Q,最近直葬、樹木葬、散骨等がはやっているようですがこれをどう考えればいいのですか?その3
A,
さきに死後の世界はあること、死後の魂はあることを述べましたが、そうすると死者の魂を導く葬儀は必須の事になります。
・葬儀については、能仁柏巌撰述『曹洞宗問題十説』(明治八年(1875))がよくまとまっています。
「送終部十条
一に葬法
法苑珠林第百十六に云く、天竺に四種の葬法あり。一には水葬、謂く江河に投て魚を飼う。二には火葬、謂ク薪を積でこれを焚く、荼毘とも闍維(じやゆい)とも謂う。涅槃経に仏火葬の趣を告げ玉う事あり。三には土葬、岸辺に埋て速に朽を取る。四には林葬、謂く寒林に(墓所)捨て置て禽獣を飼う。・・・
皇国の葬法は古事記上に「伊邪那美神は葬ること出雲国と伯伎国の堺、比婆山上也」トアリ。書紀第二、天稚彦の葬法ありしより人皇に見えたり。
僧の火葬は道照法師を始とす。(続日本紀第一)人皇三十七代孝徳天皇勅を下して貴賤の葬法を定められたり。庶人は殯することを得えざれ。葬地を一所にせよ。処々に埋て穢す事勿れと。
・・推古天皇以来千有余年、葬儀は大抵みな仏道に任じ来れども明治七年一月二十九日太政官布告に云く、葬儀は神官僧侶の内へ相い頼むべき旨、壬申六月第百九十三号布告候処、自今教導職の輩へは信仰ニ寄葬儀相頼候義不苦候条此旨布告候事。」
これによると、葬儀は神話の時代より始まったが、昔は庶民は殯すること(死者を本葬するまでの間別れを惜しむこと)、墓をつくることを禁じられていた事が分ります。
・このように庶民はきちんとした葬儀はしてもらえなかったようですが、鎌倉新仏教は葬式仏教としてこうした庶民の願いに応えていった面を持っていました。禅宗、時宗などでは寺で火葬場を運営していましたし、各地の寺院の開創年代が最も多い時期は十六世紀後半から十七世紀前半にかけてでありそれはこうした庶民からの葬送要求の高まりによるものであるとする研究結果もあります。
南北朝期には十三佛信仰が定着し、初七日から三十三回忌までの供養が行われるようになりました。
地蔵菩薩本願功徳経には「身死するの後、七七日のうちに広く衆の善を造らば諸々の衆生をして永く悪趣をはなれしめ、人天に生ずることを得て勝妙の楽を受けしめ、現在の眷属は利益無量たるべし。命終わるの日に臨みて、一佛名、一菩薩名、一辟支仏名を聞くを得れば罪あると罪なきとを問わず悉く解脱を得べし」とあり、大灌頂経には「・・尊経を転読して三七日を迎うべし。然るゆえんは命終の人、中陰の中にありて身小児の如し、罪福いまだ定まらず、まさに為に福を修すべし。願わくは亡者の神、十方無量の刹土(浄土)に生じ、この功徳を受けて必ず往生せしめん」とあります。中陰とは中有にある五陰のことで死んで後次の行先の決まるまでの四九日間のことを言います。この間は遺族が良い香りの香を焚き、追善供養により故人の霊位を上げることに努めるべきとされます。
「往生要集」には「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。 道俗貴賤 たれか帰せざるものあらん・・」とあります。源信僧正はあの世の存在を前提に極楽往生が人生最大の目的である、といっておられるのです。
A,
さきに死後の世界はあること、死後の魂はあることを述べましたが、そうすると死者の魂を導く葬儀は必須の事になります。
・葬儀については、能仁柏巌撰述『曹洞宗問題十説』(明治八年(1875))がよくまとまっています。
「送終部十条
一に葬法
法苑珠林第百十六に云く、天竺に四種の葬法あり。一には水葬、謂く江河に投て魚を飼う。二には火葬、謂ク薪を積でこれを焚く、荼毘とも闍維(じやゆい)とも謂う。涅槃経に仏火葬の趣を告げ玉う事あり。三には土葬、岸辺に埋て速に朽を取る。四には林葬、謂く寒林に(墓所)捨て置て禽獣を飼う。・・・
皇国の葬法は古事記上に「伊邪那美神は葬ること出雲国と伯伎国の堺、比婆山上也」トアリ。書紀第二、天稚彦の葬法ありしより人皇に見えたり。
僧の火葬は道照法師を始とす。(続日本紀第一)人皇三十七代孝徳天皇勅を下して貴賤の葬法を定められたり。庶人は殯することを得えざれ。葬地を一所にせよ。処々に埋て穢す事勿れと。
・・推古天皇以来千有余年、葬儀は大抵みな仏道に任じ来れども明治七年一月二十九日太政官布告に云く、葬儀は神官僧侶の内へ相い頼むべき旨、壬申六月第百九十三号布告候処、自今教導職の輩へは信仰ニ寄葬儀相頼候義不苦候条此旨布告候事。」
これによると、葬儀は神話の時代より始まったが、昔は庶民は殯すること(死者を本葬するまでの間別れを惜しむこと)、墓をつくることを禁じられていた事が分ります。
・このように庶民はきちんとした葬儀はしてもらえなかったようですが、鎌倉新仏教は葬式仏教としてこうした庶民の願いに応えていった面を持っていました。禅宗、時宗などでは寺で火葬場を運営していましたし、各地の寺院の開創年代が最も多い時期は十六世紀後半から十七世紀前半にかけてでありそれはこうした庶民からの葬送要求の高まりによるものであるとする研究結果もあります。
南北朝期には十三佛信仰が定着し、初七日から三十三回忌までの供養が行われるようになりました。
地蔵菩薩本願功徳経には「身死するの後、七七日のうちに広く衆の善を造らば諸々の衆生をして永く悪趣をはなれしめ、人天に生ずることを得て勝妙の楽を受けしめ、現在の眷属は利益無量たるべし。命終わるの日に臨みて、一佛名、一菩薩名、一辟支仏名を聞くを得れば罪あると罪なきとを問わず悉く解脱を得べし」とあり、大灌頂経には「・・尊経を転読して三七日を迎うべし。然るゆえんは命終の人、中陰の中にありて身小児の如し、罪福いまだ定まらず、まさに為に福を修すべし。願わくは亡者の神、十方無量の刹土(浄土)に生じ、この功徳を受けて必ず往生せしめん」とあります。中陰とは中有にある五陰のことで死んで後次の行先の決まるまでの四九日間のことを言います。この間は遺族が良い香りの香を焚き、追善供養により故人の霊位を上げることに努めるべきとされます。
「往生要集」には「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。 道俗貴賤 たれか帰せざるものあらん・・」とあります。源信僧正はあの世の存在を前提に極楽往生が人生最大の目的である、といっておられるのです。