福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論その23.

2023-08-23 | 諸経


此の二義によって恒常に熏習し、有力を以ての故に能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を樂求し、自ら己身に眞如の法ありと信じて法發心修行せしむるをいう。
問曰。若し如是の義ならば、一切衆生悉有眞如にして等しく皆な熏習せんに、云何んが有信と無信と無量に前後に差別するや。皆な應に一時に自ら眞如法有と知って、勤修方便して等しく涅槃に入るべけんや。
答曰。眞如本より一なり。而れども無量無邊の無明ありて、本より已來、自性差別し、厚薄も不同なるが故に、過恒沙等の上煩惱が無明によって差別を起こし、我見・愛染の煩惱が無明により差別を起こす。如是く、一切の煩惱は無明によって所起し、前後無量に差別するを唯だ如來のみ能く知るが故なり。(こういう二つの意味でいつも衆生に働きかけているのでいつの間にかその力が現れて衆生は苦しみを厭い、覚りを求め、自分にも真如が備わっていると信じて発心修行するようになるのである。
問う、もしそうならば皆同じように真如からの働きかけを受けているはずなのに、なぜ有信のもの無信のものとわかれるのか。またなぜ同時に覚りに入らないのか?
答え、真如は皆同じであるが無明は無限に多様であり、それぞれの煩悩の垢も厚さが違う故にガンジス川の砂より多い煩悩がこのような無明から生じている。我にこだわる考え・貪愛の煩惱の違いは無明の厚さの違いに依るのである。このように煩悩は無明により起こり、衆生により無数の違いを見せるがこの様子は如来のみよく知るところである。)

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