四国88カ所遍路の旅その11
愛媛県「菩提の道場」の59番札所国分寺から、60番札所横峰寺までは27キロ近くもある。
横峰寺は四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所で、四国八十八ヶ所で3番目の「関所寺」。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。私たち巡礼仲間は、大型バスで、山麓のせとうちバス発着所(京屋旅館支店前)で、マイクロバスに乗り換えて、カーブの多い狭い山道を8キロほど登る。「大型バスは通行が不可」
巡礼をしていると様々な出会いがある。昔大阪に住んでいた頃友人と石鎚山に登山した。横峰寺は、石鎚山の中腹にある。それから何十年か経って、再びこの山に巡り会うとは思わなかった。忘れていた様々な想い出が蘇った。あのときの花の鮮やかさまで脳裏に浮かぶ。
<石鎚山>西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。
道幅の狭いカーブの多い道を揺られながら、この山で御大師様が修行をされたこと等を想い、私たちはバスでお参りに向かっているのを申し訳なく思った。駐車場からお寺までは10分ほど坂道を歩いて下る。少し下っていくと、朱塗りの鳥居が連なっている。緑の多い山道に、赤い色が映える。境内の裏から入る形になり、本堂・大師堂へ。
第60番 石鈇山 横峰寺
本 尊: 大日如来(伝弘法大師作)
開 基: 役行者小角
創 建: 白雉2年(651)
縁起によると、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、蔵王権現が現れ、その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建。また、石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間とされ、このときやはり蔵王権現が現れたという。そこで堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えたが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年に檀信徒の協力により復興した。
本堂は、神社風の権現造りで、大きな木々を背に、どっしりと佇んでいた。本堂左手前には、右手に剣、左手に星供の巻物を持っている星供大師が在る。石楠花が多く、未だ花は咲いていなかったが、濃緑の葉が一面山際を彩っていた。本堂、大師堂で納経。
納経を終え、静かな境内に佇むと、鳥の声や風のざわめきが聞こえる。「二度とない人生だから一輪の花にも、無限の愛を注いでいこう、一羽の鳥の声にも、無心の耳を傾けていこう。」詩人坂村真民の詩が、脳裏に浮かんでくる。いつも思うことだが、急な山の斜面にあるお寺は、材料を運び、それを建造した人々の、労力の上に立っている。頭の下がることである。又これまで数多の巡礼者が、歩き遍路でこのお寺に来ていることを思うと、足下の土までもが、いとおしく感じた。 つづく。 K&K
愛媛県「菩提の道場」の59番札所国分寺から、60番札所横峰寺までは27キロ近くもある。
横峰寺は四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所で、四国八十八ヶ所で3番目の「関所寺」。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。私たち巡礼仲間は、大型バスで、山麓のせとうちバス発着所(京屋旅館支店前)で、マイクロバスに乗り換えて、カーブの多い狭い山道を8キロほど登る。「大型バスは通行が不可」
巡礼をしていると様々な出会いがある。昔大阪に住んでいた頃友人と石鎚山に登山した。横峰寺は、石鎚山の中腹にある。それから何十年か経って、再びこの山に巡り会うとは思わなかった。忘れていた様々な想い出が蘇った。あのときの花の鮮やかさまで脳裏に浮かぶ。
<石鎚山>西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。
道幅の狭いカーブの多い道を揺られながら、この山で御大師様が修行をされたこと等を想い、私たちはバスでお参りに向かっているのを申し訳なく思った。駐車場からお寺までは10分ほど坂道を歩いて下る。少し下っていくと、朱塗りの鳥居が連なっている。緑の多い山道に、赤い色が映える。境内の裏から入る形になり、本堂・大師堂へ。
第60番 石鈇山 横峰寺
本 尊: 大日如来(伝弘法大師作)
開 基: 役行者小角
創 建: 白雉2年(651)
縁起によると、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、蔵王権現が現れ、その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建。また、石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間とされ、このときやはり蔵王権現が現れたという。そこで堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えたが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年に檀信徒の協力により復興した。
本堂は、神社風の権現造りで、大きな木々を背に、どっしりと佇んでいた。本堂左手前には、右手に剣、左手に星供の巻物を持っている星供大師が在る。石楠花が多く、未だ花は咲いていなかったが、濃緑の葉が一面山際を彩っていた。本堂、大師堂で納経。
納経を終え、静かな境内に佇むと、鳥の声や風のざわめきが聞こえる。「二度とない人生だから一輪の花にも、無限の愛を注いでいこう、一羽の鳥の声にも、無心の耳を傾けていこう。」詩人坂村真民の詩が、脳裏に浮かんでくる。いつも思うことだが、急な山の斜面にあるお寺は、材料を運び、それを建造した人々の、労力の上に立っている。頭の下がることである。又これまで数多の巡礼者が、歩き遍路でこのお寺に来ていることを思うと、足下の土までもが、いとおしく感じた。 つづく。 K&K