留めて、「何でか、此れが有り無し聞てこそ行め。聞かざらむ限りは、此に有らむ」と云て留る也けり。眷属ら、終夜浮舟に乗て、海の面を漕ぎ行くと云へども、何にしてかは有らむ。
漸く夜曙離るる時に、海の面・として渡るに、海の面を見遣ば、浪の上に、白らばみたる小さき物見ゆ。「鴎と云ふ鳥なめり」と思て、近く漕ぎ行くに、立たねば、「怪し」と思て、近く漕ぎ寄せて見れば、此の児の、海の上へに打ち・・て居て、手を以て浪を叩て有り。喜び乍ら、漕ぎ寄て見れば、大笠許なる亀の甲の上に、此の児居たり。喜び迷て、抱き取つ。亀は即ち海の底へ入ぬ。帥の御船の許に、迷ひ漕寄せて、「若君御します」と云て、指出たれば、手迷ひして抱くままに、喜び泣きぬる事極じ。
継母も、「奇異」と思ひ乍ら、泣き喜ぶ事限無し。此の継母は、内心を深く隠して、思たる様に持成して有ければ、帥も偏に其れを憑て有ける也。
此くて、船を出て行く間に、帥、終夜肝心砕て寝ざりければ、昼る寄臥て寝入てける夢に、船の喬(そば)に、大なる亀、海より頸を指出て、我に物云はむと思ひたる気色有り。然れば、我れ、船の端に指出たれば、亀也と云へども、人の言はむ如くして云く、「忘させ給ひにけるか。一と年、我れ、河尻にして鵜飼の為に釣り上げられたりしを、買ひ取て、放たしめ給ひし所の亀也。其の後、『何にしてか、此の恩を報じ申さむ』と思ひ、年月を過ぐるに、帥に成り下り給へば、『御送りをだにせむ』と思て、御船に副て行く間に、夜前、鐘の御崎にして、継母の若君を抱て、船の高欄を打越して、取・・す様にして、海に落し入れしかば、其れを甲の上に受取て、『御船に退れじ』と掻き参つる也。今、行く末も、此の継母に打解給ふ事泣かれ」と云て、海に頸を引き入つと見て、夢覚ぬ。
其の後、思出すに、一と年、住吉に参たりしに、大渡と云ふ所にして、鵜飼有て、船に乗て来るを見れば、大なる亀一つ、面を指出て、我れに面を見合せたりしかば、極て糸惜く思えて、衣を脱て、鵜飼に与へて、其の亀を買取て、海に放つ事有りき。今ぞ思ひ出たる。「然は、其の亀也けり」と思ふに、極て憐れ也。継母の、怪く様悪く泣き迷つる、思ひ合はされて、極て悪し。
其の後、児をば乳母を具して、我が船に乗せ移しつ。鎮西に着ても、心に懸りて後めたく思えければ、別の所に児をば住ましめて、常に行つつぞ見ける。継母、其の気色を見て、「心得たる也けり」と思て、何(いか)にも云ふ事無かりけり。
帥、任畢て、京に返り上て、此の児をば法師に成しつ。名をば、如無と付たり。既に失たりし子なれば、「無きが如し」と付たる也けり。山階寺の僧として、後には宇多の院に仕へて、僧都まで成り上てぞ有ける。
祖の中納言、失にければ、継母、子無くして、此の継子の僧都にぞ、養はれて失にける。事に触れて、何に恥かしく思ひ出しけむ。
彼の亀、恩を報ずるにしも非ず、人の命を助け、夢見せなどしけるは、糸只者には非ず。「仏菩薩の化身などにて有けるにや」とぞ思ゆる。
此の山陰の中納言は、摂津の国に総持寺と云ふ寺造たる人也となむ、語り伝へたるとや。
「今昔、延喜の天皇1)の御代に、中納言藤原の山陰と云ふ人有けり。数の子有けるが、中に一人の男子有けり。形ち端正にして、父、此れを愛し養ひけるに、継母有て、父の中納言よりも、此の児を取り分き悲くして養ひければ、中納言、此れを極て喜き事に思て、偏へに継母に打ち預てなむ養せける。 而る間、中納言、太宰の帥に成て、鎮西に下ける。継母を後安き者に思て有る程に、継母、「此の児を、何で失なはむ」と思ふ心深くして、鐘の御崎と云ふ所を過る程に、継母、此の児を抱て、尿を遣る様にて、取りたる様にて、海に落し入れつ。其れを即ちは云はずして、帆を上て走る船の程に、暫許有て、「若君落入り給ひぬ」と云て、継母、叫て、泣き喤(のの)しる。 帥、此れを聞て、海に身も投許泣き迷ふ事限無し。帥の云く、「此れが死たらむ骸也とも求めて、取上て来れ」と云て、若干の眷属を浮船に乗せて追ひ遣る。我が乗たる船をも留めて、「何でか、此れが有り無し聞てこそ行め。聞かざらむ限りは、此に有らむ」と云て留る也けり。眷属ら、終夜浮舟に乗て、海の面を漕ぎ行くと云へども、何にしてかは有らむ。
漸く夜曙離るる時に、海の面・として渡るに、海の面を見遣ば、浪の上に、白らばみたる小さき物見ゆ。「鴎と云ふ鳥なめり」と思て、近く漕ぎ行くに、立たねば、「怪し」と思て、近く漕ぎ寄せて見れば、此の児の、海の上へに打ち・・て居て、手を以て浪を叩て有り。喜び乍ら、漕ぎ寄て見れば、大笠許なる亀の甲の上に、此の児居たり。喜び迷て、抱き取つ。亀は即ち海の底へ入ぬ。帥の御船の許に、迷ひ漕寄せて、「若君御します」と云て、指出たれば、手迷ひして抱くままに、喜び泣きぬる事極じ。
継母も、「奇異」と思ひ乍ら、泣き喜ぶ事限無し。此の継母は、内心を深く隠して、思たる様に持成して有ければ、帥も偏に其れを憑て有ける也。
此くて、船を出て行く間に、帥、終夜肝心砕て寝ざりければ、昼る寄臥て寝入てける夢に、船の喬(そば)に、大なる亀、海より頸を指出て、我に物云はむと思ひたる気色有り。然れば、我れ、船の端に指出たれば、亀也と云へども、人の言はむ如くして云く、「忘させ給ひにけるか。一と年、我れ、河尻にして鵜飼の為に釣り上げられたりしを、買ひ取て、放たしめ給ひし所の亀也。其の後、『何にしてか、此の恩を報じ申さむ』と思ひ、年月を過ぐるに、帥に成り下り給へば、『御送りをだにせむ』と思て、御船に副て行く間に、夜前、鐘の御崎にして、継母の若君を抱て、船の高欄を打越して、取・・す様にして、海に落し入れしかば、其れを甲の上に受取て、『御船に退れじ』と掻き参つる也。今、行く末も、此の継母に打解給ふ事泣かれ」と云て、海に頸を引き入つと見て、夢覚ぬ。
其の後、思出すに、一と年、住吉に参たりしに、大渡と云ふ所にして、鵜飼有て、船に乗て来るを見れば、大なる亀一つ、面を指出て、我れに面を見合せたりしかば、極て糸惜く思えて、衣を脱て、鵜飼に与へて、其の亀を買取て、海に放つ事有りき。今ぞ思ひ出たる。「然は、其の亀也けり」と思ふに、極て憐れ也。継母の、怪く様悪く泣き迷つる、思ひ合はされて、極て悪し。
其の後、児をば乳母を具して、我が船に乗せ移しつ。鎮西に着ても、心に懸りて後めたく思えければ、別の所に児をば住ましめて、常に行つつぞ見ける。継母、其の気色を見て、「心得たる也けり」と思て、何(いか)にも云ふ事無かりけり。
帥、任畢て、京に返り上て、此の児をば法師に成しつ。名をば、如無と付たり。既に失たりし子なれば、「無きが如し」と付たる也けり。山階寺の僧として、後には宇多の院に仕へて、僧都まで成り上てぞ有ける。
祖の中納言、失にければ、継母、子無くして、此の継子の僧都にぞ、養はれて失にける。事に触れて、何に恥かしく思ひ出しけむ。
彼の亀、恩を報ずるにしも非ず、人の命を助け、夢見せなどしけるは、糸只者には非ず。「仏菩薩の化身などにて有けるにや」とぞ思ゆる。
此の山陰の中納言は、摂津の国に総持寺と云ふ寺造たる人也となむ、語り伝へたるとや。