第一九課 好き嫌い
人間に心があり、心に感情がある以上、だれにも好き嫌いの気持ちがはたらくのはあたりまえです。それを好いてはいけない、嫌ってはいけない、と道学一ぺんに叱ってしまったら、目も鼻も撫でて延ばしてしまった顔のようなのっぺりした人間ばかりになってしまうでしょう。
松や桜や、梅や竹や、その百木千草の変化があって自然の風光が面白いように、人間に好き嫌いの気持ちの陰影があってこそ、むしろ人々の変化やリズムがあって面白い、世の中が単調に流れません。ですから好き嫌いは大いにあってよろしいのです。
ですがこういったあとで殊にも言い添えなければならないのは、くれぐれもその好き嫌いの気持ちに捉われてはいけないということです。捉われて、それをいこじに通して行こうとするとき、その人は我儘者になるわけです。
例えば「私はあの人は嫌いだから友達にしない。だからほかの誰でもみんなあの人を友達にしてはならない」というような、こんな嫌い方は絶対に我儘です。それはちょうど「私は松は嫌いだ。世の中から松なんか一本もなくしてしまえ、私は桜が好きだから桜ばかりにしてしまえ」というのと同じです。
これでは日本の風景にしても、吉野山や飛鳥山ばかりになり、須磨の眺めや明石の風光や松島の絶景はなくなってしまうわけです。それと同じように人間でも「私はあの人は嫌いだけれど誰々さんには好く見えるのかも知れないからお友達になっているのだろうからそれで好い」とこう気を落ちつけて、自分が嫌いなものを自分だけで嫌っていれば宜い。自分の嫌いな気持ちでその人を追いかけて行って、その人の好かれる場所まで入って邪魔をするなどは我儘な仕業です。それは世の中の調和を乱す者でありまして許さるまじき勝手です。この弊に落ち入ってしまった人は自分自身しまいには身のあがきがつかぬ窮屈な境遇に立ち至らなければなりません。
仏教では「自然法爾じねんほうに」(自然そのままで持っている価値ねうち)といって天地間のあらゆる生物草木に至るまで、どれ一つとして仏性(尊い生命の種子)を備えておらぬものはない。それ故、使い方によっては何一つとして捨てるもの、無駄なものはないとしてあります。ですから何ものに対しても、そのものの価値を絶対に無視することは許されません。それは自然への冒涜です。天地仏神への不敬に亘りやがて自分も罰せられなければなりません。
くれぐれも好き嫌いは自分および自分と同好同志の間柄だけに止めて置き、それによって天下の調和を乱さぬことです。(「人生生涯小僧のこころ」という本だったと思いますが、吉野・金峯山寺開創以来二人目の千日回峰成満者塩沢亮潤師が「お寺で修業していてもどうしても好きになれないひとがいたが、いのっているといつの間にか仲良しになれた。・・」という趣旨の事を書いておられました。こういう大阿闍梨にしてまだ好き嫌いの念が残るということに親近感を感じましたが、それよりどんな嫌いな人でも祈りにより仲よくなるるということが素晴らしいことともいました。自分も継母と何十年もいがみ合ってきましたがある時生長の家信者の伯母がこのまままでは運勢が拓けないから継母と和解しなさい、それには継母の幸せを祈りなさいといいました。以来継母の幸せを形式的にせよ祈ることを始めたらいつの間にか継母との間も好転したということがありました。人間の本性からして、片時も忘れることなく永遠に憎み続けるということはかえって難しいのかもしれません。)