大日経では阿闍梨の持つべき徳の第一は骨身に徹した衆生済度の菩提心としています。
真言密教では末法とはいわず常に正法のまっただ中といいますがこういう多くの入定僧の存在を知るとまさにその感を深くします。
58番仙遊寺の大師堂は有難いことに中に入って拝めます。お大師様は黒光りのする眼光鋭いお姿です。香煙でまっ黒に染まったお体の中からものすごい眼光を発しておられます。東寺御影堂のお大師様そっくりです。
水原堯栄「弘法大師御影」によるとお大師様のお姿は以下のように分類されています。
「其の一、真如様式
真如親王の筆と伝えられる右方斜面向きにして右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て左手に百八果の念珠をお持ちになり胸を開かれて些かの屈託もなきお姿にして仙洞御所御料椅子に安座されている御影で、余はこれを真如様式とよぶ。(西新井大師の鎌倉時代の重文「弘法大師像」などこれ。)
其の二、八祖様式
其の一の真如様式と同じであるが四脚の床座の上に坐しておられるお姿。真言八祖像にみられるもの。
其の三、善通寺様式
其の一の真如様式の大師お姿左上に釈迦如来影現の描かれたるもの。塵添壒嚢鈔に「大師の御影の上に山端に,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」とある。醍醐三宝院のこの様式の御影の軸表紙に「善通寺形大師」と題されている。
其の四、稚児大師
童形の大師像。月輪中に蓮華を描き蓮華の上に垂髪姿金剛合掌の童子御姿。はじめてこれを書かれたのは勤操大徳であるとされるが、この構図は「御遺言」の「夫以吾昔得生在父母家時。生年五六之間、夢常見居坐八葉蓮華之中諸佛共語也」(そもそも思いめぐらしてみれば、わたくしが昔生まれて、父母の家にいた、5,6歳の頃、いつも八葉の蓮華の中に坐って諸仏と共に語る夢を見た)という文より図案せられたもの。
其の四の一、稚児大師(道順様式)
道順の「御遺言大事」の文意より構案されたものでさきの稚児大師像で月輪中に剣或は如意宝珠をお持ちになっているもの。
其の五、入木道の大師
東寺観智院蔵狩野守信筆の像、右手に筆、左手に紙で机にお座りのもの。
其の六、秘剣大師
大師は「般若心経秘鍵」で「文殊の利剣は諸戯を断つ 覚母の梵文は調御の師なり チクマンの真言を種子と為す 諸経を含蔵せる陀羅尼なり」と述べられています。文殊菩薩の利剣をお持ちになり衆生を利益するお姿です。
其の七、日輪大師
日輪中に蓮華を描きその中に右手に五古杵、左手掌上に五輪塔を捧げておられるもの。」
水原堯栄「弘法大師御影」には大体以上に整理されていますが「奇瑞因縁より内証三昧よりの伝説口碑ならびに文献によって構図されたる種々の御影が流伝されている。」とも付け加えてあります。
これによるとここ58番仙遊寺のお大師様は八祖様式でしょうか。ここのお大師様を拝んだおかげで多分京都東寺の後七日御修法(ごひちにちみしほ)の結願にご縁を頂いたのだと思います。縁を頂き、19年1月14日はじめて東寺の後七日御修法を拝しました。
この時は朝6時お大師様のご住坊である東寺御影堂で導師の精進供修法の中お大師様に供物をお供えするのをみまもりつつ、地元の信者さんたちと一緒に般若心経、ご詠歌やご宝号「南無大師遍照金剛」をくりかえしおとなえしました。
そして精進供が終わると「南無大師遍照金剛」の大合唱のなか信者さんと共に袱紗につつまれたお舎利(お釈迦様のお骨)を東寺の僧侶から頭と両手にいただきました。その後特別に内陣のご本尊お大師様を拝させていただきました。天福元年(1233)、に運慶の子康勝が造ったものです。お祀りして以来800年御影堂で数えきれない人々の祈りを受け止めてこられたお大師様は黒く光ってものすごい霊気を発しておられました。おもわず床にひれふしました。
旧制東寺中学は父の通った学校でもありました。その後不思議なご縁で中天相承悉曇伝承者松本俊彰先生の伝授を受け平成23年に免許を頂きました。
東寺には代々不思議なご縁を頂き、本当にありがたい限りです。いつも新幹線で通る時、東寺の五重塔を見るたびに父の面影を感じて遥拝します。
真言密教では末法とはいわず常に正法のまっただ中といいますがこういう多くの入定僧の存在を知るとまさにその感を深くします。
58番仙遊寺の大師堂は有難いことに中に入って拝めます。お大師様は黒光りのする眼光鋭いお姿です。香煙でまっ黒に染まったお体の中からものすごい眼光を発しておられます。東寺御影堂のお大師様そっくりです。
水原堯栄「弘法大師御影」によるとお大師様のお姿は以下のように分類されています。
「其の一、真如様式
真如親王の筆と伝えられる右方斜面向きにして右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て左手に百八果の念珠をお持ちになり胸を開かれて些かの屈託もなきお姿にして仙洞御所御料椅子に安座されている御影で、余はこれを真如様式とよぶ。(西新井大師の鎌倉時代の重文「弘法大師像」などこれ。)
其の二、八祖様式
其の一の真如様式と同じであるが四脚の床座の上に坐しておられるお姿。真言八祖像にみられるもの。
其の三、善通寺様式
其の一の真如様式の大師お姿左上に釈迦如来影現の描かれたるもの。塵添壒嚢鈔に「大師の御影の上に山端に,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」とある。醍醐三宝院のこの様式の御影の軸表紙に「善通寺形大師」と題されている。
其の四、稚児大師
童形の大師像。月輪中に蓮華を描き蓮華の上に垂髪姿金剛合掌の童子御姿。はじめてこれを書かれたのは勤操大徳であるとされるが、この構図は「御遺言」の「夫以吾昔得生在父母家時。生年五六之間、夢常見居坐八葉蓮華之中諸佛共語也」(そもそも思いめぐらしてみれば、わたくしが昔生まれて、父母の家にいた、5,6歳の頃、いつも八葉の蓮華の中に坐って諸仏と共に語る夢を見た)という文より図案せられたもの。
其の四の一、稚児大師(道順様式)
道順の「御遺言大事」の文意より構案されたものでさきの稚児大師像で月輪中に剣或は如意宝珠をお持ちになっているもの。
其の五、入木道の大師
東寺観智院蔵狩野守信筆の像、右手に筆、左手に紙で机にお座りのもの。
其の六、秘剣大師
大師は「般若心経秘鍵」で「文殊の利剣は諸戯を断つ 覚母の梵文は調御の師なり チクマンの真言を種子と為す 諸経を含蔵せる陀羅尼なり」と述べられています。文殊菩薩の利剣をお持ちになり衆生を利益するお姿です。
其の七、日輪大師
日輪中に蓮華を描きその中に右手に五古杵、左手掌上に五輪塔を捧げておられるもの。」
水原堯栄「弘法大師御影」には大体以上に整理されていますが「奇瑞因縁より内証三昧よりの伝説口碑ならびに文献によって構図されたる種々の御影が流伝されている。」とも付け加えてあります。
これによるとここ58番仙遊寺のお大師様は八祖様式でしょうか。ここのお大師様を拝んだおかげで多分京都東寺の後七日御修法(ごひちにちみしほ)の結願にご縁を頂いたのだと思います。縁を頂き、19年1月14日はじめて東寺の後七日御修法を拝しました。
この時は朝6時お大師様のご住坊である東寺御影堂で導師の精進供修法の中お大師様に供物をお供えするのをみまもりつつ、地元の信者さんたちと一緒に般若心経、ご詠歌やご宝号「南無大師遍照金剛」をくりかえしおとなえしました。
そして精進供が終わると「南無大師遍照金剛」の大合唱のなか信者さんと共に袱紗につつまれたお舎利(お釈迦様のお骨)を東寺の僧侶から頭と両手にいただきました。その後特別に内陣のご本尊お大師様を拝させていただきました。天福元年(1233)、に運慶の子康勝が造ったものです。お祀りして以来800年御影堂で数えきれない人々の祈りを受け止めてこられたお大師様は黒く光ってものすごい霊気を発しておられました。おもわず床にひれふしました。
旧制東寺中学は父の通った学校でもありました。その後不思議なご縁で中天相承悉曇伝承者松本俊彰先生の伝授を受け平成23年に免許を頂きました。
東寺には代々不思議なご縁を頂き、本当にありがたい限りです。いつも新幹線で通る時、東寺の五重塔を見るたびに父の面影を感じて遥拝します。