・「大乗経典はさまざまな聴衆を予想しているが、その根本的特徴は瞑想の体験の描写であるいうことができよう。日常経験を超越した世界の体験を生き生きとした具体的な形象によって表現する。例えば仏陀が瞑想に入ると、その冥想中の体験・・十方の無数の世界にいる無数の仏陀や菩薩やその他の生き者行動や言語など・・・を列席者がすべて具体的な形象とっして把握する。そいこには距離や時間やその他の制約はもはや存在しない。したがって冥想中の仏陀が一言も言わなくても聴衆はさまざまの教えを受け取る。瞑想からさめた仏陀と聴衆との問答はただ補足的な意味を持つにすぎないこともある。・・大乗経典は日常経験とは別な瞑想の対象の具体的な描写であると考えるとき、そこに解釈の鍵が見いだされる。(お経の話、渡辺照宏)」
・「仏陀が説いた『道』は瞑想の道である。・・・哲学は与えられた意識形式の範囲内にとどまり、この意識もとずいて通常の論理的思考の方法を用い、認識を獲得し、実存問題の回答を得ようというのであるが、これに反して、ヨーガ(仏教はヨーガの方法を採用している)は瞑想的精神方向であり、意識をいわば変化しうる要素と考え与えられた意識形態を超越し単に悟性的であるに過ぎない思考を拒否・・・によって高次の認識に達し、さらにまたあらゆる認識の彼岸に存在する最高の霊的目標に到りつこうとするのである。カントはその「心理学講義」において、「暗い表象の野に一つの財宝が横たわっていてそれ人間の認識の深い淵を構成しているが、我々はそこに達することはできない。」と言っている。此の「隠れた財宝」を本当に取り出そうというのがインドでヨーガと呼ばれている努力の目標に他ならないのであって、仏陀もまたこの努力を採用されたのである。・・仏教ではこういう意識状態の順列系列がきちんときまっていて、経典にはたびたび説かれている(布咜婆樓経(注)には特に明快に説いてある)。・・それゆえに仏陀は世界の有限性や無限性、永続性や非永続性、心霊や死後存続などのような形而上学的質問には答えなかった。なぜかというと、こういう質問をする人々は、与えられた意識形態の範囲にとどまり、通常の思考及び表象を用いて解答をでっちあげるつもりでいるが、仏陀はすべてそのような与えられた意識形象を超越するたの修行を教えるからなのである。・・仏陀はただの悟性的思考、哲学すること,思弁すること、理屈をもねることをすべてきっぱりと拒絶したのである。」(仏教、ヘルマン・ベック)
(注、布咜婆樓経
第一章
あるとき、わたしは、このように聞いた。
ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
アナータピンディカ園に、止まっておられた。
そのとき、遍行者である、ポッタパーダは、
三千人の行者と一緒に、マッリカー園にある、
ティンバル樹が茂る、エーカサーラカ堂に居た。
ある日、仏陀が、ポッタパーダを訪れると、
彼らの集団は、大声を出して、論争していた。
しかし、仏陀の到来に気づくと、彼らは言った。
「諸賢よ、静かにしろ、諸賢よ、静かにしろ。
沙門ゴータマが来られた、彼は論争を好まない。」
ポッタパーダは、仏陀に恭しく挨拶すると、
仏陀に席を譲って、自らは低い場所に座った。
そして、仏陀に対して、このように語り掛けた。
「ゴータマよ、我々に、説き示して下さい。
因と縁が有ると、心の作用が生じるのですか。
因と縁が無くても、心の作用は生じるのですか。」
「行者よ、心の作用は、因と縁に縛られる。
ある因縁が生じると、ある心象が生じてきて、
ある因縁が滅するとき、ある心象が滅していく。」
第二章
「行者よ、如来が現れると、価値が逆転し、
解脱の果報を知った人は、このように考える。
在家は不自由なことよ、出家は自由なことよと。」
「こうして、出家した者は、解脱に至るため、
戒を守り、諸根を守り、正念正智し、満足する。」
「それでは、どのように、戒を具足するのか。
行者よ、比丘が具足すべき、出家の十戒がある。
第一の戒は、殺生を禁じる、不殺生の戒である。
第二の戒は、偸盗を禁じる、不偸盗の戒である。
第三の戒は、邪淫を禁じる、不邪淫の戒である。
第四の戒は、虚言を禁じる、不妄語の戒である。
第五の戒は、冗談を禁じる、不綺語の戒である。
第六の戒は、悪口を禁じる、不悪口の戒である。
第七の戒は、陰口を禁じる、不両舌の戒である。
第八の戒は、貪欲を禁じる、不慳貪の戒である。
第九の戒は、瞋恚を禁じる、不瞋恚の戒である。
第十の戒は、愚痴を禁じる、不邪見の戒である。」
「それでは、どのように、諸根を保護するか。
行者よ、比丘が保護すべき、六つの感官がある。
第一の根は、眼により色を感じる、眼根である。
第二の根は、耳により声を感じる、耳根である。
第三の根は、鼻により香を感じる、鼻根である。
第四の根は、舌により味を感じる、舌根である。
第五の根は、身により触を感じる、身根である。
第六の根は、意により法を感じる、意根である。」
「それでは、どのように、正念正智するか。
行者よ、比丘衆は、いつでも、どこにいても、
何を念じるのか、正しく智って、正しく念じる。」
「それでは、どのように、満足を得るのか。
行者よ、喩えるなら、鳥が翼だけ持つように、
比丘衆は、衣鉢だけを持ち、満足するのである。」
「こうして、戒律、制感、正念正智、満足。
この四つの条件を得た者は、解脱に至るため、
世俗を離れて山奥に入り、深い禅定に安住する。」
第三章
「一方で、瞑想を妨げる、五つの条件がある。
行者よ、禅定を妨げる、五つの蓋は何のことか。」
「第一に、貪りに囚われる、貪欲蓋である。
喩えるなら、金を返すために、金を借りると、
返しても、返しても、苦しくなるようなものだ。」
「第二に、瞋りに囚われる、瞋恚蓋である。
喩えるなら、嫌いなものでも、食べなければ、
病になり、好きなものも、食べられないようだ。」
「第三に、眠りに囚われる、昏眠蓋である。
喩えるなら、金を盗んで、牢に捕われた者が、
金が有っても、金を使えないようなものである。」
「第四に、焦りに囚われる、掉悔蓋である。
喩えるなら、奴隷が、自由を求めるあまりに、
ますます、不自由を感じてしまうようなものだ。」
「第五に、疑いに囚われる、愚痴蓋である。
喩えるなら、酔って、不安を忘れようとして、
ますます、覚めて、不安を覚えるようなものだ。」
第四章
「賢い遍行者よ、これらの蓋を越えた者は、
戒により護られて、恐れが無くなるのである。
そして、それにより、念が集中するようになる。」
「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」
「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」
「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」
「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、清浄を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の清浄で満たされている。」
「賢い遍行者よ、これらの禅を修めた者は、
四つの色界を離れ、四つの無色の禅定に入る。
それでは、四つの無色界とは、如何なるものか。」
「第一の界とは、有辺であり、無辺である、
有辺と無辺の対立を越えた、空無辺処である。
その時、彼は、無辺を観じる、辺を感じている。」
「第二の界とは、有識であり、無識である、
有識と無識の対立を越えた、識無辺処である。
その時、彼は、無識を観じる、識を感じている。」
「第三の界とは、有我であり、無我である、
有我と無我の対立を超えた、無所有処である。
その時、彼は、無我を観じる、我を感じている。」
「第四の界は、非想であり、非非想である、
非想と非非想を越えた、非想非非想処である。
その時、彼は、非想を観じる、非非想を感じる。」
「四つの色界を越え、四つの無色界を超え、
あらゆる想を滅し、滅想受定に入るのである。
そのとき、彼は、輪廻を観じて、涅槃を感じる。」
第五章
「尊師よ、アートマンにより、心が生じて、
世界を観じるときに、世界を感じるのですか。
アートマンが無ければ、心は生じないのですか。」
「アートマンを、どのように捉えてますか。」
「尊師よ、物なるもの、欲界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、欲界を越えています。」
「アートマンを、どのように捉えてますか。」
「尊師よ、形あるもの、色界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、色界を越えています。」
「アートマンを、どのように捉えてますか。」
「尊師よ、意なるもの、法界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、
つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。
無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確めるべきであり、語るべきではない。」
「行者よ、語ることが出来る、四つの真理、
実際に確めることが出来る、四つの諦がある。
それでは、この四つの諦とは、如何なるものか。
第一は、全ては苦しみであること、苦諦である。
第二は、苦しみは必ず生じること、集諦である。
第三は、苦しみは必ず滅すること、滅諦である。
第四は、苦を越える道があること、道諦である。」
心から感動して、ポッタパーダは、こう言った。
「ああ、これは、とても、妙なる教えです。
さながら、暗闇の中で、灯火を掲げるように、
仏陀は、私の見えない目に、見せてくれました。」
「仏陀よ、これより、この命が尽きるまで、
私は、心から、仏と法と僧に帰依し奉ります。
三宝の帰依者として、どうか受け容れて下さい。」
第六章
その数日後、象使いの子である、チッタは、
仏陀の止まる、アナータピンディカ園を訪れ、
恭しく挨拶すると、仏陀に対して、こう尋ねた。
「有るとも言えて、無いとも言えるような、
真我なるものを、どうして説くのでしょうか。
尊師よ、解かない法が、良いのではないですか。」
「チッタよ、その問いに、答えるためには、
この頼み事に、応えてもらわないとならない。
さあ、ここまで、最高の美女を連れて来なさい。」
「尊師よ、その美女の名前を教えて下さい。」
「チッタよ、名は知らないが、最高の美女だ。」
「では、無理です、誰が最高か確められません。」
「チッタよ、まさしく、これと同じである。
名が付けられるのは、命を確めるためであり、
実に、概念を説くのは、概念を解くためである。」
「真我を説くのは、真我を解くためであり、
真我に囚われて、真我を論じるためではない。
越えるべきものに、囚われるのは、転倒である。」
心から感動して、チッタは、このように言った。
「ああ、これは、とても、妙なる教えです。
さながら、暗闇の中で、灯火を掲げるように、
仏陀は、私の見えない目に、見せてくれました。」
「仏陀よ、これより、この命が尽きるまで、
私は、心から、仏と法と僧に帰依し奉ります。
三宝の帰依者として、どうか受け容れて下さい。」
こうして、象使いのチッタは、出家を果した。
そして、戒律を受けて励み、阿羅漢に到達した。
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