観音霊験記真鈔11/33
西國十番山州三室戸寺千手の像、御身長一尺二寸45㎝、一説に二丈一尺6m30㎝餘の千手の像中に一尺二寸の像をこめおくと也。上来千手の像の義を講ずと雖も未盡なり。如是に今千手観音は諸仏菩薩の御尊像に秀で玉ひて千手千眼を得玉ふ心地は何由ぞと云ふに、一切有苦の衆生を悉く千眼を以て見玉ひ千手を以てそれぞれに苦を抜き樂を與へ玉ふ處の義を尊容にあらはし玉へり。此の故に千手經に云、我時當に千眼を以て照見し、千手を以て護持せん(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「如法に誦持せば是時當に日光菩薩月光菩薩、無量神仙と來するありて爲に益を證し其効驗を作さん。我時に當に千眼を以て照見し千手をもって護持せん」)。
知禮師千手千眼大悲心呪行法に云、観音の一身に千手眼あり、手に提抜の力あり、眼に照明の用あり、即ち是一千の神通智慧なり、一身に千手眼を具し一身を離れず、乃し一念即ち千の通慧、千種の通慧一念を離れざるを表す(千手眼大悲心呪行法・四明沙門知禮集「觀音一身有千手眼。手有提拔之力。眼有照明之用。即是一千神通智慧也。一身具千手眼。千手眼不離一身。乃表一念即千通慧。十種通慧不離一念。」)。
されば愚迷の衆生千人萬人千差万別にいろいろ苦患を受ることを観音一念大悲の哀み深き故に御身躰に千手千眼を顕し、種々不同に方便なされ救済し玉ふこと知禮釋判して「一念即千」とは仰せられき。されば此の観音大悲の化用、無量なる故に千手千眼に限らず尊像多数あり。楞巌経に云、世尊我又此の圓通を得て無上道を修証するが故に乃至能く衆多の妙用を現じ、能く無量無邊の秘密神呪を説く。其の中に或は一首三首五首七首九首十一首、如是乃至一百八首。千首萬首八萬四千爍迦囉(此れ堅固と云ふ)首二臂四臂六臂八臂。十臂十二臂十四十六十八二十至二十四。如是乃至一百八臂千臂萬臂。八萬四千母陀羅(此れ印手と云ふ)臂二目三目四目九目。如是乃至一百八目千目萬目。八萬四千の清淨の寶目。或は慈、或は威、或は定、或は慧。衆生を救護して大自在を得たり。(大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經卷第六。「世尊我又獲是圓通修證無上道故。又能善獲四不思議無作妙徳。一者由我初獲妙妙聞心心精遺聞。見聞覺知不能分隔。成一圓融清淨寶覺。故我能現衆多妙容。能説無邊祕密神呪。其中或現一首三首。五首七首九首十一首。如是乃至一百八首。千首萬首八萬四千爍迦囉首。二臂四臂六臂八臂。十臂十二臂十四十六。十八二十至二十四。如是乃至一百八臂千臂萬臂。八萬四千母陀羅臂。二目三目四目九目。如是乃至一百八目千目萬目。八萬四千清淨寶目。或慈或威或定或慧。救護衆生得大自在。」)
此の如く観音の尊容に首臂目數多在すことは衆生得脱の為に大悲方便の化用なり。
西國十番目山城國宇治郡御室寺一尺二寸千手観音の像は或人の云く、此の寺に昔瀧孟法師と云人在せり。戒行精進にして神异(神異)あり。常に千手観音の呪を持誦し、身には草衣を著て木食朝斎せり。一日三室の奥山に瑞光あり、尋ね昇りて見れば千手陀羅尼を誦せる音あり。怪しみて顧みれば山河瀧淵となりて雷電の如く鳴動せり。法師観念に住して且くも驚かず。但だ千手の呪を誦して坐せり。暫くあって山河忽ち瑠璃の色と變じて大光明を放ち忽然として一尺二寸ばかりの閻浮檀金の千手観音の像に變じ玉ひて云く、汝信根深きを以ての故に此の巷に出生せり。我常に一切衆生を憐むこと父母の一子を念ずるが如くおぼへず悲願心がほころび出て如是なり。自今已後、此の阡(ちまた)に居して参詣の衆生は言ふに足らず皇城を守り、群類を浄土に引導せん。殊に末世の罪深き女性を済度せんと。霊験あらたに告勅ましまして光を放ち瀧孟法師の衣の袖にうつり玉ふを、持して帰へり一宇を建立して此の像を安置し玉ふ。數多の奇瑞ましますこと言に演叵(のべかた)し。故に今西國十番目に安坐し玉ふとなり。
歌に「終夜月於御室登明行波宇治之河瀬丹立輪白波」(よもすがら つきをみむろと わけゆけば うじのかわせに たつはしらなみ)
私に云く、歌の意は月を見ると云ふ枕詞に「御室」と言かけ、又戸を開くるといふ枕詞には「御室とあけゆけば」と上の句に詠ぜり。さて下の句の意は、夜の明け方の朝嵐が吹くものなれば、浪が立たひでかなはぬ事なり。故に「立は白浪」とよめり。次に裏の意は上の句の「月を御室」と云は、不變真如なるべし。下の句の「立は白浪」と云は、隨縁真如の意なるべし(不変真如とは真如が生滅を超えて不変であること。隨縁真如とは真如がさまざまな縁にしたがって作動すること)。古人の語に、本覚真如之月輪は生死長夜の闇を照らすとも釋せり.(中臣祓訓解、(伝弘法大師作)に、「伊勢大神託していわく、(天平年中、行基菩薩、聖武天皇の勅使として、造東大寺の事、祈誠し申したまふ。このときの御告文に)『実相真如の日輪、生死長夜の闇を明らかにし、本有常住の月輪、無明煩悩の雲を払う』)。又起信論に云く、大海の水の波に依りて波動するが如し云々、又云、如是の衆生の自性請浄心も無明の風に由りて動ず。心と無明と倶に形相無し。相捨離せず。(大乘起信論「以一切心識之相皆是無明。無明之相不離覺性。非可壞非不可壞。如大海水因風波動。水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。濕性不壞故。如是衆生自性清淨心。因無明風動。心與無明倶無形相不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅」)。又天台の云、九識満満たる大海より八識元初の波立て、六識麁強の凡夫となる矣。廣くは起信釋論等を開て見つべし。所詮歌の意は、真妄の二つを詠ずと雖も此の大悲の像に帰命したてまつれば無明の波も立てばたて、唯本覚の月と共に浄土へ往生すべしと云ふ意なるべし。已上。
弘法大師の御歌に
「法性の室津と聞けど我が住めば有為の波風立たぬ日もなし」(新勅撰和歌集巻第十釋教歌巻頭。安撰和歌集第十九釋教歌上巻頭。)
或人の歌に、不変真如を
「真なる道は空より示すなり、片よらざりし月を見るかも」
又歌に隨縁真如の意を
「いとどさへ吹かぬ水邊(みぎわ)に 立つ浪の うたてさはげる 今日の秋風」
西國の歌と引き合すべし。