2回目は61番から横峰に登ろうとしました。19年1月2日朝5時半ごろでました。
前日に寺の人に聞いていた路をいきましたがみかん畑の中に迷い込んだりしてどうしても道が分からなくなりました。
冷たい雨のなか懐中電灯で地図を照らしますが自分がどこにいるのかさえ全くわかりません。ひきかえして何度も挑戦しましたが寺の周りを何回か回っただけでした。あきらめて63番まで出て1回目と同じ道をいくことにしました。このころには前日歩きすぎて痛めた左足が熱をもったようになり我慢できなくなりました。このままやめて帰ろうと何度も思いました。 しかし宿坊で一緒だった夫婦連れの遍路や女性遍路がなんなくすたすた歩いているのに僧侶である自分がしかも2回目にも拘らず途中で引き返すのはどうしてもできないと思い直し、足をひきずりながら20kmの山道を必死にのぼりました。途中で足の痛みと急坂の連続で心臓まで異常にドキドキと鼓動をはじめました。1回目にはなんなく登れたのにどうしてこんなに心臓に負担がかかるのかと自らのふがいなさに暗澹たる思いでした。遍路を勧めてくださったN尼に聞くと、数年前には此の参道で心臓麻痺を起こした人もいるということです。ぞっとしました。 朝の太陽は雲に隠れて見えませんでした。 「横峯は雲にかくれて南無大師遍照金剛 (山頭火)」という句を思いだします。
その後も何回か徒歩で登りました。次の年には61番香園寺に泊まりお寺の人によく道を聞いて裏の高鴨神社前を抜けて無事横峯寺に登れました。そのあとの年は62番宝寿寺で昼前になったのですがお遍路の人がまだこれから横峯寺へは間に合うといっているのを聞いて最初とおなじように黒瀬峠を目指しました。毎回しかし横峰寺への道は急坂が續き心臓が破裂しそうになります。
横峰寺は白雉二年(六五一)役行者小角が星ガ森で練行中に石鎚山項に蔵王権現が元現され、その尊像を刻み小堂を建立して安置したのが初めとされます。お大師様はこの地で星供を修され、結願の日再度蔵王権現が示現したので本地の大日如来を刻み本尊とし、霊場に定めたということです。お大師様は『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食し)轗軻(苦行した)たり」と、横峯山で修行された様子を記しておられます。(蔵王権現と大日如来の)神仏習合の別当寺として栄えていきましたが、明治新政府の廃仏毀釈により寺は廃寺となり、明治42年になりようやく復興したということです。確かに、澄禅「四国遍路日記」にも「横峰寺、大坂を登りて少しき平地なるところに二王門あり、ここに佛光山という額在り、銅にて文字を入れたり。本堂南向き、本尊大日、又、権現の社あり。寺には加賀の国の僧住持す」とあり、江戸初期には栄えていたということです。頼富本宏「四国遍路とはなにか」には「60番横峰寺。もともと石鎚山の別当寺院であった。1689年寂本の「四国徧禮霊場記」には「三十六王子末社あまたあり」とされ権現社は現存する」と書かれています。
「四国八十八所霊験記(昭和59年四国霊場会刊)」には交通事故により左半身不随だった渕上と言う女性が昭和44年ここ横峰寺参道でお蔭を受け、「を体に電流のようなものが流れ、先ほどまで曲がらなかった首、左腕が曲がるようになり、まれにみる一大奇跡授かった。あまりのうれしさにその後も遍路を続け遂に先達になった」とありました。
最初の時は納経所で若いお坊さんが「今日は何人でおみえですか?」と聞きます。
初対面でしかも一人なのになにか背後に人の姿でも見えたのでしょうか。いずれ多くの人を伴ってきなさいということだったのでしょう。
20年春には心願成就のお礼に親子三人でタクシーでお参りしたこともあります。残雪のなかを白衣を着て3人でのぼったのは今から思い返しても楽しい思い出になりました。
23年にもここへお参りできました。また24年には数人を連れてくることができました。19年の納経所のお坊さんの「何人できましたか」という予言は5年後には当たっていたのです。
前日に寺の人に聞いていた路をいきましたがみかん畑の中に迷い込んだりしてどうしても道が分からなくなりました。
冷たい雨のなか懐中電灯で地図を照らしますが自分がどこにいるのかさえ全くわかりません。ひきかえして何度も挑戦しましたが寺の周りを何回か回っただけでした。あきらめて63番まで出て1回目と同じ道をいくことにしました。このころには前日歩きすぎて痛めた左足が熱をもったようになり我慢できなくなりました。このままやめて帰ろうと何度も思いました。 しかし宿坊で一緒だった夫婦連れの遍路や女性遍路がなんなくすたすた歩いているのに僧侶である自分がしかも2回目にも拘らず途中で引き返すのはどうしてもできないと思い直し、足をひきずりながら20kmの山道を必死にのぼりました。途中で足の痛みと急坂の連続で心臓まで異常にドキドキと鼓動をはじめました。1回目にはなんなく登れたのにどうしてこんなに心臓に負担がかかるのかと自らのふがいなさに暗澹たる思いでした。遍路を勧めてくださったN尼に聞くと、数年前には此の参道で心臓麻痺を起こした人もいるということです。ぞっとしました。 朝の太陽は雲に隠れて見えませんでした。 「横峯は雲にかくれて南無大師遍照金剛 (山頭火)」という句を思いだします。
その後も何回か徒歩で登りました。次の年には61番香園寺に泊まりお寺の人によく道を聞いて裏の高鴨神社前を抜けて無事横峯寺に登れました。そのあとの年は62番宝寿寺で昼前になったのですがお遍路の人がまだこれから横峯寺へは間に合うといっているのを聞いて最初とおなじように黒瀬峠を目指しました。毎回しかし横峰寺への道は急坂が續き心臓が破裂しそうになります。
横峰寺は白雉二年(六五一)役行者小角が星ガ森で練行中に石鎚山項に蔵王権現が元現され、その尊像を刻み小堂を建立して安置したのが初めとされます。お大師様はこの地で星供を修され、結願の日再度蔵王権現が示現したので本地の大日如来を刻み本尊とし、霊場に定めたということです。お大師様は『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食し)轗軻(苦行した)たり」と、横峯山で修行された様子を記しておられます。(蔵王権現と大日如来の)神仏習合の別当寺として栄えていきましたが、明治新政府の廃仏毀釈により寺は廃寺となり、明治42年になりようやく復興したということです。確かに、澄禅「四国遍路日記」にも「横峰寺、大坂を登りて少しき平地なるところに二王門あり、ここに佛光山という額在り、銅にて文字を入れたり。本堂南向き、本尊大日、又、権現の社あり。寺には加賀の国の僧住持す」とあり、江戸初期には栄えていたということです。頼富本宏「四国遍路とはなにか」には「60番横峰寺。もともと石鎚山の別当寺院であった。1689年寂本の「四国徧禮霊場記」には「三十六王子末社あまたあり」とされ権現社は現存する」と書かれています。
「四国八十八所霊験記(昭和59年四国霊場会刊)」には交通事故により左半身不随だった渕上と言う女性が昭和44年ここ横峰寺参道でお蔭を受け、「を体に電流のようなものが流れ、先ほどまで曲がらなかった首、左腕が曲がるようになり、まれにみる一大奇跡授かった。あまりのうれしさにその後も遍路を続け遂に先達になった」とありました。
最初の時は納経所で若いお坊さんが「今日は何人でおみえですか?」と聞きます。
初対面でしかも一人なのになにか背後に人の姿でも見えたのでしょうか。いずれ多くの人を伴ってきなさいということだったのでしょう。
20年春には心願成就のお礼に親子三人でタクシーでお参りしたこともあります。残雪のなかを白衣を着て3人でのぼったのは今から思い返しても楽しい思い出になりました。
23年にもここへお参りできました。また24年には数人を連れてくることができました。19年の納経所のお坊さんの「何人できましたか」という予言は5年後には当たっていたのです。