華厳経第六章・菩薩明難品は文殊菩薩が他の九人の菩薩たちに次々と我々も常恒疑問に思っている問(なぜ仏の悟りは一なのに人によって受け取り方が違うのか等)を問いかけ、菩薩たちがそれに答える。そして最後に、それらの菩薩たちがそろって文殊菩薩に仏の境地について反問し、文殊菩薩がこれに答えという筋立てです。
大方廣佛華嚴經菩薩明難品第六
爾時文殊師利菩薩、覺首菩薩に問うて言く、「佛子よ、心性は是れ一なるに云何ぞ能く種種の果報を生ずるや。或は善趣に至り、或は惡趣に至る。或は諸根を具し、或は不具なる者あり。或は善處に生じ、或は惡處に生ず。端正・醜陋・苦樂不同なり。業は心を知らず、心は業を知らず。受は報を知らず、報は受を知らず。心は受を知らず、受は心を知らず。因は縁を知らず、縁は因を知らず。智は法を知らず、法は智を知らず」。爾時、覺首菩薩。偈を以て答て曰く、
「 衆生を化せんが為の故に 乃ち能く斯義を問へり。 諸法如實性を我説ん。仁よ、諦聽せよ。
諸法は不自在なり、 實を求むるに不可得なり。是故に一切の法は 二ともに相知らず。
譬へば駛水(しすい・急流)の流は 流れ流れて絶已むこと無けれども二倶に相知らず。 諸法も亦た如是なり。
亦、明燈の焔は 焔焔として暫も停らざれども二倶に相知らず。 諸法も亦た如是なり。
亦、長風起り 鼓拂して動勢生ずるも二倶に相知らず 諸法も亦た如是なり。
亦、深廣の地は 展轉として相依住するも二倶に相知らず、 諸法も亦た如是なり。
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は此れに因て衆苦を轉ずるも而も實に無所轉なり。
法性は無所轉なれども 示現の故に有轉することあり。彼において示現なければ 示現にも所有なし。
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は其の性は悉く空寂なれば 虚妄にして無眞實なり。
觀察して正思惟せば 有の者にも所有無し。
彼の見は顛倒ならず、 法眼清淨なる故に。
虚妄・非虚妄、 若は實、若しは不實も
世間・出世間も 但だ假言説あるのみ。」
爾時文殊師利菩薩、財首菩薩に問うて言く「佛子よ、
一切衆生は衆生にあらざるに、如來は、云何が衆生の時に隨ひ、命に隨ひ、身に隨ひ、行に隨ひ、欲樂に隨ひ、願に隨ひ、意に隨ひ、方便に隨ひ、思惟に隨ひ、籌量に隨ひ、衆生見に隨ひて而も之を教化したまふや。」
爾時、財首菩薩は偈を以て答て曰く「明智心の境界は 常に寂滅行を樂ふ。 我今如實に説ん。 仁者、善く諦聴せよ。分別して内身を觀ずるに 我身は何の所有ぞ、
若し能く如是に觀ぜば、 彼は我の有無達す。
身の一切分を觀るに 無所依にして止住す。
諦に是身を了する者は 身に於て無所著なり。
能く身如實を解り一切法に明達すれば
法は悉く虚妄と知りて 其心は無所染なり。
身命相ひ隨順し 展轉して更に相因るは
猶し旋火輪の如し 前後不可知なり。
智者は能く一切有は無常、諸法は空無我と觀察し、 則ち一切相を離る。
因縁所起の業は 無我なること猶ほ夢の如し
果報の性は寂滅して 前後異相無し。
一切世間法は 唯心を以て主となす。
樂に隨て相を取る者は 皆悉く是れ顛倒なり。
世間の所有る法は 一切悉く虚妄にして
諸法は眞實に二あることなしと解すること能ず。
一切生滅法は 皆悉く縁より起り、
念念に速に歸滅して 始終無異相なり」
爾時文殊師利、寶首菩薩に問うて言く、「佛子よ、一切衆生の四大は悉く非我・非我所なり。云何が衆生は或は苦を受け樂を受け、或は作惡し作善す。或は内端正なるあり或は外端正なるある。或は少しの報を受け
或は多くの報を受く。或は現報あり或は後報あるや。
然も諸法の性は無善無惡なり」。
爾時、寶首菩薩は偈を以て答て言く、
「 所行の諸業に随ひて 果報を受るも亦た然なり。
造者は無所有なり。 諸佛は如是に説きたまふ。
猶し明淨鏡の 其面に随て像現ずるも
内外無所有なるが如し、 業性も亦た如是なり。
亦、田の種子は 各各相ひ知ずして
自然に能く因と作るが如く 業性も亦た如是なり。
亦、大幻師の 彼の四衢道にありて
種種色を示現する如く 業性も亦た如是なり。
匠の木人を造りて 能く種種の聲を出さしむるも
彼には我・非我なきが如く 業性も亦た如是なり。
亦、衆鳥類の 声を出して音不同にして
能く種種の聲を作すが如く 業性も亦た如是なり。
親の因縁會ば 受生も來者無く
諸根各別異なるが如く 業性も亦た如是なり。
大地獄中に 衆生苦惱を受るも
苦惱は無來處なるが如く 業性も亦た如是なり。
亦、轉輪王の勝れた七寶を成就するも
彼、從來する所無がごとく 業性も亦た如是なり。
亦、諸世界に成有り或は敗れる有るも成敗は來去無きが如く、 業性も亦た如是なり。
爾時、文殊師利は徳首菩薩に問うて言く「佛子よ、如來は唯だ一法を覚るのみなるに云何んが乃ち無量の諸法を説き、音聲は無量世界に遍滿し悉く能く無量の衆生を教化し、無量の聲を出し、無量の身を現じ、無量の衆生の心意を了知し、無量の神足自在を示現し、無量無邊世界を示現し、無量の殊勝莊嚴を示現し、無量の種種の境界を示現したまふや。而も法性は分別するに實に不可得なり。」
爾時、徳首菩薩は偈を以て答て曰く、
「佛子よ、乃ち能く 甚深微妙義を問へり
智者は若し此を知らば 常に樂ひて功徳を求ん。
猶ほ地性は一なれども 能く種種の物を持し
一異を分別せざるがごとし 諸佛の法も如是なり。
猶ほ火性は一なれども 能く世間の物を焼き
火性に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大海の水の 注ぐに百の川流を以てするも
其味は別異無記が如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ風性は一なれども一切の物を吹動し、
風性に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ龍の雷震して 普く一切の地に雨ふらすも
雨渧に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大地は一なれども 能く種種の芽を生じ
地性に別異無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ日に雲曀無く 普く能く十方を照らし
光明に異性無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ空中の月の 世間に見ざることなけれども
一切處に至らざる無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大梵王の 普く大千に應現すれども
其身に別異無きが如く 諸佛の法も如是なり。」
爾時、文殊師利は目首菩薩に問て言く、「佛子よ、如來の福田は等一にして無異なるを云何が布施の果報不同にして種種の色、種種の性、種種の家、種種の根、種種の財、種種の奇特、種種の眷屬、種種の自在、種種の功徳、種種の慧有るや。如來は平等にして怨親あること無きに。」
爾時、目首菩薩は偈を以て答て曰く
「 譬ば大地は一なれども 能く種種の芽を生じ
彼において怨親無きが如く 佛の福田も亦た然り。
譬ば水の一味なれども 器によるがゆえに不同なるが如く諸佛の福田も一なるも 衆生の故に異るあり。
譬ば大幻師の 能く衆をして歡喜せしむる如く、
諸佛の聖福田も 願に随ひて欣悦せしむ。
譬ば辯才王の 能く衆をして歡喜せしむるも
諸佛の聖福田も衆生をして悦樂せしむ。
譬ば明淨の鏡の 對するに随て衆像を現ずるがごとく、諸佛の聖福田も 衆生の故に異るあり。
譬ば大藥王の一切の毒を消滅するが如く
諸佛の聖福田も 能く煩惱の患を滅す。
譬ば日出の時は 能く一切の闇を除くが如く
諸佛の聖福田も 普く十方界を照らす。
譬ば淨滿月の 普く四天下を照らす如く
諸佛の聖福田も 平等にして偏黨無し。
譬ば毘嵐風の一切地を震動するが如く
諸佛の聖福田も 能く三界の有を動ず。
譬ば火劫起れば 天地焼かざる靡きが如く
諸佛の聖福田も 能く一切の有を焼く。」
爾時、文殊師利は進首菩薩に問うて言く、「佛子よ、衆生は如來の教を見て諸の煩惱を断ずると為す耶。色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ずと為す耶。若し色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ぜば、如來の教法は何の増損する所やある。」
爾時、進首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ善く諦聽せよ。 我如實義を説ん。
或は速に出要する有り、 或は難解脱あり。
若は無量の諸過惡を除滅せんことを求め欲せば
應當に一切時に 勇猛大精進すべし。
譬ば微小なる火は樵まき濕ふときは則ち能く滅するが如く、 佛の教法中において 懈怠の者も亦た然り。
譬ば人の火を鑚るに 未だ出ざるに數しばしば休 息せば火勢隨って止滅するが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば淨き火珠も 縁を離れて而も火を求めば
畢竟不可得なるが如く、 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば明淨なる日を 閉目して色を見んと求むるが如く、佛の教法中における 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の手足無くして 大地を射過んと欲するも
永く彼の意に從ざるが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば大海水を 一毛を以て汲み盡さんと求るが如 く
佛の教法中における懈怠の者も亦た然なり。
譬ば火劫の起るに 少水を以て滅せんと欲するが如く佛の教法中に於ける 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の虚空を見て 便ち我身滿りと言んが如く
佛の教法中における 懈怠の者も亦た然り。」
爾時、文殊師利は法首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛の所説の如く、法を聞受する者は能く煩惱を断ずるに、云何が衆生は等しく正法を聞きて而も斷ずること能わざるや。婬怒癡に随ひ、慢に随ひ、愛に隨ひ、忿に隨ひ、慳嫉に随ひ、恨に随ひ、諂曲に随ふや。是の諸の垢法は悉く心を離れず。心無所行なれば能く結使を断ぜん。」
爾時、法首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ、善く諦聽せよ。 所問の如實義は
但だ多聞を積むのみにて 能く如來の法に入ること能はず。
譬ば人の、水に漂され溺んことを懼て而も渇して死する如く、 如説に行ずること能はず。 多聞も亦た如是なり。
譬ば人の大に種種諸の肴膳を惠施さるるも
不食にて自ら餓死するが如く、 多聞も亦た如是なり。
譬ば良醫有りて 具に諸方藥を知るも 自ら疾みて救うこと能ざるが如し。 多聞も亦た如是なり。
譬ば貧窮人の 日夜他寶を數るも
自らは半錢分も無きが如し 多聞も亦た如是なり。
譬ば帝王子の 應に極み無き樂を受るべきも
業障の故に貧苦なるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば聾聵人の 善く諸音聲を奏して彼を悦しむるも自らは聞かざるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば盲瞽人の 本と習しが故に能く畫きて彼に示すも自らは見ざるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば海の導師の 能く無量の衆を渡し彼をすくふも自らは濟はざるが如し。 多聞も亦た如是なり。
譬ば人の大衆に処して 善く勝妙の事を説けども
内に自らは實徳無きが如く 多聞も亦た如是なり。」
爾時、文殊師利は智首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛法中に於いては智慧を首となすに如來は何が故に、或は衆生の為に檀波羅蜜・尸波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禪波羅蜜・般若波羅蜜・慈悲喜捨を讃歎したまふや。此の一一の法にては皆無上菩提を得ること能はざるべし。」
爾時、智首菩薩は偈を以て答て曰く
「 知り難きを而も能く知りて 衆生心に隨順せり。
佛子よ所問の義を 諦聽せよ。我今説かん。
過去未來世に、 現在の諸導師は
未だ曾って一法のみを以て 無上道を成ずることを得たまはず。
如來は、衆生の 本性に修習する所を知りて
善く應に度すべき者に順じて 爲に淨妙の法を説きたまふ。
慳者には布施を讃め、 禁を毀るものには持戒を讃め、瞋恚のものには忍辱を讃め、懈怠のものには精進を讃め、亂意のものには禅定を讃め、 愚癡のものには智慧を讃め、不仁のものには慈愍を讃め、怒害のものには大悲を讃め、憂慼するものには爲に喜を讃め、憎愛のものには爲に捨を讃め、
如是にして修習せん者は 漸く一切法を解せん。
譬ば宮室を造るに基を起して堅固ならしむるが如く、施戒も亦た如是なり。 菩薩衆行の本なり。
たとへば牢堅城の諸敵難を防御するがごとく、
忍進も亦た如是に諸菩薩を防護す。
譬ば大力の王の 威徳を以て天下を定るが如く
禪智も亦た如是なり。諸の菩薩を安隱にす。
譬ば轉輪王の 具に一切の樂を受るが如く
四等(四無量心)も亦た如是なり。諸の菩薩を安樂にす。」
爾時、文殊師利は賢首菩薩に問うて言く、「佛子よ、一切諸佛は唯だ一乘を以て生死を出ることを得たまふに云何が今一切の佛刹を見るに事事不同なるや。所謂、世界・衆生・説法・教化・壽命・光明・神力・衆會・佛法・法住、如是等の事は皆な悉く不同なり。一切の佛法を具せずして而も能く無上菩提を成就することあること無けんに。爾時、賢首菩薩は偈を以て答て曰く、
「文殊よ、法は常爾にして 法王は唯一法なり。
一切無礙の人は 一道より生死を出でたまふ。
一切諸佛の身は 唯是れ一の法身にして
一の心、一の智慧なり。力無畏も亦た然なり。
衆生の本行の 無上菩提を求むるに随ひて
佛刹及び衆會も 説法悉く不同なり。
一切諸佛の刹は 平等に普く嚴淨するも
衆生の業行が異なれば 所見は各の不同なり。
諸佛及び佛法は 衆生能く見るなし。
佛刹・法身・衆・説法も亦た如是なり。
本行廣く清淨にして一切の願を 具足する、
彼の人は眞實を見る 明達知見の者なり。
衆生の欲と 諸業及び果報とに随順して
各の真実を見しむは 佛力自在の故なり。
佛刹に異相無く、 如來に憎愛無し。
彼の衆生の行に随ひて 自ら如是に見ることを得。
是れ一切の佛や 安住せる導師の咎には非ず。
無量の諸世界に 示現するも見るは不同の故也。
一切諸世界の 應に化を受くべき所の者は、
常に人中の雄を見奉る。 諸佛の法も如是なり。」
爾時、諸菩薩は文殊師利に謂て言く、「佛子よ、我等の解る所は各各已に説けり。仁者は辯才深く入る。次に應に敷演すべし。何等か是れ佛の境界、何等か是れ佛の境界の因、何等か是れ佛の境界の所入、何等か是れ佛境界の所度、何等か是れ佛境界の隨順知、何等か是れ佛境界の隨順法、何等か是れ佛境界の分別知、何等か是れ佛の境界を識る、何等か是れ決定して佛境界を知る、何等か是れ佛境界を照す、何等か是れ佛境界を廣む。」
爾時、文殊師利、偈を以て答て曰く
「如來の深き境界は 其量は虚空に齊しく
一切の衆生が入るも 眞實に所入無し。
如來の境界の因は 唯だ佛のみ能く分別したまふ。
自餘は無量劫にして 演説すとも盡す可からず。
衆生に隨順するが故に 普く諸世間に入るも
智慧常に寂然として 世の所見に同じからず。
諸の群生を度脱するに其の心智に隨順して
宣暢して窮盡すること無し。 唯是れ佛のみの境界なり。
如來の一切智は 三世に障礙無く
諸佛の妙境界は 皆悉く虚空の如し。
法界に異相無けれども 衆生に隨順して説く。
若し具に分別せんと欲せば 唯だ佛のみの境界なり。
一切諸世間の 無量衆の音聲を
隨時に悉く了知するも 其實は分別無し。
識の能く識る所に非ず 亦た心の境界にも非ず
自性は眞に清淨にして 能く諸の群生に示す。
業に非ず、煩惱に非ず、 寂滅にして無所住なり。
無明・無所行にして 平等にして世間に行ず。
一切衆生の心は 普く三世の中にあり。
如來は一念に於いて 一切に悉く明達したまふ。」
爾時、此娑婆世界の衆生は、佛神力の故に、此の佛刹の一切衆生の所行の法の如く、所行の業の如く、世間の行の如く、隨身の所行・隨根の所行・其行業に随って所生の處、持戒・毀禁・説法・果報を見る。如是の世界中の事、一切悉く見る。如是の東方百千億世界、不可量・不可數・不可思議・不可稱・無等無邊無分齊不可説の虚空法界等一切世界、乃至説法果報を一切悉く見る。南西北方四維上下亦復た如是なり。
大方廣佛華嚴經卷第五
大方廣佛華嚴經菩薩明難品第六
爾時文殊師利菩薩、覺首菩薩に問うて言く、「佛子よ、心性は是れ一なるに云何ぞ能く種種の果報を生ずるや。或は善趣に至り、或は惡趣に至る。或は諸根を具し、或は不具なる者あり。或は善處に生じ、或は惡處に生ず。端正・醜陋・苦樂不同なり。業は心を知らず、心は業を知らず。受は報を知らず、報は受を知らず。心は受を知らず、受は心を知らず。因は縁を知らず、縁は因を知らず。智は法を知らず、法は智を知らず」。爾時、覺首菩薩。偈を以て答て曰く、
「 衆生を化せんが為の故に 乃ち能く斯義を問へり。 諸法如實性を我説ん。仁よ、諦聽せよ。
諸法は不自在なり、 實を求むるに不可得なり。是故に一切の法は 二ともに相知らず。
譬へば駛水(しすい・急流)の流は 流れ流れて絶已むこと無けれども二倶に相知らず。 諸法も亦た如是なり。
亦、明燈の焔は 焔焔として暫も停らざれども二倶に相知らず。 諸法も亦た如是なり。
亦、長風起り 鼓拂して動勢生ずるも二倶に相知らず 諸法も亦た如是なり。
亦、深廣の地は 展轉として相依住するも二倶に相知らず、 諸法も亦た如是なり。
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は此れに因て衆苦を轉ずるも而も實に無所轉なり。
法性は無所轉なれども 示現の故に有轉することあり。彼において示現なければ 示現にも所有なし。
眼耳鼻舌身 心意諸情の根は其の性は悉く空寂なれば 虚妄にして無眞實なり。
觀察して正思惟せば 有の者にも所有無し。
彼の見は顛倒ならず、 法眼清淨なる故に。
虚妄・非虚妄、 若は實、若しは不實も
世間・出世間も 但だ假言説あるのみ。」
爾時文殊師利菩薩、財首菩薩に問うて言く「佛子よ、
一切衆生は衆生にあらざるに、如來は、云何が衆生の時に隨ひ、命に隨ひ、身に隨ひ、行に隨ひ、欲樂に隨ひ、願に隨ひ、意に隨ひ、方便に隨ひ、思惟に隨ひ、籌量に隨ひ、衆生見に隨ひて而も之を教化したまふや。」
爾時、財首菩薩は偈を以て答て曰く「明智心の境界は 常に寂滅行を樂ふ。 我今如實に説ん。 仁者、善く諦聴せよ。分別して内身を觀ずるに 我身は何の所有ぞ、
若し能く如是に觀ぜば、 彼は我の有無達す。
身の一切分を觀るに 無所依にして止住す。
諦に是身を了する者は 身に於て無所著なり。
能く身如實を解り一切法に明達すれば
法は悉く虚妄と知りて 其心は無所染なり。
身命相ひ隨順し 展轉して更に相因るは
猶し旋火輪の如し 前後不可知なり。
智者は能く一切有は無常、諸法は空無我と觀察し、 則ち一切相を離る。
因縁所起の業は 無我なること猶ほ夢の如し
果報の性は寂滅して 前後異相無し。
一切世間法は 唯心を以て主となす。
樂に隨て相を取る者は 皆悉く是れ顛倒なり。
世間の所有る法は 一切悉く虚妄にして
諸法は眞實に二あることなしと解すること能ず。
一切生滅法は 皆悉く縁より起り、
念念に速に歸滅して 始終無異相なり」
爾時文殊師利、寶首菩薩に問うて言く、「佛子よ、一切衆生の四大は悉く非我・非我所なり。云何が衆生は或は苦を受け樂を受け、或は作惡し作善す。或は内端正なるあり或は外端正なるある。或は少しの報を受け
或は多くの報を受く。或は現報あり或は後報あるや。
然も諸法の性は無善無惡なり」。
爾時、寶首菩薩は偈を以て答て言く、
「 所行の諸業に随ひて 果報を受るも亦た然なり。
造者は無所有なり。 諸佛は如是に説きたまふ。
猶し明淨鏡の 其面に随て像現ずるも
内外無所有なるが如し、 業性も亦た如是なり。
亦、田の種子は 各各相ひ知ずして
自然に能く因と作るが如く 業性も亦た如是なり。
亦、大幻師の 彼の四衢道にありて
種種色を示現する如く 業性も亦た如是なり。
匠の木人を造りて 能く種種の聲を出さしむるも
彼には我・非我なきが如く 業性も亦た如是なり。
亦、衆鳥類の 声を出して音不同にして
能く種種の聲を作すが如く 業性も亦た如是なり。
親の因縁會ば 受生も來者無く
諸根各別異なるが如く 業性も亦た如是なり。
大地獄中に 衆生苦惱を受るも
苦惱は無來處なるが如く 業性も亦た如是なり。
亦、轉輪王の勝れた七寶を成就するも
彼、從來する所無がごとく 業性も亦た如是なり。
亦、諸世界に成有り或は敗れる有るも成敗は來去無きが如く、 業性も亦た如是なり。
爾時、文殊師利は徳首菩薩に問うて言く「佛子よ、如來は唯だ一法を覚るのみなるに云何んが乃ち無量の諸法を説き、音聲は無量世界に遍滿し悉く能く無量の衆生を教化し、無量の聲を出し、無量の身を現じ、無量の衆生の心意を了知し、無量の神足自在を示現し、無量無邊世界を示現し、無量の殊勝莊嚴を示現し、無量の種種の境界を示現したまふや。而も法性は分別するに實に不可得なり。」
爾時、徳首菩薩は偈を以て答て曰く、
「佛子よ、乃ち能く 甚深微妙義を問へり
智者は若し此を知らば 常に樂ひて功徳を求ん。
猶ほ地性は一なれども 能く種種の物を持し
一異を分別せざるがごとし 諸佛の法も如是なり。
猶ほ火性は一なれども 能く世間の物を焼き
火性に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大海の水の 注ぐに百の川流を以てするも
其味は別異無記が如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ風性は一なれども一切の物を吹動し、
風性に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ龍の雷震して 普く一切の地に雨ふらすも
雨渧に分別無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大地は一なれども 能く種種の芽を生じ
地性に別異無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ日に雲曀無く 普く能く十方を照らし
光明に異性無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ空中の月の 世間に見ざることなけれども
一切處に至らざる無きが如く 諸佛の法も如是なり。
猶ほ大梵王の 普く大千に應現すれども
其身に別異無きが如く 諸佛の法も如是なり。」
爾時、文殊師利は目首菩薩に問て言く、「佛子よ、如來の福田は等一にして無異なるを云何が布施の果報不同にして種種の色、種種の性、種種の家、種種の根、種種の財、種種の奇特、種種の眷屬、種種の自在、種種の功徳、種種の慧有るや。如來は平等にして怨親あること無きに。」
爾時、目首菩薩は偈を以て答て曰く
「 譬ば大地は一なれども 能く種種の芽を生じ
彼において怨親無きが如く 佛の福田も亦た然り。
譬ば水の一味なれども 器によるがゆえに不同なるが如く諸佛の福田も一なるも 衆生の故に異るあり。
譬ば大幻師の 能く衆をして歡喜せしむる如く、
諸佛の聖福田も 願に随ひて欣悦せしむ。
譬ば辯才王の 能く衆をして歡喜せしむるも
諸佛の聖福田も衆生をして悦樂せしむ。
譬ば明淨の鏡の 對するに随て衆像を現ずるがごとく、諸佛の聖福田も 衆生の故に異るあり。
譬ば大藥王の一切の毒を消滅するが如く
諸佛の聖福田も 能く煩惱の患を滅す。
譬ば日出の時は 能く一切の闇を除くが如く
諸佛の聖福田も 普く十方界を照らす。
譬ば淨滿月の 普く四天下を照らす如く
諸佛の聖福田も 平等にして偏黨無し。
譬ば毘嵐風の一切地を震動するが如く
諸佛の聖福田も 能く三界の有を動ず。
譬ば火劫起れば 天地焼かざる靡きが如く
諸佛の聖福田も 能く一切の有を焼く。」
爾時、文殊師利は進首菩薩に問うて言く、「佛子よ、衆生は如來の教を見て諸の煩惱を断ずると為す耶。色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ずと為す耶。若し色・受・想・行・識、欲界・色界・無色界の癡愛を知りて諸の煩惱を断ぜば、如來の教法は何の増損する所やある。」
爾時、進首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ善く諦聽せよ。 我如實義を説ん。
或は速に出要する有り、 或は難解脱あり。
若は無量の諸過惡を除滅せんことを求め欲せば
應當に一切時に 勇猛大精進すべし。
譬ば微小なる火は樵まき濕ふときは則ち能く滅するが如く、 佛の教法中において 懈怠の者も亦た然り。
譬ば人の火を鑚るに 未だ出ざるに數しばしば休 息せば火勢隨って止滅するが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば淨き火珠も 縁を離れて而も火を求めば
畢竟不可得なるが如く、 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば明淨なる日を 閉目して色を見んと求むるが如く、佛の教法中における 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の手足無くして 大地を射過んと欲するも
永く彼の意に從ざるが如く 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば大海水を 一毛を以て汲み盡さんと求るが如 く
佛の教法中における懈怠の者も亦た然なり。
譬ば火劫の起るに 少水を以て滅せんと欲するが如く佛の教法中に於ける 懈怠の者も亦た然なり。
譬ば人の虚空を見て 便ち我身滿りと言んが如く
佛の教法中における 懈怠の者も亦た然り。」
爾時、文殊師利は法首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛の所説の如く、法を聞受する者は能く煩惱を断ずるに、云何が衆生は等しく正法を聞きて而も斷ずること能わざるや。婬怒癡に随ひ、慢に随ひ、愛に隨ひ、忿に隨ひ、慳嫉に随ひ、恨に随ひ、諂曲に随ふや。是の諸の垢法は悉く心を離れず。心無所行なれば能く結使を断ぜん。」
爾時、法首菩薩は偈を以て答て曰く、
「 佛子よ、善く諦聽せよ。 所問の如實義は
但だ多聞を積むのみにて 能く如來の法に入ること能はず。
譬ば人の、水に漂され溺んことを懼て而も渇して死する如く、 如説に行ずること能はず。 多聞も亦た如是なり。
譬ば人の大に種種諸の肴膳を惠施さるるも
不食にて自ら餓死するが如く、 多聞も亦た如是なり。
譬ば良醫有りて 具に諸方藥を知るも 自ら疾みて救うこと能ざるが如し。 多聞も亦た如是なり。
譬ば貧窮人の 日夜他寶を數るも
自らは半錢分も無きが如し 多聞も亦た如是なり。
譬ば帝王子の 應に極み無き樂を受るべきも
業障の故に貧苦なるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば聾聵人の 善く諸音聲を奏して彼を悦しむるも自らは聞かざるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば盲瞽人の 本と習しが故に能く畫きて彼に示すも自らは見ざるが如く 多聞も亦た如是なり。
譬ば海の導師の 能く無量の衆を渡し彼をすくふも自らは濟はざるが如し。 多聞も亦た如是なり。
譬ば人の大衆に処して 善く勝妙の事を説けども
内に自らは實徳無きが如く 多聞も亦た如是なり。」
爾時、文殊師利は智首菩薩に問うて言く、「佛子よ、佛法中に於いては智慧を首となすに如來は何が故に、或は衆生の為に檀波羅蜜・尸波羅蜜・羼提波羅蜜・毘梨耶波羅蜜・禪波羅蜜・般若波羅蜜・慈悲喜捨を讃歎したまふや。此の一一の法にては皆無上菩提を得ること能はざるべし。」
爾時、智首菩薩は偈を以て答て曰く
「 知り難きを而も能く知りて 衆生心に隨順せり。
佛子よ所問の義を 諦聽せよ。我今説かん。
過去未來世に、 現在の諸導師は
未だ曾って一法のみを以て 無上道を成ずることを得たまはず。
如來は、衆生の 本性に修習する所を知りて
善く應に度すべき者に順じて 爲に淨妙の法を説きたまふ。
慳者には布施を讃め、 禁を毀るものには持戒を讃め、瞋恚のものには忍辱を讃め、懈怠のものには精進を讃め、亂意のものには禅定を讃め、 愚癡のものには智慧を讃め、不仁のものには慈愍を讃め、怒害のものには大悲を讃め、憂慼するものには爲に喜を讃め、憎愛のものには爲に捨を讃め、
如是にして修習せん者は 漸く一切法を解せん。
譬ば宮室を造るに基を起して堅固ならしむるが如く、施戒も亦た如是なり。 菩薩衆行の本なり。
たとへば牢堅城の諸敵難を防御するがごとく、
忍進も亦た如是に諸菩薩を防護す。
譬ば大力の王の 威徳を以て天下を定るが如く
禪智も亦た如是なり。諸の菩薩を安隱にす。
譬ば轉輪王の 具に一切の樂を受るが如く
四等(四無量心)も亦た如是なり。諸の菩薩を安樂にす。」
爾時、文殊師利は賢首菩薩に問うて言く、「佛子よ、一切諸佛は唯だ一乘を以て生死を出ることを得たまふに云何が今一切の佛刹を見るに事事不同なるや。所謂、世界・衆生・説法・教化・壽命・光明・神力・衆會・佛法・法住、如是等の事は皆な悉く不同なり。一切の佛法を具せずして而も能く無上菩提を成就することあること無けんに。爾時、賢首菩薩は偈を以て答て曰く、
「文殊よ、法は常爾にして 法王は唯一法なり。
一切無礙の人は 一道より生死を出でたまふ。
一切諸佛の身は 唯是れ一の法身にして
一の心、一の智慧なり。力無畏も亦た然なり。
衆生の本行の 無上菩提を求むるに随ひて
佛刹及び衆會も 説法悉く不同なり。
一切諸佛の刹は 平等に普く嚴淨するも
衆生の業行が異なれば 所見は各の不同なり。
諸佛及び佛法は 衆生能く見るなし。
佛刹・法身・衆・説法も亦た如是なり。
本行廣く清淨にして一切の願を 具足する、
彼の人は眞實を見る 明達知見の者なり。
衆生の欲と 諸業及び果報とに随順して
各の真実を見しむは 佛力自在の故なり。
佛刹に異相無く、 如來に憎愛無し。
彼の衆生の行に随ひて 自ら如是に見ることを得。
是れ一切の佛や 安住せる導師の咎には非ず。
無量の諸世界に 示現するも見るは不同の故也。
一切諸世界の 應に化を受くべき所の者は、
常に人中の雄を見奉る。 諸佛の法も如是なり。」
爾時、諸菩薩は文殊師利に謂て言く、「佛子よ、我等の解る所は各各已に説けり。仁者は辯才深く入る。次に應に敷演すべし。何等か是れ佛の境界、何等か是れ佛の境界の因、何等か是れ佛の境界の所入、何等か是れ佛境界の所度、何等か是れ佛境界の隨順知、何等か是れ佛境界の隨順法、何等か是れ佛境界の分別知、何等か是れ佛の境界を識る、何等か是れ決定して佛境界を知る、何等か是れ佛境界を照す、何等か是れ佛境界を廣む。」
爾時、文殊師利、偈を以て答て曰く
「如來の深き境界は 其量は虚空に齊しく
一切の衆生が入るも 眞實に所入無し。
如來の境界の因は 唯だ佛のみ能く分別したまふ。
自餘は無量劫にして 演説すとも盡す可からず。
衆生に隨順するが故に 普く諸世間に入るも
智慧常に寂然として 世の所見に同じからず。
諸の群生を度脱するに其の心智に隨順して
宣暢して窮盡すること無し。 唯是れ佛のみの境界なり。
如來の一切智は 三世に障礙無く
諸佛の妙境界は 皆悉く虚空の如し。
法界に異相無けれども 衆生に隨順して説く。
若し具に分別せんと欲せば 唯だ佛のみの境界なり。
一切諸世間の 無量衆の音聲を
隨時に悉く了知するも 其實は分別無し。
識の能く識る所に非ず 亦た心の境界にも非ず
自性は眞に清淨にして 能く諸の群生に示す。
業に非ず、煩惱に非ず、 寂滅にして無所住なり。
無明・無所行にして 平等にして世間に行ず。
一切衆生の心は 普く三世の中にあり。
如來は一念に於いて 一切に悉く明達したまふ。」
爾時、此娑婆世界の衆生は、佛神力の故に、此の佛刹の一切衆生の所行の法の如く、所行の業の如く、世間の行の如く、隨身の所行・隨根の所行・其行業に随って所生の處、持戒・毀禁・説法・果報を見る。如是の世界中の事、一切悉く見る。如是の東方百千億世界、不可量・不可數・不可思議・不可稱・無等無邊無分齊不可説の虚空法界等一切世界、乃至説法果報を一切悉く見る。南西北方四維上下亦復た如是なり。
大方廣佛華嚴經卷第五