福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

8月6日に・・

2012-08-06 | 法話
1、 ことしも8月6日がきました、村上春樹はカタルーニャ国際賞スピーチ 『我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった 』で
以下のように言っています。
「・・広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
・・我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?・・ 理由は簡単です。「効率」です。

 ・・原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。・・

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは・・日本人の倫理と規範の敗北でもありました。 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」・・

 
 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

  それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 ・・損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。」

2、我々衆生の愚かさは無限に深いものです。
伝教大師が「愚中極愚。狂中極狂。塵禿有情。底下最澄(願文)」とおっしゃり、、親鸞上人が「愚禿釈親鸞」とおっしゃり、また法然上人について『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひしことを、たしかにうけたまはり候(親鸞聖人御消息)」とのべられ、良家和尚が自ら「大愚良寛」とされたことを思い出します。興教大師覚鑁上人の密厳院発露懺悔文の最初は「我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏はれて衆罪を造る」です。
そして各宗派ではお経の最初には必ず華厳経からとった懺悔文「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身語意之所生、一切我今皆懺悔」をとなえます。
これらは我々衆生は過去から恐ろしい「業(共業を含む)」を無量に積み重ねてきたという自覚にたっています。祖師方はこの自覚なくしてはすべてが砂上の楼閣だとおっしゃっておられるのでしょう。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 法然上人の一四五箇条問答より | トップ | お薬師様のご真言の有り難さ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事