善財童子の訪問者と教え(華厳経入法界品)55
五十四番目、普門城 文珠師利菩薩
弥勒菩薩に「我彼の内に於いて寿おわりて下生し正覚を成ずるとき、汝及び文殊師利はともに我を見ることを得ん。善男子よ汝いまゆきて文殊師利に詣でて問え・・」といわれ「爾時善財童子は如是に百一十城を經遊して普門城の邊に至り、思惟して住し、十方を觀察して一心に專ら文殊師利を求め、『何ぞ當に會遇して面り慈顏を奉ずべき』と。是の念を作す時、文殊師利遙に右手を伸ばし百一十由旬を過ぎて普門城に至る。善財の頂を摩して是の言を作したはく「善哉善哉。、善男子よ、若し信根を離れなば憂悔に心沒し、功行具らず、精勤を退失して少功徳において便ち以って足れりとなし、一の善根において心に住著を生じ、菩薩行を發起せず、善知識の攝護する所とならず、如來の憶念したまうところとならず、是等は皆な悉く如是の法性・如是の理趣・如是の所行・如是の所住を了知すること能わず・・是時文殊師利は善財童子のために教誨を示し已り、慰諭して其をして歡喜踊躍せしめ、成就阿僧祇の法門を成就することを得、無量大智光明・無量菩薩陀羅尼・無量大願・無量三昧・無量神通・無量智慧を得、皆ことごとく成就ししめ、復た普賢所行の道場の内に入ることを得しめたまえり。既に善財を自ら住する所に置きおわり、文殊師利は還り攝して現ぜず。」この「善財を自ら住する所に置きおわり、文殊師利は還り攝して現ぜず」ということは文殊は既に善財と一体になっているという事でもあります。文殊の「智」で善財を「照」らしていたのですがここにきて一体となったので探玄記でも「智照無二」の位というのです。「華厳五十五所絵巻」にも「智照無二相知識」と書かれています。
最初に書いたように私にとっての文殊菩薩は大変畏れ多いことですがお大師様です。
五十四番目、普門城 文珠師利菩薩
弥勒菩薩に「我彼の内に於いて寿おわりて下生し正覚を成ずるとき、汝及び文殊師利はともに我を見ることを得ん。善男子よ汝いまゆきて文殊師利に詣でて問え・・」といわれ「爾時善財童子は如是に百一十城を經遊して普門城の邊に至り、思惟して住し、十方を觀察して一心に專ら文殊師利を求め、『何ぞ當に會遇して面り慈顏を奉ずべき』と。是の念を作す時、文殊師利遙に右手を伸ばし百一十由旬を過ぎて普門城に至る。善財の頂を摩して是の言を作したはく「善哉善哉。、善男子よ、若し信根を離れなば憂悔に心沒し、功行具らず、精勤を退失して少功徳において便ち以って足れりとなし、一の善根において心に住著を生じ、菩薩行を發起せず、善知識の攝護する所とならず、如來の憶念したまうところとならず、是等は皆な悉く如是の法性・如是の理趣・如是の所行・如是の所住を了知すること能わず・・是時文殊師利は善財童子のために教誨を示し已り、慰諭して其をして歡喜踊躍せしめ、成就阿僧祇の法門を成就することを得、無量大智光明・無量菩薩陀羅尼・無量大願・無量三昧・無量神通・無量智慧を得、皆ことごとく成就ししめ、復た普賢所行の道場の内に入ることを得しめたまえり。既に善財を自ら住する所に置きおわり、文殊師利は還り攝して現ぜず。」この「善財を自ら住する所に置きおわり、文殊師利は還り攝して現ぜず」ということは文殊は既に善財と一体になっているという事でもあります。文殊の「智」で善財を「照」らしていたのですがここにきて一体となったので探玄記でも「智照無二」の位というのです。「華厳五十五所絵巻」にも「智照無二相知識」と書かれています。
最初に書いたように私にとっての文殊菩薩は大変畏れ多いことですがお大師様です。