福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その68

2014-04-15 | 講員の活動等ご紹介

第六八課 差別と平等


 仏像には大概、両脇に菩薩の像が附いております。これを脇士きょうじと言います。脇士に対して中央にある仏像は本尊です。
 釈迦如来を本尊とする仏像の脇士は、左に文殊菩薩、右に普賢ふげん菩薩であります。これにはいろいろの意味がありますが、もし文殊が平等を現す場合には、普賢は差別を現すことになっております。真理というものは、一方に平等、一方に差別を控えて、ちょうど、車の両輪のように自分を運ばせて行きます。本尊の釈迦如来は、その平衡バランスの取れた円満な真理を現しております。
 だが、差別と平等の基本の存在は、その二つが別々になって存在しているのではありません。融け合い、通じ合って行われているものです。たとえば隅田川、淀川、信濃川、めいめい違った相すがた、形の特色を持っております。ここに差別があります。しかし、どの川といえども水の流れてない川はない。この共通性から言えば平等です。そして隅田川すなわち水の流れたものであり、水の流れも隅田堤へ、流れて来ねば隅田川とは呼ばれません。この関係から、ほぼ差別性と平等性とは、即つかず離れぬ関係にあることが判るのであります。
 それならば物事すべて、そのままが真理かというと、そうはゆかないのであります。自然の勢いの赴くところ、必ずどちらかへ傾き過ぎるものであります。よって、時と場合と、事情を考えて、どちらかへ補修しなければならないことがあります。
 例えば、水はなるべく流す方がいいといって洪水の勢いを、そのままにして、滔々満々浸すに任せて置いたら、両岸の人家まで迷惑して害となります。この場合には、水を排はかせるなり、両岸を高く築き固めるなりして害を除きます。
 またこれと反対に隅田川をいよいよ隅田川らしい好風景にしようと思って、沢山桜の出崎を拵えてみたり、川を浅くして菖蒲を植えて見たり、都鳥の飼場を設けたりして、水の流れは、ただ風致を助けるためとばかり気取って曲りくねらせるとする。それでは、折角の帝都の舟筏ふねいかだの便が妨げられるのであります。こういうときには、その弊害を矯めて舟筏の便の通ずるだけ河筋を通さねばなりません。これこそ平等と差別の使い分けであります。この場合、特に差別を愛し、平等を憎み、あるいは平等を愛し、差別を憎んでそうするのではありません。差別にも平等にも、自ずからそれ相当の価値と限度があって、病に対する対症療法のようなものです。物事、道に中あたって行われるようになれば、差別も平等も自ずと退いて淡々如々たる位置を守らしめるだけであります。もし一方に偏して、これを万病薬のように固執するならば、腫物が癒ってなお膏薬を貼っているようなものであります。そうかといって初めから薬を無視し、病を見送っているように自然の成行きのままに任せ最後はどちらかへ極端に走らせるのも愚かしいことです。
 差別の相すがたから言えば、人々、素質が違い、教養が違い、趣味が違い、体格能力が違い、因縁果の違いがあります。
 平等の体たいから言えば、人々、同じ人間であり、同じく本能を持ち、同じく生命を養い生活を享受し子孫を遺そうとしております。
 その他、あらゆる物事に、差別と平等が時に結び時に離れて、紛然雑然として起滅きめつを繰返しております。
 私たちは、この間に処し、自分自身に対してさえ、当然なるものはこれを許し、不当なるものはこれを斥け、円満調和の中道を守って行くには、深く現実の知識経験を養い、その上に篤く仏智の照明を仰いで慎重に事を行わねばなりません。しかし、理としては、必ずや通ずる道は備わっておるのでありますから、気持ちとしては決して萎靡消沈せず、一歩一歩希望を以て踏み出して行くべきであります。
 差別と平等の理については、洞山とうざん大師(洞山悟本とうざんごほん大師は支那禅宗、曹洞宗の開祖です。唐の大中年の頃の人)の正偏五位しょうへんごいというのがありますから左に御紹介しましょう。

   正偏五位
 正というのは平等方面のことであります。偏へんというのは差別方面のことであります。事々物々の上に、平等と差別が、こういうふうに入り混り融合している。その理を以下五項に分って説明してあります。

(一)正中偏しょうちゅうへん

平等方面を中心にして、差別方面を眺めた形であります。例えば一軒の家庭に在っては、主人が正月、家族一同に屠蘇の盃を与える場合であります。妻子、召使いめいめい差別はあるが、この場合には同じようにみな家族員として年賀を交し、盃を与えます。吾子は身内だからとて、五杯、十杯も与え、書生さんは他人だからとて半杯ということはありません。

(二)偏中正へんちゅうしょう

今度は差別方面から平等方面を眺めた形であります。例えば、主人夫妻が銀婚式をすることになりました。家族一同が心々の祝いものを贈る場合とします。もう学校を卒業して月給も取れている長男夫婦は銀の置時計ぐらい奮発しましょうし、女学校へ行っている娘は手芸を丹精して贈りましょうし、幼稚園へ通っている末の子は富士山の貼紙細工でもして贈りましょう。また書生さんは郷里から産物でも取り寄せて贈るかも知れません。これはおのおの身分資力に応じて差別があるところに、祝いの真心が表れるので、差別あるこそ主人夫妻には平等な祝意が家族一同より感じられるのであります。もしこれを平等にして家族いずれも銀時計としたならば主人夫妻はよほど妙な感じが致しましょう。

(三)正中来しょうちゅうらい

次は平等方面のみを眺むる場合であります。例えば一家にあっては、目上も目下も大人も小人も、みな一人ずつの人間として扱われて、頭数で数えられるような場合です。人口調査係りに家族の数を申出るのに、主人は肥って大きいから三人分にし、赤ん坊は小さいから人数のうちから省いてくれというようなもので、それは調査係りの承知しないところです。やはり平等にすべきです。

(四)偏中至へんちゅうし

これは前のものとは反対に差別方面のみを眺めた場合です。家族一同業務に就くときは、主人は背広服を着て事務所へ、主婦は茶の間で家事の采配、子供は学校、書生さんは取次ぎかたがた勉強、めいめい平等方面を引込まして差別方面だけ働かす場合です。もしこの場合平等性もいいといって一同茶の間へ集って家事の采配を揮ふったら一家は立ち行かなくなるでしょう。

(五)兼中到けんちゅうとう

これは、以上のような差別を行っても差別に捉われず、平等を行っても平等に捉われず、しかもいつでも適切にどちらでも使える用意のある当体。いわゆる中道の真理であります。一家に在っては家族一同が無意識のうちに協力一致している親和力に当りましょう。

 もちろん、右は大体の原理で、実際の現実というものは、もっとデリケートな使い分けをしなくてはならないものでありましょう。ですから、それだけ余計に心の鏡は物事の真相の微影だも洩さぬよう、常に拭き清めて置く必要があります。
 平等の文殊と、差別の普賢を脇士に控えた中道真理の釈迦如来の仏像。それは現実そのものの相すがたであると同時に、またなかなか味わい切れぬ意味の深いものがあるのであります。

(密教では全てが大日如来でありそれぞれが受け持った働きをするために存在すると考えます。曼荼羅の諸尊はそれぞれが大日如来であるがそれぞれ調和しつつ異なった働きをされて衆生済度に努めておられます。)
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