坂東三十三観音霊場記巻之一 沙門亮盛輯
第一番相模國鎌倉杉本(現在も「第1番大蔵山杉本寺(杉本観音)」)
風土紀に曰く、足軽明神は昔狩人なり。或時寵妻に離れて悲傷有り。故に常に亡妻の鏡を見て之を思ひ模(すがたを)相(みる)こと亡妻を見るが如く也。竟に其の鏡を以て祠って神と為す。仍って當國を呼んで相模と称す也。相は見也。模は形也。詞林采葉抄(南北朝時代の万葉集注釈書)に云、昔大織冠鎌足公、宿願に依て、鹿嶋に参向す途にて由井の里(鎌倉由比ガ浜)に宿す。其の夜八幡の霊告を感ず。即ち神勅に任せて持する所の陳鎌を以て大倉山の松之岡に納む、故にこの地を鎌倉と称す云々。
鎌倉郡大蔵之谷二階堂観音院は行基大士首剏の梵場にして慈覚(天台座主第三祖)恵心(往生要集の著者)恢弘の霊迹也。其同殿三躯の十一面の像は大悲者為に現じて彼の三師をして之を彫らしむ。知るべし、三師の亦大権なることを。爾より来た伽藍の窪隆幾番也。武将頼朝卿再び締構を加て殆ど𦾔貫に復す。後に古號を改て大倉山杉本寺と称す也。皇統四十五世聖武天皇の馭宇、行基大士天勅を蒙り佛法弘通の為に日本國中を巡り、或は霊場を開基し、或は佛菩薩の像を彫り、普く度生の方便を布玉ふ。然に大士、此地に至り行暮て一樹の下に錫を掛け定に住して通夜し玉ふ。時に夜も三更に過る頃、其の寓休たる樹上に於て殊勝なる音楽の調あり。大士定を起て見玉へば柏樹の梢に紫雲系り、十一面観自在尊四十七の眷属に囲遶せられ光明赫奕として在める。大士未曾有の感に堪ず。仍に彼樹下を匝て作礼称号して時を移す。既に暁の頃に至て漸く虹の消が如く件の尊容見え玉はず。大士此由を土人に語て所由を尋玉へば、村老答て曰く、昔より斯る土人夜光木と称すると。越て大士彼の靈柏を伐り、終夜感見の尊容を模し手親(てずから)十一面の形像を彫み、長五尺餘、即ち夜光木の地に就て山を夷げ茅棘を芟、一宇の艸堂を結び、其大悲尊像を安置して二階堂観音院と号す。是此杉本寺の椎輪なり。釈の亝遠(さいおん)は周州人、法華の持者なり。初め東寺に居し後に故国に皈る。山寺に住して常に誦経怠らず。冬大雪降りて三旬、人跡を絶つ。遠既に飢渇に及ぶ。一の狼庭に来り鹿を殺し去る。遠、其の鹿を煮て喫ひ、先の如く法華を誦す。後に鍋を掲げて之を見れば柏木を削るの木屑耳。然して本尊十一面の像を見るに其の腰股に於いて切削の痕あり。乃ち狼と鹿とは大悲変化の所為なるを知也云々。是十一面の像材柏樹を用るの事相似たり。故に今併せ引く焉。
人王五十五代文徳帝の仁寿年中、慈覚大師、絵之州(江の島)へ社参あり。下向の路鎌倉へ意差て七里の濱を過玉ふ。しかるに小餘綾の磯辺に於いて浪打寄する古木あり。大士其の香気の貴きを怪み近き見玉へば、沈水香木にして本の方に蟲喰の痕あり。即ち十一面陀羅尼の文句字相自然に具わりぬ。大師是を杉本寺に持来り本尊薩埵の㚑告に任せ手自十一面の像を彫玉ふ。當寺第二の尊像此なり。此の香木、天竺南海崖に産す。其実は鶏舌、其花は丁子、其脂は薫陸、水に入りて久き者を沈水香木と為す。久しからざる者を淺香と為す。本艸香木の部に見ゆ。
人王六十五代花山院の御在座の時、北埜天神の託宣に依て、菅神の本地佛は十一面観音也。頻に恵心僧都に勅して十一面大悲の像一躰、一刀三礼にして作らしむ。即ち彼の神霊の告げ任て遠く當寺へ御贈納なり。右三躯の十一面の像、各々御長五尺餘なり。本より三躰同殿に安置して共に本尊と称し奉る。尒に大悲度生の方便にや。男女貴賤の分ちなく、馬にて門前を過るには必ず落馬せざる者なし。門前は滑河附の街道也。此の故に土人下馬
観音と称す。鎌倉第六代崇尊親王の執権相模守時頼公の時、建長寺の開山覚禅師(宋僧道隆)上意に依て當寺に来たり七箇日夜懺法修禅して袈裟にて本尊の御首を覆ひ奉る。行基大士彫刻の像也。斯て後は門前落馬の祟なし。是の故に又覆面の御袈裟今に損せず。是故に世々の住僧等も秘像の面貌を拝する者なし。
往古隣家に失火あり。風烈くして猛火を吹かけ、諸房倐ち焼亡して火已に御堂の軒端に移る。時に住僧浄臺法師悲嘆涕泣して御堂に至り(本堂の地、自坊より数十段の石階を登る)本尊を出し奉んとするに、猛火の餘煙に眼を閇られ更に前後も辨へ難し。袈裟や衣は燃焦るれdども、曽って退く心なく、菩薩は師恩の為に我左右の臂を焼玉ふ。況や我等凢愚の身、豈聊も惜に足んや。若本尊焼失し玉ひなば縦ひ我存へても益あらじ。所詮此身を本尊に奉ると。高聲に大悲の名號を称へ猛火の中へ走り入ける。尒時、後の方より浄臺々々と呼者あり。浄臺是を背向見れば不思議や三躰の観世音庭の大杉の本に立て光明を放って在しける。浄臺夢かと訝る心地感涙我墨染の袖を絞る。大悲の像前に跪き至信に普門品を誦し奉る。実に火坑変じて池と成るの金言空しからんや。黒雲忽ち青空を鎖し降雨頻に大河を成す。熾盛の猛火立ろに消て虹染以下は焼残りぬ。是単に大悲の威神力と浄臺専信の至す所となり。尒後彼の大杉の本に就て本尊の御堂を再営せり。此時特に諸人崇敬して杉本の観音と称し奉る。此當寺を杉本寺と号する因縁也。
建久元年庚戌(1190年)の春、頼朝卿御願成就に依て伽藍の御再営あり。同二年九月十八日落慶供養の時、大法會聴聞の為公直に御佛詣あり。観音堂香花の料として多く田畠等を寄附し玉ふ(東鑑の中に見ゆ)。又本尊特に秘像にして輙く開扉を許すことなし。仍て巡礼者の拝する為に大佛師法橋運慶をして新に十一面の像を作らしめ、本尊宮殿の前に安置し玉ふ。其の左に毘沙門天(法眼宅間の作)右に延命地蔵(安阿弥作)。
人王六十五代花山の院は六十三代冷泉院の長子、永観二年(984)の即位なり。然に弘徽殿の寵妃を亡ひ頻に有為の世相を厭玉ふ。在位僅に三年の寛和二年986六月二十二日の夜、潜に王宮を脱れ出て往て花山寺に入玉ふ。其路安部晴明が宅を過る。晴明適暑を避て庭に在り忽ち仰ぎ見て驚て曰く、天に大變の象を呈す。此天子位を避の兆なりと。帝此言を聞て笑て走る。晴明大裡に入て事を奏す。群臣驚き覩に帝在さず。帝此夜花山寺に於て髪を薙し、法の諱を入覚と付せ玉ふ。宝筭時に十九歳なり(悉駄太子も十九歳にして都を脱して雪山に入玉ふ)。斯て畿内畿外の霊場を遊歴して又紀州那智山に入りて三年の間、山を出ず種々の苦行を為玉へり(已上釈書)。法皇那智山を出て大和の長谷寺に入り、諸國行脚の御願を立て三七日夜宝前に持念し玉ふ。其満ずる日の暁に至て香の衣の老僧来り親り法王の頂を摩て、汝有為の栄華を厭ひ早く無為の正路に皈く。是我随喜する所なり。坂東八州に於いて身を三十三所に現ず。其能霊場を知者は河州石河寺の佛眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行して徧く道俗男女を導くべし。誠に後生善處の方便には此第一の修行なり。是故に彼焔魔大王は徳道上人を冥帳中に入玉ふ。法皇夢覚て叡感あり。仍に石河寺へ御駕を輾し、佛眼上人辨光僧正良應上人元密上人傳光僧都満願上人威光上人都て八人の御同行にて正暦元年(990)庚寅の春、初て坂東八州を巡礼し玉へり。(佛眼上人は熊野権現變身なる事、巡礼の功徳を誌す。焔魔王の印璽は摂州中山寺有る事、西国巡礼の事は永延二年1559戌子三月十五日那智山より始等、具に西国縁起真鈔に見へたり)
巡礼詠歌 頼ある印なりけり杉本の誓は末の世にも替らじ。
上の句は印の杉と云古歌の詞を取て、今の此杉本寺に詠合す。凢そ巡礼の行者、二世の安楽を欣ふ的は唯此の杉本寺の観音なりと(降雪に杉の青葉も埋れて印も見へぬ三輪の山もと。歌枕に見たり)。下の句は行基大士の開基より千載を経るの間には幾番か伽藍の興廃は有べし。唯古今平等なるは大悲の方便なり。
坂東第一番と成る事、其の故有ん乎。法皇の御願意は測り難し。且く愚意を以て敬み思ふに、行基慈覚恵心の三師、各々十一面の尊像を作り、三躰同殿に安置して同く杉本の本尊と為玉ふ。十一面三躰を算れば三十三の悲願分身に宛る。是れ其の第一番に在って四八の霊場を發く由乎。又廣く坂東八州に亘て僅に三十三所を定る事、豈等閑の因縁ならんや。今時観音の浄刹を要めば三十三所を得る事唯一州をも過ぐべからず。尒に那古の濱、八溝の嶺などは一箇所の霊場を拝するに数日の間難所を往き返するも是又救世者の方便ならん乎。我が同志の者唯仰で信ずべし。努力て巡礼すべし。
武州八王子の辺、大幡村下山氏の某、坂東丗三所を巡り皈國の後、大に患ひ甚だ後悔の心起り、由無き事に物を費し身も疲れ心も安からず、又何の利益をも得ず。斯る無益の事を為んより但我家に在りて念佛陀羅尼等を唱へ身安くして後世を願ふこそと。常に往し事を恨み居たり。尓に永禄二年(1559)の春、同里の者巡礼を思立て路の案内をも聞かばやと打連れて彼の人の許に行て、志願の赴きを語りける。彼元後悔の心あれば無益の事ぞ止玉へと我が思ふ長を云ひ妨ける。各々是を聞て心変り、徒く其善行を止去ぬ。翌日一人の旅僧来り内へ立ち入り茶など乞て少時休息出去しが、一の包を捨置きぬ。是は旅僧の物忘し玉ふと、主人其包を提持て跡を尋るにはや其影だも見へず。唯今立出玉へば未だ遠くは行去じと近き辺を走り行れど曽て披き見れば我坂東巡礼せし時の散物路銀等合わせて金二両三分銀七百五文。其外札笈摺等巡礼に費し品なれば、残る物なく返されたり。是を見て大きに驚き涙を流し我が慳貪愚昧の心より斯る現罰を勾引(いざなひ)再び坂東の霊場を巡り其の返されたる札笈摺等當寺に納めて後の鑑と為す也。行者要心集云、二人を勧進するは自身の精進に同ず。若し十人に至れば福徳無量なり。若し百千人を勧むれば真の菩薩。若し萬数に過ぐれば即ち阿弥陀仏なり。斯の如く勧善の功徳廣大なり。然に彼の下山氏は他者の善行を妨ぐ。豈其罰を受けざらんや。