福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東観音霊場記(亮盛)・・・3/31

2023-08-03 | 先祖供養

 

第二番同國岩殿寺(現在も第2番は海雲山岩殿寺(岩殿観音))

相州三浦郡久野谷郷海前山岩殿寺の由来は皇統四十五代聖武帝の馭寓、大和長谷寺の開山本願徳道上人初て當國に下向し、鎌倉郡霊山が碕にて修行せらる。一日山に登って眺望し玉ふに遥に巽の方に當って空中には彩雲靉靆、地よりは光気の雲中に衝入るを見る。爰に上人奇異の念を発し錫を飛して彼の光を尋るに一里余の山谷を過て聳然たる奇峰あり。其の険阻なる輙く登べからず。意を策して樛木(つがのき)の蘿を攬り葛藟(くずかずら)の茎を援て恰も天台の石橋岐岨の桟道を踏が如く漸く攀陟して瑞光の所に到るに、三方は自然に岩峙て屏風の如く、一方は海門遥に扉を開き、近くは三浦三碕の津を臨み、遠は南海渺焉として目力を恣にす。其中央の地は石平にして苔莓滑なるを踏む。宲に清浄無塵の禅崛なれば餘所にかわれる霊瑞も有るべしと上人縄床に坐して観誦し玉へば、夜も三更に及ころ、三方峙てる岸壁に響て何處となく十一面陀羅尼(オン・マカキャロニキャ・ソワカ)を唱る聲あり。上人不思議の懐をなし、俱に彼の陀羅尼を念誦し在れば一方の嵓壁光明赫奕として十一面観音影向し玉ふ。時に麓の方より一の老翁来り。同く其尊容を拝して上人へ対し此の所は大悲垂應の霊洞なり。我跡を垂て守護すること久し。我栖𦾔なれば花を祭るの山なりと語り畢りて化し去りぬ。越て上人思らく、彼の翁は熊埜権現なるべしと。紀州熊野の土俗、此の神を祭るに、花の時、花を以て祭ると云。古今集に云、白河の院熊野に詣で玉ふ時、路の傍の花盛を見玉ひて、咲にほふ花のけしきを見るからに、神の慮ぞそらにしらるる。神社考に見ゆ。則ち木を伐り石を畳て社を構へ祠て、佛場興隆の鎮守と崇む。然して麓の里人に告げて曰く、此山、後に大悲の浄刹に成べしと。斯く丁寧に遺嘱して大和の國えぞ帰玉ふ。案の如く数年を経て行基大士此の地に来り、瑞光を見て此峯に登り大悲者の影向を拝する事、徳道行基両上人を開基と云。又大悲殿前に南海を見径せば、山を海前と名け、岩崛の𨗈述(ありさま)自然に殿堂の如なれば、寺を岩殿と号す。

巡礼詠歌 極楽を此に見浦の岩殿や、尚行末の頼しき哉。

歌の意は、我等巡礼の行者、今此に大悲者の立せ玉ふ娑婆の浄土に来て靈地霊佛に結縁すれば、一生涯の後には必ず往生浄土の叓更に疑ふ所なしと安心決定の感吟なり。極楽と云は、今在西方名弥陀娑婆示現観世音の意也。岩殿は札所の内に三箇所あり。今此は三浦の岩殿なり。「行く末」とは近くは巡礼者の旅行、遠は未来也。頼朝卿、蛭之児嶋に在す時、文覚上人の勧に依て厚く當寺の本尊を信じ、時々夢想の告を蒙り、戦場の危きに臨ては幾番か大悲の冥助を得玉へり。中にも石橋山敗軍時は、観世音舩人と化て、公を房州洲崎へ渡し、忽ち十一面の妙容を顕して三浦の方へ飛び去玉ふ。是の故に公、御治世の間には、毎月の御参詣あり。御願皆此尊に祈玉ふ(東鑑の中に見り)

按に十一面観世音除疫病等の悲願、經軌の所説分明なり。爰に南都二月堂の牛王と云ことは、往古實忠和尚、兜率の内宮に神遊して四十九重の摩尼殿に登り、常念観音院にお井て修法の儀軌を聖衆より傳へ、また其の法を修する本尊を祈求せしに、一時、摂州浪華の浦に遊び忽閼伽器の浪に浮来を見る。其の器中に十一面の銅像在す。其の長七寸許にして暖かなること人膚の如し。實忠喜び持して南都に帰り、東大寺に羂索院を建て毎歳二月二十七日の間彼の尊像に対して兜率軌を修すること天平勝寶四年753より大同四年809に至て五十八箇年お怠ことなし。是を時俗号して修二月の法と云。其の院殿を二月堂と称す。これ牛王加持の法なれば則ち二月堂の牛王と云。その印文は「南無頂上佛面除疫病 二月堂 南無最上佛面願満足」。實忠此密軌を修する時、初更に至て本朝諸州の神を請じて、其の名簿(神名帳也)を讀て法味を供ふ。この時、若州遠敷明神此の法會に豫り、渇仰の餘り、人に託して曰く、願くは永く閼伽水を獻ぜんと。忽ち黒白の二鵜地を穿て飛出、その鳥の迹より甘泉涌出す。今の二月堂の閼伽井是なり(元亨釈書、本朝僧傳に見。遠敷明神は神名帳に、若狭比古の神社と云。又具には類聚国史及に日本逸史等に見たり)。今も牛王加持の法を修するにはその閼伽水若州の無音川鵜瀬の淵より涌来ると。井の底浅くして常に一滴の水なし。毎歳二月朔日の初夜修法の行者閼伽井に向ひ、遠敷明神を祈念すれば須臾の間に水涌き出る。此の霊水を以て墨を研り、牛王符札を印てんす。若し人、疫癘瘧鬼祟あらんに、此の牛王の影を見ずに照して服すれば千に一も癒ざる者なし(三才圖會)。又曰く、牛王の字は生土の二字なり。生の字の下の横の畫離て土の字の上に付きたるを牛王の字に見誤ること久し。熊野の符札には烏七十五隻を以て熊野生土(うぶすな)宝印の六字となす(三才圖會)。愚按ずるに此の字誤の義は臆説にして信じがたし。谷響集の考る處は本説を出す。

我桑域諸寺諸社國家の禳災、萬民の除疫の為に、修正修二月等の法有りて而して符印を出す。是を牛王寶印と名く。然も其の名義に付て多く浮説有り。論ずるに足らず。今謂く、牛王とは佛の異名なる故に涅槃経第十七に云、如来を大沙門人中の牛王、人中の丈夫と名く(大般涅槃經卷第十八梵行品第八之四「善男子。云何念佛。如來應正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。常不變易具足十力四無所畏大師子吼。名大沙門大婆羅門大淨畢竟到於彼岸。無能勝者無見頂者。無有怖畏不驚不動。獨一無侶無師自悟。疾智大智利智深智解脱智不共智廣普智畢竟智智寶成就。人中象王人中牛王。人中龍王人中丈夫。人中蓮花分陀利花。調御人師爲大施主大法之師」。)又娑婆論に底沙佛を讃じて丈夫牛王大沙門と云(阿毘達磨大毘婆沙論卷第一百七十七「以一伽他讃彼佛曰 天地此界多聞室 逝宮天處十方無 丈夫牛王大沙門」)是也。寶印とは佛の種子の梵字を刻んで之を印す故に牛王寶印と名く。此の儀本十一面神呪經に由りて起こる。十一面の中の頂上佛面は即ち阿弥陀なり。彼の佛の種子梵書キリク字に禳災除疫の効能有り。又餘の諸佛菩薩諸尊の種子の字を符印と為すことも皆之に準ずべし(谷響集)。

唐の玄奘三蔵の譯の十一面神呪經に云、若し此の神呪を成立せんと欲さば、當に先ず堅好無隙の白栴檀香を以て刻んで観自在菩薩の像を作るべし。長一磔手半、左の手には紅蓮華軍持を執り、右臂を展て数珠を掛け、及び施無畏の手に作す。其の像十一面に作る。當に前の三面は慈悲の相、左邊の三面は瞋怒の相、右邊の三面は白牙上に出る相に作り、當後の一面は暴悪大笑の相に作り、頂上の一面は佛面に作る。像の諸頭の冠の中に皆佛身を作るべし。其の観自在菩薩は、身上に瓔珞等の種々の荘厳を具す云々。又三經耶舎崛多の譯あり。阿地瞿多の譯、不空三蔵の譯あり。説相大同小異なり。故に繁を恐て出さず。谷響集に云、相傳の説の十一面は十一の佛菩薩名字あり。曰く頂上及び前は各の一面左右と後とは各の三面なりと。此は本説なし。信じ難き也。經説を按るに別名有ること無し。前と左右は各の三面、頂上と及び後とは竝に一面也。

 

 

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