大日如来は不断に具体的救済活動をされている、これを法身説法という。
「・・(大師は)三教指帰にも顕れているように、仏身を体得したものは寂静に帰することはない、不断常恒に救済の活動をしなければならぬ。法身は理体(事と理は対立して考られてきた。「事」とは現象面をいい、「理」とは本質面をいう。密教では「事即理」といい、現象の姿そのままに真理があるという)であるという常識をここに転じて不断の救済活動をせられる理体こそ法身であるという一大佛格であると観見するに至った。この法身は活動するということを大師は法身は説法する(注)ということで表現されたのである。(密教学密教史論文集「大日如来の仏格・・弘法大師の大日如来観」中野義照)
(注、大師は「法身は常に光明を放って常に説法したまへども、衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照らすときはすなわち見、垢翳不浄なるときはすなわち所見なきがごとし。(弁顕密二教論)」「毘盧遮那の一切の身業、一切の語業、一切處一切時において有情界において真言道句の法を宣説したまふ(秘密曼荼羅十住心論第十)」「真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり(秘蔵寶鑰)」等とおしゃっています。・・)
この傳でいくと、蘇東坡の「贈東林総長老」 「 渓声便ち是広長舌、 山色豈に清浄身に非んや、 夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せん 」も「山や渓が夜も不断に衆生済度をしている、これを人々よ気付けよ」という意味になります。
「・・(大師は)三教指帰にも顕れているように、仏身を体得したものは寂静に帰することはない、不断常恒に救済の活動をしなければならぬ。法身は理体(事と理は対立して考られてきた。「事」とは現象面をいい、「理」とは本質面をいう。密教では「事即理」といい、現象の姿そのままに真理があるという)であるという常識をここに転じて不断の救済活動をせられる理体こそ法身であるという一大佛格であると観見するに至った。この法身は活動するということを大師は法身は説法する(注)ということで表現されたのである。(密教学密教史論文集「大日如来の仏格・・弘法大師の大日如来観」中野義照)
(注、大師は「法身は常に光明を放って常に説法したまへども、衆生は無量劫の罪垢厚重なることあって見ず聞かざること、明鏡浄水の面を照らすときはすなわち見、垢翳不浄なるときはすなわち所見なきがごとし。(弁顕密二教論)」「毘盧遮那の一切の身業、一切の語業、一切處一切時において有情界において真言道句の法を宣説したまふ(秘密曼荼羅十住心論第十)」「真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり(秘蔵寶鑰)」等とおしゃっています。・・)
この傳でいくと、蘇東坡の「贈東林総長老」 「 渓声便ち是広長舌、 山色豈に清浄身に非んや、 夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せん 」も「山や渓が夜も不断に衆生済度をしている、これを人々よ気付けよ」という意味になります。