福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

仏説観普賢菩薩行法経

2018-04-12 | 諸経



仏説観普賢菩薩行法経

 是の如く我聞く。一時、仏、毘舎離国・大林精舎・重閣講堂に在して、諸の比丘に告げたまわく、
 「却って後三月あって我当に般涅槃すべし。」
尊者阿難、即ち座より起って衣服を整え、手を叉え合掌して、仏を遶ること三匝して、仏の為に礼を作し、胡跪合掌して、諦かに如来を観たてまつりて目暫くも捨てず。長老摩訶迦葉・弥勒菩薩摩訶薩も亦座より起って、合掌作禮して尊顔を瞻仰したてまつる。
 時に三大士、異口同音に仏に白して言さく、「世尊、如来の滅後に云何してか衆生、菩薩の心を起し、大乗方等経典を修行し、正念に一実の境界を思惟せん。云何してか無上菩提の心を失ざらん。云何してか復当に煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得んや、父母所生の清浄の常の眼、五欲を断ぜずして而も能く諸の障外の事を見ることを得べきや」。
 仏、阿難に告げたまわく、「諦かに聴け、諦かに聴け、善く之を思念せよ。如来昔耆闍崛山及び余の住処に於て、已に広く一実の道を分別せしかども、今此の処に於て、未来世の諸の衆生等の大乗無上の法を行ぜんと欲せん者、普賢の行を学し普賢の行を行ぜんと欲せん者の為に、我今当に其の所念の法を説くべし。若しは普賢を見及び見ざる者の罪数を除却せんこと、今汝等が為に当に広く分別すべし。阿難、普賢菩薩は乃ち東方の浄妙国土に生ぜり。其の国土の相は雑華経の中に已に広く分別せり。我今此の経に於て略して解説せん。
 阿難、若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・八部・一切衆生の大乗を誦せん者、大乗を修せん者、大乗の意を発せん者、普賢菩薩の色身を見んと楽ん者、多宝仏の塔を見たてまつらんと楽ん者、釈迦牟尼仏及び分身の諸仏を見たてまつらんと楽ん者、六根清浄を得んと楽ん者は当に是の観を学ぶべし。此の観の功徳は諸の障碍を除いて上妙の色を見る。三昧に入らざれども但誦持する故に、心を専らにして修習し、心心相次いで大乗を離れざること、
一日より三七日に至れば普賢を見ることを得。
重き障ある者は、七七日の後然して後に見ることを得、
復重きことある者は一生に見ることを得、復重きことある者は二生に見ることを得、
復重きことある者は三生に見ることを得。
是の如く種々に業報不同なり、是の故に異説す。普賢菩薩は身量無辺・音声無辺・色像無辺なり。此の国に来らんと欲して自在神通に入り、身を促めて小ならしむ。閻浮提の人は三障重きが故に、智慧力を以て化して白象に乗れり。其の象に六牙あり、七支地を跓えたり。其の七支の下に七蓮華を生ぜり。其の象の色鮮白なり、百の中に上れたる者なり。頗梨雪山も比とすることを得ず。象の身の長さ四百五十由旬、高さ四百由旬。六牙の端に於て六つの浴池あり。一一の浴池の中に十四の蓮華を生ぜり、池と正等なり。其の華開敷せること天の樹王の如し。一一の華の上に一りの玉女あり。顔色紅の如くにして、暉天女に過ぎたるあり。手の中に自然に五つの箜篌を化せり。一一の箜篌に五百の楽器あり、以て眷属とせり。五百の鳥あり、鳧・雁・鴛鴦、皆衆宝の色にして、華葉の間に生ぜり。象の鼻に華あり、其の茎譬えば赤真珠の色の如し。其の華金色にして含んで未だ敷けず。是の事を見已って復更に懺悔し、至心に諦観して大乗を思惟すること心に休廃せざれば、華を見るに即ち敷金色に金光あり。其の蓮華臺は是れ甄叔迦宝(けんしゅくがほう)・妙梵摩尼を以て華臺とし、金剛宝を以て華鬚とせり。化仏有せるを見るに蓮華臺に坐したまえり。衆多の菩薩蓮華鬚に坐せり。化仏の眉間より亦金色の光を出して象に鼻の中に入る。紅蓮華の色にして象の鼻の中より出でて象の眼の中に入り、象の眼の中より出でて象の耳の中に入り、象の耳より出でて象の頂上を照らして化して金臺と作る。象の頭の上に当って三化人あり、一人は金輪を捉り、一人は摩尼珠を持ち、一人は金剛杵を把れり。杵を挙げて象に擬するに象即ち能く行歩す。脚地を履まず、虚を躡んで遊ぶ。地を離ること七尺、地に印文あり。印文の中に於て千輻轂 輞皆悉く具足せり。一一の輞間に一の大蓮華を生ず。此の蓮華の上に一の化象を生ぜり。亦七支あり、大象に随って行く。足を挙げ足を下すに七千の象を生ず。以て眷属となして大象に随従せり。象の鼻紅蓮華の色なる、上に化仏有して眉間の光を放ちたもう。其の光金色にして前の如く象の鼻の中に入り、象の鼻の中より出でて象の眼の中に入り、象の眼より出でて還って象の耳に入り、象の耳より出でて象の頂上に至る。漸漸に上り象の背に至り、化して金鞍と成って七宝校具せり。鞍の四面に於て七宝の柱あり、衆宝校飾して以て宝臺を成せり。臺の中に一の七宝の蓮華鬚あり。其の蓮華鬚は百宝をもって共に成ぜり。其の蓮華臺は是れ大摩尼なり。
 一人の菩薩あり、結跏趺坐せり、名を普賢という。身白玉の色にして五十種の光あり。光に五十種の色あり、以て頂光と為す。身の諸の毛孔より金光を流出す。其の金光の端に無量の化仏まします。諸の化菩薩を以て眷属と為せり。
 安詳として徐くに歩み、大なる宝蓮華を雨らして行者の前に至らん。其の象口を開くに、象の牙の上に於て、諸池の玉女鼓楽絃歌す。其の声微妙にして大乗一実の道を讃歎す。
 行者見已って歓喜し敬礼して、復更に甚深の経典を読誦し、遍く十方無量の諸仏を礼し、多宝仏塔及び釈迦牟尼仏を礼したてまつり竝に普賢・諸の大菩薩を礼して、是の誓願を発す。
 「若し我宿福あらば応に普賢を見たてまつるべし。願わくは尊者遍普、我に色身を示したもうべしと」。
 是の願を作し已って、昼夜六時に十方の仏を礼し懺悔の法を行じ、大乗経を読み大乗経を誦し、大乗の義を思い大乗の事を念じ、大乗を持つ者を恭敬し供養し、一切の人を視ること猶お仏の想の如くし、諸の衆生に於て父母の想の如くせよ。
 是の念を作し已りなば、普賢菩薩即ち眉間より大人相白毫の光明を放ん。此の光現ずる時に、普賢菩薩身相端厳にして紫金山の如く、端正微妙にして三十二相皆悉く備えて有らん。身の諸の毛孔より大光明を放ち、其の大象を照らして金色とならしめん。一切の化象も亦金色となり、諸の化菩薩も亦金色と作らん。其の金色の光東方無量の世界を照らすに、皆同じく金色とならん。南西北方四維上下も亦復是の如し。
 爾の時に十方面、一一の方に於て一人の菩薩の六牙の白象王に乗れるあり。亦普賢の如く等しくして異ることあることなけん。是の如く十方無量無辺の中に満てる化象も、普賢菩薩の神通力の故に、持経者をして皆悉く見ることを得せしめん。
 是の時に行者、諸の菩薩を見て身心歓喜して、其の為に礼を作て白して言さく、
 「大慈大悲者、我を愍念したもうが故に我が為に法を説きたまえ」と。
 是の語を説く時に、諸の菩薩等異口同音に各清浄の大乗経法を説いて、諸の偈頌を作って行者を讃歎すべし。是れを始めて普賢菩薩を観ずる最初の境界と名く。
 爾の時に行者是の事を見已って、心に大乗を念じて昼夜に捨てざれば、睡眠の中に於て、夢に普賢其の為に法を説くと見ん。覚の如くにして異ることなく、其の心を安慰して是の言を作さん、「汝が誦持する所、是の句を忘失し是の偈を忘失せり」と。
 爾の時に行者、普賢の深法を説くことを聞いて其の義趣を解し、憶持して忘れじ。日日に是の如くして其の心漸く利ならん。普賢菩薩其れをして十方の諸仏を憶念せしめん。普賢の教に随って正心・正憶にして、漸く心眼を以て東方の仏の身黄金の色にして端厳微妙なるを見たてまつらん。一仏を見たてまつり已って、復一仏を見たてまつらん。是の如く漸漸に遍く東方の一切の諸仏を見たてまつり、心想利なるが故に、遍く十方の一切の諸仏を見たてまつらん。諸仏を見たてまつり已って、心に歓喜を生じて、是の言を作さく、
 「大乗に因るが故に大士を見ることを得、大士の力に因るが故に諸仏を見たてまつることを得たり。諸仏を見たてまつると雖も、猶お未だ了了ならず。目を閉ずれば則ち見、目を開けば則ち失う」。
 是の語を作し已って、五体を地に投じて遍く十方の仏を礼せん。諸仏を礼し已って、胡跪し合掌して是の言を作せ、「諸仏世尊は十力・無畏十八不共法・大慈・大悲・三念処まします。常に世間に在して色の中の上色なり。我何の罪あって見たてまつることを得ざる」と。
 是の語を説き已って復更に懺悔せよ。懺悔清浄なること已りなば、普賢菩薩復更に現前して行・住・坐・臥に其の側を離れず。乃至夢の中にも常に為に法を説かん。此の人覚め已って、法喜の楽を得ん。是の如くして昼夜三七日を経て、然して後に方に旋陀羅尼を得ん。陀羅尼を得るが故に、諸仏・菩薩の所説の妙法憶持して失わじ。亦常に夢に過去の七仏を見たてまつらんに、唯だ釈迦牟尼仏のみ其れが為に法を説きたまわん。是の諸の世尊、各各に大乗経典を称讃したまわん。爾の時に行者復更に歓喜して、遍く十方の仏を礼せん。十方の仏を礼し已りなば、普賢菩薩其の人の前に住して、教えて宿世の一切の業縁を説いて、黒悪の一切の罪事を発露せしめん。諸の世尊に向いたてまつり、口に自ら発露せよ。
 既に発露し已りなば、尋いで時に即ち諸仏現前三昧を得ん。是の三昧を得已って、東方の阿閦仏(あしゅくぶつ)及び妙喜国を見たてまつること了了分明ならん。是の如く十方各諸仏の上妙の国土を見ること了了分明ならん。既に十方の仏を見たてまつり已って、夢むらく象の頭の上に一りの金剛人あり、金剛の杵を以て遍く六根に擬す。六根に擬し已りなば、普賢菩薩、行者の為に六根清浄懺悔の法を説かん。是の如く懺悔すること、一日より三七日に至らん。諸仏現前三昧の力を以ての故に、普賢菩薩の説法荘厳の故に、耳漸漸に障外の声を聞き、眼漸漸に障外の事を見、鼻漸漸に障外の香を聞ん。広く説くこと妙法華経の如し。是の六根清浄を得已って、身心歓喜して諸の悪想なけむ。心を是の法に純らにして法と相応せむ。復更に百千万億の旋陀羅尼を得、復更に広く百千万憶無量の諸仏を見たてまつらむ。是の諸の世尊各右の手を申べて、行者の頭を摩でて是の言を作したまわん。
 「善哉善哉、大乗を行ずる者、大荘厳の心を発せる者、大乗を念ずる者なり。我等昔日菩提心を発せし時皆亦是の如し。汝慇懃にして失わざれ。我等先世に大乗を行ぜしが故に、今清浄正遍知の身と成れり。汝今亦当に勤修して懈らざるべし。此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり。当に知るべし、是の人は即ち是れ諸仏の所使なり。諸仏世尊の衣に覆われ、諸仏如来の真実の法の子なり。汝大乗を行じて法種を断ざれ。汝今諦かに東方の諸仏を観じたてまつれ」。
 是の語を説きたもう時、行者即ち東方の一切無量の世界を見る。地の平かなること掌の如し。諸の堆阜・岳陵・荊棘なく、瑠璃をもって地とし、黄金をもって側を間てたり。十方世界も亦復是の如し。是の事を見已って即ち宝樹を見ん。宝樹高妙にして五千由旬なり。其の樹常に黄金・白銀を出して七宝荘厳せり。樹下に自然に宝の師子座あり。其の師子座の高さ二千由旬ならん。其の座の上に亦百宝の光明を出さん。是の如く諸樹及び余の宝座、一一の宝座に皆百宝の光明あらん。是の如く諸樹及び余の宝座、一一の宝座に皆自然の五百の白象あらん。象の上に皆普賢菩薩有さん。
 爾の時に行者諸の普賢を礼して、是の言を作せ、「我何の罪あってか但宝地・宝座及び宝樹を見て、諸仏を見たてまつらざる」と。
 是の語を作し已りなば、一一の座の上に一りの世尊ましまさん。端厳微妙にして宝座に坐したまえり。諸仏を見たてまつり已って心大に歓喜して、復更に大乗経典を誦習せん。大乗の力の故に、空中に声あって讃歎して言わく、「善哉善哉、善男子、汝大乗を行ずる功徳の因縁に、能く諸仏を見たてまつる。今諸仏世尊を見たてまつることを得たりと雖も、而も釈迦牟尼仏・分身の諸仏及び多宝仏塔を見たてまつること能わず」。
 空中の声を聞き已って、復勤めて大乗経典を誦習せん。大乗方等経を誦習するを以ての故に、即ち夢中に於て釈迦牟尼仏、諸の大衆と耆闍崛山に在して、法華経を説き一実の義を演べたもうを見ん。教已りなば懺悔し渇仰して見たてまつらんと欲し、合掌胡跪して耆闍崛山に向って是の言を作せ、
 「如来世雄は常に世間に在す。我を愍念したもうが故に我が為に身を現じたまえ」。
 是の語を作し已って耆闍崛山を見るに、七宝荘厳して無数の比丘声聞大衆あり。宝樹行列して宝地平正なり。復妙宝師子の座を敷けり。釈迦牟尼仏眉間の光を放ちたもう。其の光遍く十方世界を照らし、復十方無量の世界を過ぐ。此の光の至る処の十方分身の釈迦牟尼仏一時に雲のごとく集り、広く妙法を説きたもうこと妙法華経の如し。一一の分身の仏身は紫金の色なり。身量無辺にして師子の座に坐したまえり。百億無量の諸大菩薩を以て眷属とせり。一一の菩薩、行、普賢に同じ。此の如く十方無量の諸仏・菩薩の眷属も亦復是の如し。大衆雲集し已って、釈迦牟尼仏を見たてまつれば、挙身の毛孔より金色の光を放ちたもう。一一の光の中に百億の化仏有す。諸の分身の仏眉間の白毫大人相の光を放ちたもう。其の光釈迦牟尼仏の頂に流入す。此の相を見る時、分身の諸仏一切の毛孔より金色の光を出したもう。一一の光の中に復恒河沙微塵数の化仏有す。
 爾の時に普賢菩薩、復眉間の大人相の光を放って行者の心に入れん。既に心に入り已りなば、行者自ら過去無数百千の仏の所にして大乗経典を受持し読誦せしことを憶し、自ら故の身を見ること了了分明ならん。宿明通の如く等しくして異ることあることなけん。豁然として大悟し、旋陀羅尼・百千万億の諸の陀羅尼門を得ん。三昧より起って、面り一切の分身の諸仏衆の宝樹の下に師子の床に坐したまえるを見たてまつらん。復た瑠璃の地の蓮華聚の如く下方の空中より踊出するを見ん。一一の華の間に微塵数の菩薩あって結跏趺坐せん。亦普賢の分身の菩薩彼の衆の中に在って大乗を讃説するを見ん。
 時に諸の菩薩、異口同音に行者をして六根清浄ならしめん。
 或は説言あらん、「汝当に仏を念ずべし」。或は説言あらん、「汝当に法を念ずべし」。或は説言あらん、「汝当に僧を念ずべし」。或は説言あらん、「汝当に戒を念ずべし」。或は説言あらん、「汝当に施を念ずべし」。或は説言あらん、「汝当に天を念ずべし」。此の如き六法は是れ菩提心なり、菩薩を生ずる法なり。汝今応当に諸仏の前に於て、先の罪を発露し至誠に懺悔すべし。
 無量世に於て、眼根の因縁をもって諸色に貧著す。色に著するを以ての故に諸塵に貧愛す。塵を愛するを以ての故に女人の身を受けて、世世に生ずる処に諸色に惑著す。色汝が眼を壊って恩愛の奴となる。故に色汝をして三界を経歴せしむ。此の弊使を為て盲にして見る所なし。今大乗方等経典を誦す。此の経の中に十方の諸仏色身滅せずと説く。汝今見ることを得つ、審実にして爾りや不や。眼根不善汝を傷害すること多し。我が語に随順して、諸仏・釈迦牟尼仏に帰向したてまつり、汝が眼根の所有の罪咎を説け。諸仏・菩薩の慧眼の法水、願わくは以て洗除して、我をして清浄ならしめたまえと。
 是の語を作し已って遍く十方の仏を礼し、釈迦牟尼仏・大乗経典に向いたてまつりて、復是の言を説け。
 我が今懺する所の眼根の重罪、障蔽穢濁にして盲にして見る所無し。願わくは仏大慈をもって哀愍覆護したまえ。普賢菩薩大法船に乗って、普く一切の十方無量の諸の菩薩の伴を渡したもう。唯願わくは哀愍して我が眼根の不善悪業障を悔過する法を聴したまえ。
 是の如く三び説いて五体を地に投じて、大乗を正念して心に忘捨せざれ。是れを眼根の罪を懺悔する法と名く。諸仏の名を称し焼香・散華して、大乗の意を発し懸編・旛・蓋を懸けて、眼の過患を説き罪を懺悔せば、此の人現世に釈迦牟尼仏を見たてまつり、及び分身・無量の諸仏を見たてまつり、阿僧祇劫に悪道に堕ちじ。大乗の力の故に、大乗の願の故に、恒に一切の陀羅尼菩薩と共に眷属と為らん。是の念を作す者是れを正念とす。若し他念する者を名けて邪念とす。是れを眼根初境界の相と名く。
 眼根を浄むること已って、復更に大乗経典を読誦し、昼夜六時に胡跪し懺悔して是の言を作せ、「我今云何ぞ但釈迦牟尼仏・分身の諸仏を見たてまつりて、多宝仏の塔全身の舎利を見たてまつらざる。多宝仏の塔は恒に在して滅したまわず。我濁悪の眼なり、是の故に見たてまつらず」。
 是の語を作し已って、復更に懺悔せよ。
 七日を過ぎ已って、多宝仏の塔地より涌出したまわん。釈迦牟尼仏即ち右の手を以て其の塔の戸を開きたまわん。多宝仏を見たてまつれば普賢色身三昧に入りたまえり。一一の毛孔より恒河沙微塵数の光明を流出したもう。一一の光明に一一に百千万億の化仏います。此の相現ずる時、行者歓喜して讃偈をもって塔を遶らん。七匝を満て已りなば、多宝如来大音声を出して、讃めて言わく、「法の子、汝今真実に能く大乗を行じ、普賢に随順して眼根懺悔す。是の因縁を以て、我汝が所に至って汝が証明と為る」。
 是の語を説き已って、讃めて言わく、「善哉善哉、釈迦牟尼仏、能く大法を説き大法の雨を雨らして、濁悪の諸の衆生等を成就したもう」。
 是の時に行者、多宝仏塔を見已って、復普賢菩薩の所に至って、合掌し敬礼して白して言さく、「大師、我に悔過を教えたまえ」。
 普賢復言わく、「汝多劫の中に於て、耳根の因縁をもって外声に随逐して、妙音を聞く時は心に惑著を生じ、悪声を聞く時は百八種の煩悩の賊害を起す。此の如き悪耳の報悪事を得。恒に悪声を聞いて諸の攀縁を生ず。顛倒して聴くが故に、当に悪道・辺地・邪見の、法を聞かざる処に堕すべし。汝今日に於て大乗の功徳海蔵を誦持す。是の因縁を以ての故に十方の仏を見たてまつる。多宝仏塔は現じて汝が証と為りたもう。汝自ら当に己が過悪を説いて諸罪を懺悔すべし」。
是の時行者、是の語を聞き已って、復更に合掌して五体を地に投じて是の言を作せ、
 「正遍知世尊、現じて我が証と為りたまえ。方等経典は為れ慈悲の主なり。唯願わくは我を観我が所説を聴きたまえ。我多劫より乃至今身まで、耳根の因縁をもって声を聞いて惑著すること、膠の艸に著くが如し。諸の悪声を聞く時は煩悩の毒を起し、処処に惑著して暫くも停まる時なし。此の弊声を出して我が識神を労し、三塗に墜堕せしむ。今始めて覚知して、諸の世尊に向いたてまつりて発露懺悔す」と。
既に懺悔し已って、多宝仏の大光明を放ちたもうを見たてまつらん。其の光金色にして遍く東方及び十方界を照らしたもう。無量の諸仏身真金の色なり。東方の空中に是の唱言を作す、
 此に仏世尊まします、号を善徳という。亦無数の分身の諸仏あり、宝樹下の師子座上に坐して結跏趺坐したまえり。是の諸の世尊の一切皆普賢色身三昧に入りたまえる、皆是の言を作して、讃めて言わく、「善哉善哉、善男子、汝今大乗経典を読誦す。汝が誦する所は是れ仏の境界なり」。
 是の語を説き已りなば、普賢菩薩復更に為に懺悔の法を説かん。
 「汝先世に無量劫の中に於て、香を貧るを以ての故に、分別諸識処処に貧著して、生死に堕落せり。汝今応当に大乗の因を観ずべし。大乗の因とは諸法実相なり」と。
 是の語を聞き已って、五体を地に投じて復更に懺悔せよ。既に懺悔し已って当に是の語を作すべし、
 「南無釈迦牟尼仏・南無多宝仏塔・南無十方釈迦牟尼仏分身諸仏」と。
 是の語を作し已って、遍く十方の仏を礼したてまつれ、南無東方善徳仏及び分身諸仏と。眼に見る所の如くして一一に心をもって礼し、香華をもって供養し、供養すること畢って胡跪し、合掌して、種々の偈を以て諸仏を讃歎したてまつり既に讃歎し已って、十悪業を説いて諸罪を懺悔せよ。既に懺悔し已って是の言を作せ、
 「我先世無量劫の時に於て、香・味・触を貧って衆悪を造作せり。是の因縁を以て、無量世より来恒に地獄・餓鬼・畜生・辺地・邪見の諸の不善の身を受く。此の如き悪業を今日発露し、諸仏正法の王に帰向したてまつりて説罪懺悔す」と。
 既に懺悔し已って身心懈らずして復更に大乗経典を読誦せよ。大乗の力の故に空中に声あって告げて言わく、「法の子、汝今応当に十方の仏に向いたてまつりて大乗の法を讃説し、諸仏の前に於て自ら己が過を説くべし。諸仏如来は是れ汝が慈父なり。汝当に自ら舌根の所作の不善悪業を説くべし。此の舌根は悪業の想に動ぜられて、妄言綺語・悪口両舌・誹謗妄語、邪見の語を讃歎し、無益の語を説く。是の如き衆多の諸の雑悪業、闘遘壊乱し法を非法と説く。是の如き衆罪を今悉く懺悔す」と。
 諸の世雄の前にして是の語を作し已って、五体を地に投じて遍く十方の仏を礼したてまつり、合掌長跪して当に是の語を作すべし、「此の舌の過患無量無辺なり。諸の悪業の刺は舌根より出ず。正法輪を断ずること此の舌より起る。此の如き悪舌は功徳の種を断ず。非義の中に於て多端に強いて説き、邪見を讃歎すること火に薪を益すが如し。猶ほ猛火の衆生を傷害するが如し。毒を飲める者の瘡疣なくして死するが如し。是の如き罪報悪邪不善にして、当に悪道に堕すること百劫千劫なるべし。妄語を以ての故に大地獄に堕す。我今南方の諸仏に帰向したてまつりて、過罪を発露せん」。
 是の念を作す時空中に声あらん。
 「南方に仏います、栴檀徳と名けたてまつる。彼の仏に亦無量の分身います、一切の諸仏皆大乗を説いて罪悪の除滅したもう。此の如き衆罪を、今十方無量の諸仏大悲世尊に向いたてまつりて、黒悪を発露し誠心に懺悔せよ」。
 是の語を説き已りなば、五体を地に投じて復諸仏を礼したてまつれ。
 是の時に諸仏、復光明を放って行者の身を照らして、其の身心をして自然に歓喜せしめ、大慈悲を発し普く一切を念ぜしめん。爾の時に諸仏、広く行者の為に大慈悲及び喜捨の法を説き、亦愛語を教え六和敬を修せしめん。爾の時に行者、此の教勅を聞き已って心大に歓喜して、復更に誦習して終に懈息せざらん。
 空中に復微妙の音声あって、是の如き言を出さん、「汝今応当に身心に懺悔すべし。
 身とは殺・盗・淫、心とは諸の不善を念ずる、十悪業及び五無間を造ること、猶お猿猴の如く亦黐膠の如く、処処に貧著して遍く一切六情根の中に至る。此の六根の業、枝條華葉悉く三界・二十五有・一切の生処に満てり。亦能く無明・老・死・十二の苦事を増長す。八邪・八難中に経ざることなし。汝今応当に是の如き悪不善の業を懺悔すべし」と。
 爾の時に行者、此の語を聞き已って、空中の声に問いたてまつる、「我今何れの処にしてか懺悔の法を行ぜん」と。
 時に空中の声即ち是の語を説かん、「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名けたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名く。常波羅蜜に摂成せられたる処、我波羅蜜に安立せられたる処、浄波羅蜜の有相を滅せる処、楽波羅蜜の身心の相に住せざる処、有無の諸法の相を見ざる処、如寂解脱・乃至般若波羅蜜なり。是の色常住の法なるが故に。是の如く応当に十方の仏を観じたてまつるべし」と。
 時に十方の仏、各右の手を申べて行者の頭を摩でて、是の如き言を作したまわん。
 「善哉善哉、善男子、汝今大乗経を読誦するが故に十方の諸仏懺悔の法を説きたもう。菩薩の所行の結使を断ぜず海に住せしめず。心を観ずるに心なし、顛倒の想より起る。此の如き相の心は妄想より起る。空中の風の依止する処なきが如し。是の如き法相は生ぜず没せず。何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪・福も主なし。一切の法は是の如く住なく壊なし。是の如き懺悔は心を観ずるに心なし。法も法の中に住せず。諸法は解脱なり、滅諦なり、寂静なり。是の如き相をば大懺悔と名け、大荘厳懺悔と名け、無罪相懺悔と名け、破壊心識と名く。此の懺悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住せざること、猶お流水の如し。念念の中に普賢菩薩及び十方の仏を見たてまつること得ん」。
 時に諸の世尊、大悲光明を以て行者の為に無相の法を説きたもう。行者、第一義空を説きたもうを聞きたてまつらん。行者聞き已って心驚怖せず。時に応じて即ち菩薩の正位に入らん。仏、阿難に告げたまわく、「是の如く行ずるをば名けて懺悔とす。此の懺悔とは十方の諸仏・諸大菩薩の所行の懺悔の法なり」。
 仏、阿難に告げたまわく、「仏の滅度の後、仏の諸の弟子若し悪不善業を懺悔することあらば、但当に大乗経典を読誦すべし。此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法印なり、涅槃の海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田、応供の中の最なり。其れ大乗方等経典を誦読することあらば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり」。
 爾の時に世尊、而も偈を説いて言わく、
  「若し眼根の悪あって 業障の眼不浄ならば
  但当に大乗を誦し 第一義を思念すべし
  是れを眼を懺悔して 諸の不善業を尽くすと名く
  耳根は乱声を聞いて 和合の義を壊乱す
  是れに由って狂心を起すこと 猶お痴なる猿猴の如し
  但当に大乗を誦し 法の空無相を観ずべし
  永く一切の悪を尽して 天耳をもって十方を聞かん
  鼻根は諸香に著して 染に随って諸の触を起す
  此の如き狂惑の鼻 染に随って諸塵を生ず
  若し大乗経を誦し 法の如実際を観ぜば
  永く諸の悪業を離れて 後世に復生ぜじ
  舌根は五種の 悪口の不善業を起す
  若し自ら調順せんと欲せば 勤めて慈悲を修し
  法の真寂の義を思うて 諸の分別の想なかるべし
  心根は猿猴の如くにして 暫くも停まる時あることなし
  若し折伏せんと欲せば 当に勤めて大乗を誦し
  仏の大覚身 力無畏の所成を念じたてまつるべし
  身は為れ機関の主 塵の風に随って転ずるが如し
  六賊中に遊戯して 自在に碍なし
  若し此の悪を滅して 永く諸の塵労を離れ
  常に涅槃の城に処し 安楽にして心憺泊ならんと欲せば
  当に大乗経を誦して 諸の菩薩の母を念ずべし
  無量の勝方便は 実相を思うに従って得
  此の如き等の六法を 名けて六情根とす
  一切の業障海は 皆妄想より生ず
  若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え
  衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す
  是の故に 至心に 六情根を懺悔すべし」
 是の偈を説き已って、仏、阿難に告げたまわく、
「汝今是の六根を懺悔し普賢菩薩を観ずる法を持って、普く十方の諸天・世人の為に広く分別して説け。仏の滅度の後、仏の諸の弟子若し方等経典を受持し読誦し解説することあらば、静処の若しは塚間、若しは樹下・阿練若処に於て、方等を読誦し大乗の義を思うべし。念力強きが故に我が身及び多宝仏塔・十方分身の無量の諸仏・普賢菩薩・文殊師利菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩を見たてまつることを得ん。法を恭敬するが故に諸の妙華を持って空中に住立して、行持法の者を讃歎し恭敬せん。但大乗方等経を誦するが故に、諸仏・菩薩昼夜に是の持法の者を供養したまわん」。
 仏、阿難に告げたまわく、「我賢劫の諸の菩薩及び十方の仏と、大乗真実の義を思うに因るが故に、百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却しき。此の勝妙の懺悔の法に因るが故に、今十方に於て各仏となることを得たり。若し疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜんと欲せん者、若し現身に十方の仏及び普賢菩薩を見んと欲せば、当に浄く澡浴して浄潔の衣を著、衆の名香を焼き空閑の処に在るべし。応当に大乗経典を誦読し大乗の義を思うべし」。
 仏、阿難に告げたまわく、「若し衆生あって普賢菩薩を観ぜんと欲せん者は、当に是の観を作すべし。是の観を作す者是れを正観と名く。若し他観する者是れを邪観と名く。仏の滅度の後、仏の諸の弟子、仏の語に随順して懺悔を行ぜん者は、当に知るべし、是の人は普賢の行を行ずるなり。普賢の行を行ぜん者は悪相及び悪業報を見じ。其れ衆生あって、昼夜六時に十方の仏を礼したてまつり、大乗経を誦し、第一義甚深の空法を思わば、一弾指の頃に百万億阿僧祇劫の生死の罪を除却せん。此の行を行ずる者は真に是れ仏子なり、諸仏より生ず。十方の諸仏及び諸の菩薩、其の和上となりたまわん。是れを菩薩戒を具足せる者と名く。羯磨を須いずして自然に成就し、一切人天の供養を受くべし」。
 爾の時に行者若し菩薩戒を具足せんと欲せば、応当に合掌して、空閑の処に在って遍く十方の仏を礼したてまつり、諸罪を懺悔し自ら己が過を説くべし。然して後に静かなる処にして十方の仏に白して、是の言を作せ、「諸仏世尊は常に世に住在したもう。我業障の故に方等を信ずと雖も仏を見たてまつること了かならず。今仏に帰依したてまつる。唯願わくは釈迦牟尼仏正遍知世尊、我が和上と為りたまえ。文殊師利具大悲者、願わくは智慧を以て我に清浄の諸の菩薩の法を授けたまえ。弥勒菩薩勝大慈日、我を憐愍するが故に亦我が菩薩の法を受くることを聴したもうべし。十方の諸仏、現じて我が証と為りたまえ。諸大菩薩各其の名を称して、是の勝大士、衆生覆護し我等を助護したまえ。今日方等経典を受持したてまつる。乃至失命し設い地獄に堕ちて無量の苦を受くるとも、終に諸仏の正法を毀謗せじ。是の因縁・功徳力を以ての故に、今釈迦牟尼仏、我が和上と為りたまえ。文殊師利、我が阿闍梨と為りたまえ。当来の弥勒、願わくは我に法を授けたまえ。十方の諸仏、願わくは我を証知したまえ。大徳の諸の菩薩、願わくは我が伴と為りたまえ。我今大乗経典甚深の妙義に依って仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依す」と、是の如く三たび説け。三宝に帰依したてまつること已って、次に当に自ら誓って六重の法を受くべし。六重の法を受け已って、次に当に勤めて無碍の梵行を修し、曠済の心を発し八重の法を受くべし。此の誓いを立て已って、空閑の処に於て衆の名香を焼き華を散じ、一切の諸仏及び諸の菩薩、大乗方等に供養したてまつりて、是の言を作せ、「我今日に於て菩提心を発しつ。此の功徳を以て普く一切を度せん」。是の語を作し已って、復更に一切の諸仏及び諸の菩薩を頂礼し、方等の義を思え。一日乃至三七日、若しは出家・在家にても、和上を須いず諸師を用いず 白羯磨(白四羯磨びやくしこんま・正式の受戒作法) せざれども、大乗経典を受持し読誦する力の故に、普賢菩薩の助発行の故に、是れ十方の諸仏の正法の眼目なれば、是の法によって自然に五分法身・戒・定・慧・解脱・解脱知見を成就す。諸仏如来は此の法より生じ、大乗経に於て記別を受くることを得たまえり。是の故に智者、若し声聞の三帰及び五戒・八戒・比丘戒・比丘尼戒・沙弥戒・沙弥尼戒・式叉摩尼戒及び諸の威儀を毀破し、愚痴・不善・悪邪心の故に多く諸の戒及び威儀の法を犯さん。若し除滅して過患なからしめ、還って比丘となって沙門の法を具せんと欲せば、当に勤修して方等経典を読み、第一義甚深の空法を思うて、此の空慧をして心と相応せしむべし。当に知るべし、此の人は念念の頃に於て、一切の罪垢永く尽きて余なけん。是れを沙門の法戒を具足し諸の威儀を具すと名く。応に人天一切の供養を受くべし。若し優婆塞、諸の威儀を犯し不善の事を作さん。不善の事を作すとは、所謂仏法の過悪を説き、四衆の所犯の悪事を論説し、偸盗・淫妷にして慙愧あることなきなり。若し懺悔して諸罪を滅せんと欲せば、当に勤めて方等経典を読誦し第一義を思うべし。若し王者・大臣・婆羅門・居士・長者・宰官、是の諸人等貧求して厭くことなく、五逆罪を作り、方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし。若し此の業障を滅除せんと欲せば、慙愧を生じて諸罪を改悔すべし。仏の言わく、「云何なるをか刹利・居士の懺悔の法と名くる。刹利・居士の懺悔の法とは、但当に正心にして三宝を謗せず、出家を障えず、梵行人の為に悪留難を作さざるべし。応当に繋念して六念の法を修すべし。亦当に大乗を持つ者を供給し供養し、必ず礼拝すべし。応当に甚深の経法・第一義空を憶念すべし。是の法を思う者、是れを刹利・居士の第一の懺悔を修すと名く。第二の懺悔とは、父母に孝養し、師長を恭敬する、是れを第二の懺悔の法を修すと名く。
第三の懺悔とは、正法をもって国を治め人民を邪枉せざる、是れを第三の懺悔を修すと名く。第四の懺悔とは、六斉日に於て諸の境内に勅して、力の及ぶ所の処に不殺を行ぜしめ、此の如き法を修する、是れを第四の懺悔を修すと名く。
第五の懺悔とは、但当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名く」。
仏、阿難に告げたまわく、未来世に於て、若し此の如き懺悔の法を修習することあらん時、当に知るべし、此の人は慙愧の服を著、諸仏に護助せられ、久しからずして当に阿耨多羅三藐三菩提を成ずべし。
 是の語を説きたもう時、十千の天子は法眼浄を得、弥勒菩薩等の諸大菩薩及び阿難は、仏の所説を聞きたてまつりて歓喜し奉行しき。観普賢経
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