福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「真言宗義章」第二十九 問答決着章五・六・七・八

2022-02-24 | 諸経

第二十九 問答決着章五

(真言行者の安心)

問。真言行者の安心は凡聖不二の観に住するにあり。因より果に至るまで総じてこの観心をはなれずと。しかるに初心の行者は凡聖不二の理を解せず、証せざるが故に、凡聖隔歴す。究竟の仏果に至りてはじめて凡聖不二の理を証す。何ぞ観心、初後始終に通ずといふべけんや。

答。真言行者初め阿闍梨の開示を蒙りて凡聖不二の名字を聞き、凡聖不二の道理を信ず、未だ全く解せずといえども、この時の信心、凡聖不二の理を縁じて生ずるが故に、分に凡聖不二の理に入るなり。たとへば人の海に入るに初入の者あり、其の源底を尽くす者あり、浅深異なりと雖も共に「海に入る」といふが如し。たとへば人あり。暗室に於いて灯を点ずるに室内の器物悉く分明なり。更に大灯を点ずる時益々分明なり。即ち知りぬ、後灯所破の闇は前灯と合して住するなり。若し前灯に暗なくんば後灯は明かりをますことなるべし。真言行者の観心も亦この如し。初心のときは心外に佛を求め、凡聖隔歴す。しかれども凡聖不二の理を信ずるが故に已に分に凡聖不二の海に入り、凡聖不二の理を照らすなり。三密の行漸く進み究竟の仏果に契証するに至りては、隔歴の執を尽くして凡聖不二の理円満明了なり。海の源を尽くす如くまた後灯のますます明了なるが如し。

 

第二十九 問答決着章六

(真言行者の三種菩提心)

問。龍猛菩薩の菩提心論によるに真言行者は勝義(智慧)・行願(慈悲)・三摩地(願心)の三種の菩提心を発すべしと見られたり。(金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論「諸佛菩薩。昔在因地。發是心已。勝義。行願。三摩地爲戒。乃至成佛。無時暫忘。唯眞言法中。即身成佛故。是故説三摩地於諸教中。闕而不言。一者行願。二者勝義。三者三摩地・・」)しかるに先に真言行者の発菩提心といふは凡聖不二の理を信じて偏に無上菩提を期するにありといへり、これ唯三摩地の菩提心のみにして他の(勝義・行願の)二心を欠く。如何?

答。凡聖不二の理を信じて偏に無上菩提を期する一念心の中に勝義・行願の二心は自らこもれるなり。何となれば先ず行願心といふは又は大悲心とも名つ゛け、一切衆生の生死に流転し種々の無量の苦患を受くるを見て深く悲愍を生じて苦を抜き楽を与へんと欲する心なり。次に勝義心といふは又は捨劣得勝の心とも名つ゛けて凡夫外道、二乗及び顕教諸大乗の法は皆劣にして極に非ざるが故に其の中に於いて発心するをば有上の菩提心と名つ゛けて未だ無上の浄菩提心と名つ゛けず。たとひ発心修行して果を得るといへども是未だ衆生の為に究竟じて苦を抜き楽を与ふること能はず。独り法身所説の真言密教のみ法性の源底を尽くして最尊最勝なるが故に、この法に中において発心するをばまさに初めて無上の菩提心と名つ゛く。一切衆生の為に究竟じて苦を抜き究竟の楽を与ふることただこの法にありと知りて偏に真言密教の中において発心修行して其の果を証せんと願ふ心なり。次に三摩地の菩提心といふは、正しく凡聖不二の理を信じて無上菩提を成ぜんと願ふ心なり。まさに知るべし、大悲心を欲するが故に勝義心を発し、勝義心を発するが故に三摩地心を発す。しかるに後は必ず前を兼ねるがゆえに凡聖不二の理を信じて無上菩提を期するに三摩地の菩提心の中には自ら前の二心を具するなり。偏に真言の妙果を求めて凡夫外道二乗の小果と顕教諸大乗の権果とを求めざる所以は、真言の妙果は法身内証の境界にして諸教の中において最尊無上なるがゆえなり。勝義心を具することを知るべし。又最尊無上の妙果を求むる所以は一切衆生を済度して究竟じて苦を抜き、究竟の楽を与へんがためなり。大悲心を具すること知るべし。この故に真言行者、道俗を論ぜず偏に法身如来の直説たる凡聖不二の理を信じて一向に無上菩提を期すべきなり。

 

第二十九 問答決着章七

(真言の信心とは、佛・法を信じ切る事)

問。信心の相、如何?

答。信心といふは佛を信じ、法を信ずる也。佛は大悲の故に妄語し給はず、法は仏説なるが故に誤なしと念ずる、これを信心といふ。・・大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘にいはく「深信とは梵音には捨攞駄といふ。是れ事により、人によるの信なり。長者の言を聞くに或は常情の表に出たり。但しこの人未だかって欺誑せざる故に即ち諦受して依行するが如し」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘三「深信者。此信。梵音捨攞駄。是依事依人之信。如聞長者之言。或出常情之表。但以是人未嘗欺誑故。即便諦受依行。」)又曰はく「先世に已に曾って善智識に親近するが故に三宝に縁深くして比量籌度すべからざる所なりと雖も即ちよく懸かに信ずるが故に深信といふ。」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘「又先世已曾親近善知識故。於三寶縁深。雖不可比量籌度處。即能懸信。故曰深信。」)と。

 

問。信心不退の相如何?

答。自ら分別して種々の難問を生ずることあらんに自ら消通すること能わず。或は異学他宗の人来たりて種々の難詰を設けて我が信ずる所は実に非ず、亦極に非ずと言ふことあらんに亦自ら消通すること能わず。この如く心動じて疑いを生ず、是を信心退堕の相とす。しかるに凡聖不二の理は法身自証の極説にして諸の戯論を超越せり。何ぞこの難を受くべけんや。我れ未だ無始の間隔を除かず、如来の善巧智を得ざるが故に一一に自他の難問を消通すること能わざれども精進修行する時はこれらの疑難自ずから融会せらるべしとて決定諦信して安住不動なる、これすなわち信心不退の相なり。

問。如何なる人かこの如くの信心を生ずることを得るや?

答。貴賤道俗男女を問わず、ただ宿殖深厚の者はこの法に遇うことを得て能く信心を生ず。宿殖微劣の者はこの法に遇うことを得ず。設ひ遇ふとも信心を生ずること難し。能く信心する者は久しからずして成仏すべし。信心を生ぜざる者は成仏は尚はるかなり。摂真実経に云はく「この秘密の法は得難し、遇ひ難し、設ひ遇ふことを得るも信心を生じ難し。汝ら大衆無量劫に於いて積劫累徳して今この法を得たり。もしこの法に遇はば久しからずして無上菩提を成ずべし」(諸佛境界攝眞實經卷下金剛界外供養品第五「此祕密法難得難遇。設使得遇信心難生。汝等大衆於無量劫。積功累徳今得是法。若遇是法。不久當坐菩提樹下金剛寶座。」)

問。真言の菩提心は凡聖不二の理を信じて無上の仏果を期するにありといふこと既に承りぬ。しかるに凡聖不二の理は深玄微妙なり。吾等愚鈍劣慧にして解すること能わず。解すること能わざるが故に信ずること能わず、然らば吾等が如きものは終に真言の機根には非ざるか?

答。凡聖不二の理は法身内証の境界にして凡夫の情識よく及ぶところにあらざるが故に解してしかる後に信ぜんと思はば智者・学者と雖も終に信ずる時なかるべし。信じて修する時は一文不知の人と雖も漸く解を得て終に悟入することを得べし。大疏一に云はく「釈論にまたいわく仏法の大海は信を能入とす、梵天王の転法輪を請ぜし時に佛、偈を説きて言ふがごとし。我今甘露味門を開かん。若し信を生ずる者あらば歓喜を得ん」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「釋論亦云。佛法大海信爲能入。如梵天王請轉法輪時。佛説偈言。我今開甘露味門。若有生信者得歡喜此偈中。不言施戒多聞忍進禪慧人能得歡喜。獨説信人。佛意如是。我第一甚深法微妙。無量無數不可思議。不動不倚不著無所得法。非一切智人則不能解。故以信力爲初。非由慧等而能初入佛法。」)と。

問。解せざれども信ずといはばこの信、迷信に非ずや?

答。信心の邪正は所信の境による。境が邪なる時は信は邪なり。境正しきときは信も亦正なり。しかるに凡聖不二の理は仏智の所照にして諸法法爾の性徳なり。この理すでに正なるが故にこの理に依正して起こる所の信また正なり。

問。若し解せざれども信ずと云はば説教を聴聞し経論を学習して解を求めること全く無用と言ふべし、如何?

答。若し未発心の者はこれらを因縁として秘密の法門において渇仰の心を生じ遂に阿闍梨の開示を蒙りて発心すること得べし。若し己発心の人はこれらを因縁として信心倍増し観解明了なることを得べし。聴法学問甚だ必要なり。

問。信じて修すれば一文不知の人と雖も悟入すと言へり。学問を無用とするに非ずや?

答。(博学多門の人)阿闍梨の開示を蒙る時、博学多門なるが故に即座に深く信解して頓に悟入するものあり。或は一文不知なれども即座に深く信解して悟入する者あり。或は一文不知なるが故に信解なほ浅く聴法学問の縁を待ちて信解倍増して遂に悟入する者あり。宿善不同にして機根非一なるが故也。なんぞ一概に論ずることを得んや。此の故に一切の人皆、学問を要す言ふべからず。亦一切の人、皆学問を要せずと言ふべからず。多聞の人、信解倍増する事聴法学問の縁による。之を無用とすべけんや。

 

第二十九 問答決着章八

(三密の功徳)

問。三密の中意密一つだにあらば身・語の二密なくとも成仏することを得べし如何?

答。意業観念の一つにて成仏すといふは顕教の意なり、真言密教の義には非ず。総じて顕教は真如を体とする故に定を修して智を起こし智に依りて真如を証するを究竟の仏果とす。真如は無相平等の理なるが故にこの理を証する時、空寂に帰して虚空の如し、三密無尽の荘厳ある事無し。是即ち遮情の分際なり。真言の意は三密平等を諸法の体性とするが故に、三密双修して平等の三密を証する時、三密無尽の万徳を円満して法界曼荼羅を成ず。是即ち表徳の分際なり。高祖大師の御請来目録にいわく、「一心の利刀を翫(もてあそ)ぶは顕教なり。三密の金剛を揖(ふる)うは密蔵なり」と。秘蔵宝鑰にいはく「顕薬塵を払ひ、真言庫を開く」と。この文の意は、彼の顕教において智観の利刀を以て煩悩を断じて真如を証するは唯是れ差別の迷情を断じて無相の空理に入るものにして、未だ自心本具の曼荼羅荘厳を開見せざるがゆえにたとへば宝蔵を開かんとして其の戸口なで行きて戸の塵を払いたるがごとし。真言において三密の金剛を揮って微細難断の爾二の隔執を取り除き諸法本具の性徳を開見して無尽荘厳法界曼荼羅を成ずるはたとへば正しく宝蔵の戸を開きて其中にある七珍万宝を自在に受用するが如し、といふ意なり。この故に意業一つのみにては究竟の成仏の果を得ること能わざることを知るべし。

 

問。究竟の仏果は三密平等なりとも能入の修行においては三密の中に正助の不同あるべし。その故は顕密二教共に開悟を宗とす、しかるに覚悟の開不開は偏に意密観念の力によるべきことゆえ、身語二密は唯是開悟の方便と覚りたる故也。如何?

答。究竟の仏果、三密平等なれば能入の修行も三密双修なるべきこと正理なり。已に三密双修を必要とせば意密を開く時成仏せざるは勿論、語密を開きても身密を開きても成仏せず。三密相応して三密の智見同時に開けて成仏することを得るなり。然らば三密の中いずれが正行となりいずれが助行方便なりといふとも謂ふべからず。摩醯首羅(まけいしゅら、大自在天)の三目の如く、伊字三点の如く(梵字の「伊」は〇が三つ)、鼎の三足の如し。全く勝劣なり。しかるに覚悟の開不開は偏に意密の観念によるといふはなほこれ三密に浅深勝劣を存するものにて顕網の執見なり。真言にては決して許さざる所なり。

 

問。三密相応する時、三密の智見同時に開けて成仏すといふことなほ疑ひなきに非ず。なんとならば三密相応する時、身語二密能く意密を助けて智見を開き断惑証理の功を施すには非ざるべし。若ししからば設ひ三密双修といふとも身語二密は尚ほ開悟の方便といふべし。如何?

答。三密平等なるが故に身語二密にも本より智見を具して断証の功を施すべし。しかるに三密別々なる時は成仏の大智見を生ぜず。三密相応する時はじめて成仏の大智見を生ずる也。

問。三密双修せずんば成仏せずといはば一密二密は功徳無しといふべきや?

答。和讃に「一密怠ることなくば増上縁の力にて三密双修の時至り終には仏果を証すべし」とあり。(真言安心和讃は以下の如し、「帰命頂礼薄伽梵 八葉四重の円壇は一切如来の秘要にて 衆生心地の仏土なり十方三世の諸聖衆は大日普門の別徳を開きて示しし尊なれば密厳国土の外ならず 浄瑠璃界の薬師佛 一宝世界の宝生尊 堪忍娑婆の釈迦如来 極楽世界の阿弥陀仏 普賢薩埵の歓喜国 文殊覚母の清涼山 観音大士の補陀落山 弥勒菩薩の都支多天 其の余の天宮阿修羅界 鬼畜地獄にいたるまで入法界のひとつにて如来大悲の施設なり ただねがわくは大日尊 神変加地の力にて密厳国土の荘厳を はやく我らに見せたまへ 八万四千の煩悩は即ち宝聚と聞くからに四重五逆の罪過も みなこれ功徳と照らすべし即身是佛に住すれば密厳海会現前し法身自楽の説法を常に聞くこそ嬉けれ稽首甚深三密門神力難思の真言王 本来不生の妙義にて金剛宝蔵開くなり無上菩提に登るには自性成就の真言を心にまかせてとなへよと如来は教えをたれたまふ釈尊無量の劫を経て寂後のこの身に至る時 六年苦行したまへど菩提を得ることならざりき爾時化佛のつげを受け鼻端に奄字を観じてぞ明星いずる後夜分に毘盧遮那仏とはなりたまふ真言陀羅尼によらずして佛となる説くならば三世の諸仏の妄語にてこのことわりぞなかるべし南無大師遍照尊(三辺)

真言法のなかにのみ即身成仏するゆえに秘密の規則を説くぞとは龍猛菩薩の仰せなり

 百千万の真言のなかに光明神呪こそこの土の因縁殊勝にて霊験日々に新たなり四重八重十重罪悪心邪見のともがらの狂乱おんあの業報人この世に法門きくこともとなふることもならぬ身の死して三途におちぬればいつをか出離の期とやせん。かかる業報深重の悪趣の衆生を救うには光明真言加地土砂の他力の方便ばかりなり他作自受のことわりはたへてなきとは思へども広長舌にのべたまふ法門いかで偽らん南無大師遍照金剛(三反)

 念仏行の其の徳は夜灯の光に異ならず真言加誦のちからをぞ月日の光と説き給ふ末法澆漓のこのころも剃髪染衣の身の上は三密修行おこたらず利他の大悲を励むべし在家男女のともがらは家業のいとまあるときは夢の憂世を夢としてかならず真言となふべし一密怠ることなくば増上縁の力にて三密具足の時いたり終には佛果にのぼるべし。過去は過去とてうちすぎぬ未来は未来はるかなり現在はげむことなむばいかでか輪廻を離るべき

南無大師遍照金剛(三反)

二佛出世の中間に果報つたなく生るれど甚深秘密の法門に結縁するこそありがたき青龍阿闍梨の教誡に菩提を得るのは易けれど真言秘密にあふことの得がたきなりとぞのべたまふ

かかるとうとき妙法に、あうてむなしく過ぎ果てば、宝の山にいりながら、空しく帰るに異ならず、帰命両部界会尊、本願力を憶念し数多のわれらを摂取して密厳国土に安きたまへ

南無大師遍照金剛(三反))」)

大疏十一にいはく「初観の時は一字を見るに随って三事自然と現るなり」(大毘盧遮那成佛經疏卷第十一悉地出現品第六「心上亦有圓明及字。初觀之時。隨見一字三事自然現也。後時心中圓明上見本尊。本尊圓明上復見自身。如是互相照見無有障礙。名影像成就。此亦是非等引地也。次第二正覺句者。初觀本尊今但觀佛。」)と。覚鑁上人の 「五輪九字秘釈」にいはく「正成仏の時に三密を具す」(五輪九字秘釈「則三大僧祇越一念之a字。無量福智具三密之金剛」)。と。和讃の文はこれらの御釈に依りたるものにて誠に尽理の文なり。この文の意は或はただ真言を唱え或は唯だ印を結び、或は唯だ印真言を結誦するのみなりとも、これらの一密二密に修行が強力の縁となりて、機根純熟し三密双修の時至りて三密平等の果に契ふことを得べしといふなり。必ず初めより三密双修せずは成仏ならぬものならば阿字本不生、凡聖一如の観念などは阿闍梨より授かりたるのみにて誰人にも苦もなく観ずることのできるものならぬ故、学問などしたることなき愚鈍の輩には真言の修行は叶ふべからず、しかるに阿字本不生、凡聖不二の観念などは委しく細かに観念せずとも阿闍梨より聞きたるままを深く信じて唯だ尊きことと思ひ込みて其の上にて印を結びまた真言を誦すれば機根純熟の因縁となりて一歩一歩仏果に近ずき今迄己が智力に叶はざりし凡聖不二の観念も自ずから調いて速やかに成仏するなり。されば意密観念の伴わざる印真言も速疾成仏の因縁となることゆえ其の功、甚だ大なり。又大疏七に「若し但し口に真言を誦するのみにして其の義を思惟せざらんは、ただ世間の義理を成ずべし。豈に金剛の体性を成ずることを得んや」(大毘盧遮那成佛經疏卷第七入漫荼羅具縁品第二之餘「若但口誦眞言而不思惟其義。只可成世間義利。豈得成金剛體性乎。」)と。この文は真言を唱えて真言の字義を観念せずんば只だ世間の義理を成ずれども直に成仏して如来金剛不壊の体性を成就すること能わずと云ふなり。これは三密双修を勧めたる釈文ゆえこの如く仰せらることなれどもこの文を打ち返して意得するときは唯だ真言を唱えるばかりにて義理を観念せざるときは直に成仏すること能わざれども能く世間の義理を成ずることを得べしといふ意になるなり。世間の義理とは災難を払い、病気を除き、寿命を延べ、福徳を招き、家内安全子孫長久、怨敵退散、国家安泰、五穀豊饒、万民快楽等の利益をいふなり。又、慈氏菩薩の儀軌に印の功徳を説いて曰はく「復、次にこの法を若し奉持する者は、凡夫に在りて未だ煩悩を断ぜずと雖も、法力をもっての故に所作の処に随って彼の聖力に等しく、諸の聖賢及び諸の天竜八部神を駆使するに皆、あえて違越せず。法印の不思議なるを以ての故なり」(慈氏菩薩略修愈誐念誦法卷上慈氏菩薩略修愈誐入法界五大觀門品第一 并 序「復次此法若奉持者。雖在凡夫未斷煩惱。以法力故隨所作處。等彼聖力驅使諸賢聖及諸天龍八部一切鬼神。皆不敢違。以法印力不思議故也」)又いはく「若し𡲼嚕左曩(べいろしゃのう)の法印を以て己身を印すれば亦𡲼嚕左曩(べいろしゃのう)の身と成じ、乃至諸の菩薩摩訶薩を生ずべし。諸の天竜八部乃至人非人等の身も印する所にしたがって即ち本身となる。己を印し他を印するに皆本体三昧耶身と成じ、凡愚一切の聖賢天竜八部,諸鬼神及び尾那夜迦(びびなやか)は皆本尊の身と見じ、諸の護法明王等これがために親近して俱に相助けて悉地を成ぜしめ速やかに成就す(慈氏菩薩略修愈誐念誦法卷上慈氏菩薩略修愈誐入法界五大觀門品第一 并 序「若以𡲼嚕左曩法印印於己身。亦成𡲼嚕左曩之身。乃至應生諸菩薩莽賀薩埵。諸天龍八部乃至人非人等之身。隨所印相即成本身。印己印他。皆成本體三昧耶之身。雖凡愚不見。一切聖賢天龍八部諸鬼神及尾那夜迦。皆見本尊眞身。諸護法明王等。爲此親近倶相助成悉地速得成就」)と。この経文によれば一迷未断の凡夫と雖も本尊の印を結べば自身直に本尊の其の身となる。凡夫の目には見えざれども諸仏・菩薩・明王等は之を知見して行者を囲繞し護衛し相助けて悉地を成就せしめ給う。是れ実に印契不思議の力なり。凡そ印真言は何れの印、いずれの真言に限らず総じて皆この如き現当二世広大甚深の利益あることを深く信じて修行すべきことなり。

 

問。深く信じて印を結び真言を唱えるといはば意密観念すでにこの所に具足するに非ずや、なんぞ一密・二密と謂ふべけんや?

答。大疏一にいはく「菩提心とは白浄信心の義なり」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「如説而行。乃至施功不已漸見前相。爾時於寶藏功徳。離疑惑心。堪能發起殊勝加行。故菩提心。即是白淨信心義也。釋論亦云。佛法大海信爲能入。」)と。最初発起の菩提心を信心というなり。その後、修行の時にある信心は是れ菩提心の相続なり。この信心相続の上に阿字不生、凡聖一如の義を観じ、真言の字相・字義を観じ、本尊の相好、浄土の荘厳、入我我入の相、等を観ずるを三密修行の中の意密観念というなり。大疏三にいはく「或は三昧を修するに乃ち女人の像、或は忿怒等の形を観ず、乃至行者この衆縁事相に於いて皆な諦信をもって之を行ずべし」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘「或修三昧乃觀女人之像或忿怒等形。或以水灌頂。或造作火壇。若欲以心識籌量。則加持之迹又不可見。自非具深信者。安得不疑惑耶。又此行者。於此衆縁事相。皆以諦信行之。」)と。故に信心と意密観念とは義おのずから別なることを知るべし。

 

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