「日本國體の研究、田中智學」・・その16
三十七節 祭政一致主義
・・凡そ人間の万事は祭祀から始まる、國家にしてみればなおさらのことだ。天の神より授けられた此の国を経営するにはその授けた主の天の神様をお祭りもうすといふことが一番先に大事なことである。但しそれはただ爼豆を列ね禮容を調へて柏手を摶ってお辞儀をするだけではいけない。その内容に必ず「至誠」と「報恩」の二つの義が籠って居らなければ真の「祭祀」とはいえない。
「至誠」といふことは人間が「神」の心と同じになれる一番純粋な心を発揮することで平たく言えば「理」にかなふ心である。「至誠天に通ず」などいふのがそれだ。それから「報恩」といふのは人が自分が受けた恩に対して報いる心、これが在ればこそ人間は段々と栄えていくのである。・・「子を以て知る親の恩」とよく云ふことだが、自分が親から受けた恩に対してこれを上に報いる心は「考」となり、下に及ぼす心が「恵」となる。それを横へも広げていかねばならぬ、一つの恩が上へも下へも同時に横へも人事とか世間とかいふことに拡がっていくので、そこで人間の道徳というものが益々向上するのである。それが「報恩」の観念だ。この観念によって世界が栄えていく。-・「至誠」は人を照らし、「報恩」は人情を修める。此の二つが調整して一の社会的中心を成すの心構えが日本でいうところの『忠』である。それがとりもなおさず「祭祀」の心である。
・・「私は凡夫でありますが能う限り正しい道に従おうと思います。定しい道とはあなたの心であると信じますから努めてそれに倣うように自身に力を入れて励みますがどうぞこの志を容れて我等の上に御力をお貸しください。」とあれば神も「愛い奴」とおぼしめそう。もう一つには「あなたより受けた恩恵に対して報いずにはいられません。どんなことでも致します。が、なによりも真理に順うということが『報恩』の第一ゆえ、其の上から考えても自分は絶対に『道』に服従しなければならぬと御誓いもうしあげます」人間が道に従って道が栄えれば神が悦ぶ、そこで神の寿命が増大する、人間が道に従わなくなると神はだんだん衰えるのである。(弘法大師の神祇通用祭文にも「神は六道の父母なり、人は神の子孫なり。神独り尊とからず。人の法施を待って威光を増し、人獨り樂しからず、神の擁護を蒙って悉地を成ず。故に乾坤遥かなりといえども志を運び奉れば影の形に随うが如し。神霊隠れたりといえども、信を致せば空しきこと無きこと響きの聲に応ずるが如し-」とあります。)・・・・政治に「至誠」がない、教育に「至誠」がない、秩序の節義、和親の情誼、あらゆる「徳性」の観念がすべて破壊されてしまったのは要するにその根元「祭祀」ということを度外視したからである。
この日本國は神や仏が衆生慈愍のゆえに人間以上の道を地上に垂れてこれによって人を一大真理に摂取しようという極めて大仕掛けの仕事を世の中に唯一つ建立した、それがどこかへ事実的結晶を現わして歴史に名をとどめていなければならないはずだという問題に逢着した、するとここに日本という國が世界統一の為に建てられている、これは決して偶然ではないという一大事因縁の観察に到着した我等は・・先祖は何のために存在したか、先祖に深い存在の理由があるならば、自分にもそのとおりの理由がなければならぬ、先祖が深い性質なら自分も又深い性質をもったものでだというこの自覚が我を発奮せしめて偉大なる天職の発揚へと導くのである。
・・神武天皇ご即位に際しての宣言「上は則ち乾霊(あまつかみ)國を授くるの徳に答へ、下は則ち皇孫(すめみま)、正(ただしき)を養ふの心を弘む」(『日本書紀』にある神武天皇即位の詔。「上は天神の国をお授け下さつた御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう」との意味)の仰せである。・・先祖をおもう心はやがて子孫を栄えしめる心である。それもただ先祖を慕うというだけではいけない。其の追慕の実績それが即ち「上答下弘」ということである。「上答下弘」の思召しはさらに「大考」の二字にあらわされてある。考に大の字を冠したのは・・これは増上縁(他の物事が生ずることを助ける働きをする縁)の意味を持って「考」を解釈したものである。子が親を慕い子孫が先祖を慕って誠意を捧げるというだけならそれはただの「考」である。その誠意を積極的に発動せしめて用いて尽きない無限絶大の応用を意義とするから『用いて大考を申しのべん』とおおせられたのである。
縦には悠久性の「考」すなわち先祖が徳の標本であったならそのとおり子孫たるべきものは「徳」を積まねばならぬという観念、それが厳然たる規模約束を成すことが竪の「大考」である。それをこんどは横に広げると普遍性の「大考」が発揮される。・・それはいうまでもなく一旦自分に享けた徳分なり幸福なりとしての「考」が自己にこなれた上で、再転して他に及ぶのだから無論形式の異なった応用になるのは当然である。まず一番手近なところで、兄弟に対する真の友愛、夫婦の和合、朋友の信義、それから更に郷党隣里の同情公徳、更に進んで一國同胞の公正な団結力、今度は広く人類一般に及ぶところの博愛同情の観念、それらの一つ一つが悉く「考」を根底にしてそれの融化変形した応用でなければならない。
しからば其考は人類だけに止まって非人類には及ばぬかというにそれでは済まない。・・こんどは人類ばかりでなく一般生類のうえにも及んでいかなければならない。・・そこでまだ生類が行き止まりではない。ひろく有情非情すべてにわたって所謂宇宙のすべてを覆うのである。宇宙に遍満すれば其処で宇宙が今度は循環すると「真如」の境界に到達する。この真如に及んで初めて「考」が完成するのである。それだから「大考」というのだ。
・・この悠久且つ普遍の考が竟には真理に到達して宇宙宛然として一大光明に輝くの「道」であるから大考とおおせられたのであるが、その道を作用とは何であるか、どうしてその道理の目鼻が開いていくのであるかと言えば、元に戻ってそれが「報恩」の観念だ。・・人情というものを一番正しく美しく導いて来ることを報恩というのである。・・仏は心地観経に・・「子が生まれての三年の間、母親の乳を飲む。その量が百八十石三升三合になる」(注、大乘本生心地觀經卷第二報恩品第二4之上)と仏は教えられた。・・米に換えて量ると乳一升が一万千八百五十石、稲にして二万千七百束、布に換算すれば三千三百七十反になる。・・三年間に飲む乳の量を米に換算してみると二億千三百五十万九十石になる。・・これだけのものが返せるか・・・
すでに徳に答えると誓った以上は愚図愚図してはいられない、過去の徳が事実なのだからただ観念の上に有難いと思っただけではいけない。・・実際に有難い意味を行うのだ。有難いと云う意味において万事を経営するのだ。わが財を挙げ我が命を捧げて道を守るということは消極的に自己の財産身命がなくなるということではなくてそれが一層大きく役立ち、一層善美の価値を益すのだというように、かかる大安心のもとにこの國民性が養われて民力を養うならば、一人の民力なお一國を維持するほどに真価が現れる。・・かかる真善美の國是の中に我等人生の真意義を認め、常住不死の生命を認めてその力に活きることが我等の出離生死の要道、安心立命の基本というものである.
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