福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「苦難の意味」

2014-09-06 | 法話
聖書では「苦難」は「神のみわざがあらわれるためである」とされますが、「神の御業があらわれたのである」と考えることもできると思います。両方の解釈が可能です。四国遍路で会った、難病の子供達を多く見てきたというレントゲン技師は「こういう難病の子たちは仏様のお仕事をしているのです」といいました。


(注「ヨハネ9章1-7節。
イエスが道を通られているとき生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生この人が生まれつき盲人なのは誰かが罪をおかしたためですか、本人ですか、それともその両親ですか』イエスは答えられた。『本人が罪を犯したのでもなく、またその両親が犯したのでもない。ただ神にみわざが彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを昼の間にしなければならない。夜が来る。するとだれも働けなくなる。わたしはこの世にいる間は世の光である。』イエスはそういって地に唾し、その唾でどろを作りその泥を盲人の目に塗っていわれた『シロアム(つかわされたもの)の池にいって洗いなさい。』そこで彼は行って洗った。そして見える様になって帰って行た。」)
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