71番弥谷寺から72番曼荼羅寺までは3km弱です。しかしここでも車道の標識ばかりみていると遍路道を見失ってしまいます。丁度車道と遍路道の別れ道にさしかかったとき、洗車していたおじさんがにこにこしながら近ずいてきて「そっちは車のための標識。こっちへいって2つの池の間を通っていくと右が出釈迦寺、左が曼荼羅寺。」と注意してくれたことがあります。なおもいくとゴミ捨て場があります。ずっとひろってきた遍路道のゴミをすてようとすると地元の人らしき中年の女性がいます。ときどきゴミ捨てを断られるのでおずおずと「遍路道のゴミですがすてていいですか?」と聞くと「ありがとうございます。」といわれました。感激と安心でほっとしました。
平畑良雄「四国遍路」には「72番曼荼羅寺は大師の先祖佐伯氏が氏寺として推古4年(596)建立され世坂寺と称していたが大師が帰朝後に大日如来を勧請、大同二年金胎曼荼羅を安置、唐の青龍寺に模して堂塔を建立、我拝師山曼荼羅寺と改めた。・・境内には西行法師の「笠懸松」「昼寝石」がある。・・」とあります。
72番から73番は400メートルしかありません。
1回目は夕方に73番出釈迦寺につきました。境内から奥の院の「捨身が岳禅定」がそそり立って見えました。寺族の方は「きょうは遅いので明日朝地元の人の朝参りについていくといいですよ」と教えてくれました。
境内には捨身が岳の解説があります。
「捨身が岳禅定、弘法大師七歳の御時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方の菩薩に念じ「我仏法に入て一切の衆生を済度せんと欲す、わが願い成就するならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与えたまへ、成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉る」と唱え、断崖絶壁の頂きより白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給へる。紫雲の湧き起こらせる中に釈迦牟尼仏百宝の蓮華に座しご出現せられ羽衣を身にまとうた天女天降り大師を抱きとめ「一生成仏」と宣り玉ふ。この神秘不可思議なるを世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身が岳に寺を建立しご本尊釈迦牟尼仏を安置せられる。爾来捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心なり。捨身が岳出釈迦寺」
と書いてありました。
すぐ下が遍路宿でしたので此処に泊まり、翌日暗いうちに起きて沐浴し、月明かりの中にそそり立つ奥の院目指して登りはじめました。
平畑良雄「四国遍路」には「72番曼荼羅寺は大師の先祖佐伯氏が氏寺として推古4年(596)建立され世坂寺と称していたが大師が帰朝後に大日如来を勧請、大同二年金胎曼荼羅を安置、唐の青龍寺に模して堂塔を建立、我拝師山曼荼羅寺と改めた。・・境内には西行法師の「笠懸松」「昼寝石」がある。・・」とあります。
72番から73番は400メートルしかありません。
1回目は夕方に73番出釈迦寺につきました。境内から奥の院の「捨身が岳禅定」がそそり立って見えました。寺族の方は「きょうは遅いので明日朝地元の人の朝参りについていくといいですよ」と教えてくれました。
境内には捨身が岳の解説があります。
「捨身が岳禅定、弘法大師七歳の御時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方の菩薩に念じ「我仏法に入て一切の衆生を済度せんと欲す、わが願い成就するならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与えたまへ、成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉る」と唱え、断崖絶壁の頂きより白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給へる。紫雲の湧き起こらせる中に釈迦牟尼仏百宝の蓮華に座しご出現せられ羽衣を身にまとうた天女天降り大師を抱きとめ「一生成仏」と宣り玉ふ。この神秘不可思議なるを世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身が岳に寺を建立しご本尊釈迦牟尼仏を安置せられる。爾来捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心なり。捨身が岳出釈迦寺」
と書いてありました。
すぐ下が遍路宿でしたので此処に泊まり、翌日暗いうちに起きて沐浴し、月明かりの中にそそり立つ奥の院目指して登りはじめました。