「個別体を寂滅の涅槃に帰する旨を説くもの」は、小乗仏教である。即ち小乗仏教においては人生は厭離すべき苦境なりとし、此の身心二つながら、空滅に帰せる涅槃の境地に到達する道を説くものである。一切衆生は此処に生じ、彼処に滅し、生死の苦界に輪廻転生することあたかも水の涓涓(けんけん)として流るる如く、火の焔焔として燃ゆるが如く、
一類の身心相続し、輪廻転生止むことなきは、一切衆生界の状相なりとす。しかしてかく衆生の心身をして転生相続せしめ、永く此の苦界に在らしむるものは、所謂煩悩と業力に因るものなりとす。
煩悩とは衆生の身心は因縁生の物柄にして、本来無自性空なるものを、顛倒妄執し、堅実常住の我体ありと誤認し、此の我執を本として起こる、頓瞋痴等の妄念なり。業とは衆生の行為である。・・生死輪廻の因となるものは強大なる善悪の業によって繋發されたる無形の勢力すなわち無表業(注1)なり。此の無表業が身心に留存し、一類の五蘊(注2)をして生死界に相続せしめ転生せしむとなす。
(注1、無表業とは業の余勢ともいうべき存在のことであり、そのままの形では外にあらわれない業をいう。たとえば殺人を犯し、それが原因となって将来地獄に堕るとすれば、そこに原因と結果をつなぐ目に見えない無表業があるという)
(注2、五蘊とは色・受・想・行・識のこと)
一類の身心相続し、輪廻転生止むことなきは、一切衆生界の状相なりとす。しかしてかく衆生の心身をして転生相続せしめ、永く此の苦界に在らしむるものは、所謂煩悩と業力に因るものなりとす。
煩悩とは衆生の身心は因縁生の物柄にして、本来無自性空なるものを、顛倒妄執し、堅実常住の我体ありと誤認し、此の我執を本として起こる、頓瞋痴等の妄念なり。業とは衆生の行為である。・・生死輪廻の因となるものは強大なる善悪の業によって繋發されたる無形の勢力すなわち無表業(注1)なり。此の無表業が身心に留存し、一類の五蘊(注2)をして生死界に相続せしめ転生せしむとなす。
(注1、無表業とは業の余勢ともいうべき存在のことであり、そのままの形では外にあらわれない業をいう。たとえば殺人を犯し、それが原因となって将来地獄に堕るとすれば、そこに原因と結果をつなぐ目に見えない無表業があるという)
(注2、五蘊とは色・受・想・行・識のこと)